第19話 彼の者の宿命
「逃がさん」
屋上を見下ろす高さまで跳躍したガガーリンは、地面に引っ張られるように屋上のヘスに向け落下を始める。はるか上空から巨大な鉄球が落ちてくるような猛烈なスピード。
「うおっ!」
轟音を轟かせガガーリンの身体が屋上に突き刺さった。
間一髪ガガーリンの蹴りを躱したヘスだったが、屋上が紙細工の様に拉げ、音を立て崩れ始める。
なんつー蹴りだ。食らったら致命傷どころの騒ぎじゃない。
「小僧、それはお前が持つべき代物ではない。おとなしく渡せば……苦しまずに殺してやる」
ガガーリンの抑揚の無い言葉がヘスの心を刺す。
その声にヘスは即座に理解する。その言葉はハッタリじゃない、と。
だが、頭で考える前にヘスの身体は動いていた。すでに傾きつつある屋上をヘスが全力で走り出す。だが、靴の摩擦が無くなり、身体が後ろに滑る。
「クソッ! てめぇなんかに殺されてたまるかよッ!」
俺はララの元に行くんだ。
しかし建物が崩れるスピードが速い。ついに後ろに滑るスピードがヘスの脚力を凌駕した。
「……良し。そのままこっちに落ちて来い」
ガガーリンが身体を捻り、右手に力を貯める。落下に合わせて顎に拳を打ち込み、首の骨を粉砕して、終わりだ。
ヘスの目にもそれを狙っているガガーリンの姿が映る。
このままだとヤられる。だったら……
落ちまいとあがいていた両足をぐっと踏みしめ、逆にガガーリンに向い地面を蹴りだす。それと同時に身体を捻り、スピアーズから渡されたナイフを両手で握る。
「てめぇも道連れだッ!」
「……チイッ!」
ヘスの手に握られているナイフを見て、瞬時にガガーリンが身を逸らす。空中で軌道を制御出来ないヘスがそのままガガーリンが居た場所を通過し、ナイフが崩れ落ちる瓦礫に突き刺さった。
「うぉおっ!」
驚いたのはヘスの方だった。まさかガガーリンが身を避けるとは思っていなかった。それに、瓦礫にまるでバターのようにナイフが突き刺さるとも思っていなかった。
ジュウという焼ける音と臭いを発しながら瓦礫に突き刺さったナイフが、落下するヘスの身体を引き止めた。
「危なッ……ってうおっ!」
瓦礫に掴まることが出来、つい安堵したヘスだったが、それも一瞬だった。
ナイフを刺した瓦礫が空中に飛び出し、隣の建物に迫る。咄嗟に身を萎縮させたヘスは運良く瓦礫のサイズに収まり、そのまま隣の建物の部屋に飛び込んだ。
間一髪、運が良かったとしか言いようがない。
崩れ落ちる建物からも、あの死の宣教師のファーストアタックからも生き延びることが出来た。
「危ねぇ……助かった」
部屋に飛び込んだヘスをかすめ、轟音を立てながら先ほどまでヘスが居た建物が崩れ落ちていく。周りが全く見えないほどの粉塵が巻き起こり、まるで海の中の様な圧迫感と浮遊感が辺りを支配する。
だがヘスはそんな中でも逃げる事に躊躇しなかった。
素早くナイフを瓦礫から抜き取り、起き上がると脱出口となる部屋の入り口を目指し走りだす。
「……逃がさん」
背後から冷たい声が聞こえた。その声にゾクリとヘスの身が凍りつく。
自分を狙う、狩人の声だ。思わずヘスの喉から声にならない悲鳴が漏れる。
ベッドがあることから、飛び込んだのは寝室。すぐ近くに半開きの扉が見える。その先に見えるのは……玄関だ。
部屋の家主は居ない。玄関まで行けば逃げ切れるかも知れない。
そう思って寝室の扉に手をかけた時だった。
「……あッ!」
背後から強烈な衝撃がヘスを襲う。
建てられて結構な年月が経っている建物だったのだろうか。衝撃で古びた木製の扉に押し付けらた衝撃で、ドアの金具が壊れ、ヘスもろとも吹き飛ぶ。
そして今度は正面から衝撃がヘスを襲った。
地面に叩きつけられたのか、それとも壁に激突したのかは判らないが、そのどちらかだろう。
「ちょろちょろとネズミのように」
背後、それもすぐ近くでガガーリンの声がした。その動きを耳で感じながらもヘスはじんじんと痛む顔を両手で覆う。ぬるりとした物が指に感じる。出血している。
「う……ううっ……」
出血は良い。ナイフ、ナイフは何処だ。
血で濡れた右手で辺りを探り、ナイフの柄が指に触れたその時。
またもや背後からズドンと重い衝撃がヘスの身体を貫く。
「が……はっ……!」
ガガーリンの足がヘスの背中に刺さり、その小さな身体を壁に押し付ける。肺から酸素がすべて吐き出され、表現しがたい苦痛に、ヘスは全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
「小僧。もう一度言うぞ。そのナイフを渡せ」
「ぐっ……そんなに……大事なモンかよ……」
指でナイフを手繰り寄せ、ヘスはそれを力強く握る。
そこまで執着するもんだったら相当なモノなんだろう。生き延びるために簡単に手放せるか。
「スピアーズが何のつもりでそれをお前に渡したのかは判らんが、お前に扱える代物ではない」
「ンなもん……」
ヘスはチラリとガガーリンの姿に目をやると、右手に持ったナイフをくるりと逆手に持ち替えた。
「やってみねぇと判んねぇだろッ!」
ビキビキとヘスの身体が悲鳴を上げ、激痛が身体に走ったが、お構いなくナイフをガガーリンに向け振りぬく。
松明が振られ、炎が走る様な音がガガーリンを切り裂いたが、またもやガガーリンは身を退きナイフを躱す。
「……ビビってやがんなオッサン。このナイフに」
振りぬいたナイフの遠心力に任せるようにくるりと身を翻したヘスはナイフを突き出し、さらにガガーリンを威嚇する。
「そこを退けッ!!」
軋む身体を気合で動かし、ヘスが通路を塞ぐガガーリンに駆け出す。
ビビってるんだったら儲けもンだ。このまま押し通ってやる。
さあ、避けろ、と、ヘスがナイフをガガーリンに振り下ろす。
が、ヘスの小さな希望は死の宣教師の前に脆くも崩れ去った。
「うっ……!」
先ほどまで避けていたナイフをガガーリンが受け止める。ナイフの切っ先、ガガーリンの腕に先ほどまで付けていなかった白銀に輝く篭手がヘスの目に映った。肘から指先まで覆われた光り輝いている篭手だ。
「調子に乗るなよ、小僧」
やばい。ガガーリンの殺気が篭った目に射抜かれたヘスの背筋が凍る。
足の指先に力をいれ、距離を取ろうと後ろに重心をかけるが、そうはさせまいとガガーリンの拳がヘスのみぞおちを襲う。
バックステップしたことで威力が弱まったものの、ヘスを悶絶させるには十分だった。
前かがみになりながらドスンとヘスの身体が一瞬宙に浮く。
衝撃はみぞおちから背中を貫通し、身体の芯がしびれる。
「ぐ……うっ!」
ヘスは思わずその場に倒れ込みそうになる。
駄目だ、距離をとれっ。ヤられちまう。
朦朧とした意識の中、ヘスは必死に背後に下がる為に足を動かすが、上手く動かない。
そして下がるどころかそのままその場所に膝を付き、ヘスは神に許しを乞う餓鬼のようにガガーリンを見上げる格好になってしまう。
「……この篭手はそのナイフと同じように、司教様より頂いた聖騎士の遺産だ」
そう言ってガガーリンは壁に指を突き刺した。そして簡単に壁にめり込んだ指は粘土をすくうようにこぶし程の破片を壁から抜き取る。
「聖騎士の遺産はパルパスの三女神の守護者達が携えていた『神具』。その力は超常にして絶大」
と、おもむろに振りかぶったガガーリンは握った破片をそのままヘスに投げつける。
思わず身構えてしまうヘスだったが、信じられない光景がその目に飛び込む。
破片は空中で停止していた。
まるで紐で吊るされたようにくるくると回りながら空中で制止している、その非現実的な光景に薄ら恐ろしい感覚がヘスを襲う。
「なっ……」
「この篭手で触れた物すべてがゼロに戻る。重さ、衝撃、斬撃……」
更に破片を宙に放つ。すでにガガーリンの身体が隠れるほどの数の破片が舞っている。
「この先には行かせん。お前はここで死ぬのだ」
「……クソッ、こんなところでグダグダやってる暇はねぇんだよ」
ランドルマンといったあのサングラス野郎はガーランドさんとララの元に向かっている。早くいかねぇと、ララが危ない。
「それほどあの少女の事が大事か」
「当たり前だろが」
「安心しろ。すぐあの少女もお前の後を追う」
「……てめぇッ!」
そんなことさせるかよ。苦悶の表情を見せながらも立ち上がろうとするヘスだったが、足に力が入らない。
「どうした、さっきのガッツを見せろ。小僧」
地面にへたり込んだままのヘスを見て、ガガーリンがほくそ笑む。
だが、ヘスは何も返せなかった。すでに身体が限界に来ている。
「まぁ良い。さて、衝撃はこの篭手によってゼロになると言ったな」
うめき声を上げるしか術がないヘスにガガーリンが続ける。
「だが、その『能力』を解除すると……どうなると思う?」
白く痩けた顔に光る眼が獲物を狙う猛獣の眼に変わった。
と、次の瞬間――
「がっ……!」
ヘスの頬を宙に浮いた破片が襲った。
宙に浮いていたその絵からは想像出来ないほど強烈な一撃。ヘスの口が切れ、鮮血が散る。
「痛いか、小僧」
ヘスの頬に直撃した破片は大きく跳ね、壁に当たり四散した。
痛いどころじゃねぇ。あんなもんあと何発か食らっちまったら身体が吹っ飛びそうだ。
どこか悦に浸っているガガーリンの冷酷な顔がヘスの眼に映る。
「何か……」
何かねぇのか。笑っちまっている膝のせいで距離を詰めるのは無理だ。この位置から反撃できる何か。スピアーズのオッサンの様な遠距離から放てる炎のようなもの……
と、ヘスの右手に握られた熱を秘めたナイフが小さく震えた。
「さぁ、祈れ小僧ッ! 天に召すこの少年に、女神様の祝福をッ!」
ガガーリンの叫び声と、能力が解除され、破片達が一斉にヘスに襲いかかる時は同時だった。
「……ぐっ!」
破片の最初の一つがヘスの左肩を襲う。その衝撃で身体が大きく開き、左肩が背後に持って行かれてしまう。まずい、次の一発が来る――
その瞬間、ヘスは大きく右手を突き出した。ナイフが握られた、小さな右手。
ヘスの右手に持たれたナイフが赤く燃え上がり、その刀身がーー伸びた。
「まッ……!」
まさか。ガガーリンの表情が凍った。
そのまま激しく畝る火柱の様に轟々と燃え盛る雄叫びを伴いながら破片の隙間を縫い、切っ先がガガーリンの胸を射抜く。
「……このぉ小僧ぉぉッッッ!!」
ガガーリンはガード出来なかった。油断だった。まさか戦闘技術も無い子供があのナイフを使いこなせるとは。それが正に起死回生の一太刀になった。
だが、ヘスも無傷とは行かない。
二発目は間一髪避けることが出来たものの、三発目の破片が右太ももにあたってしまった。鈍い痛みが太ももから脳まで駆け上る。
「ぐぅっ!」
動きを封じられたヘスは、残りを躱すことは出来なかった。
次々に破片がヘスの身体を襲い、大きく弾き飛ばされてしまったヘスは壁にぶち当たりそのまま地面に昏倒する。
「こ、こんな事で……」
ガガーリンの胸を射抜いた炎の切っ先がその役割を終え、天に召されるようにその姿を消すと、その場所から鮮血が染み出てくる。
そして黒いローブにじわりと浮き上がった赤い花はやがてガガーリンの身体を伝い、地面に赤い影を落とした。
「小僧……」
霞むガガーリンの眼にうつ伏せに倒れたヘスの姿が見えた。破片の衝撃で服がボロボロになり、その隙間からヘスの背中が覗いている。
「成程……そういうことか」
その姿にガガーリンは納得した。
そして彼の中にサディスティックな欲望が湧いて出る。
このまま死ぬのは惜しい。この小僧とララとかいう少女がこの先どうなるのか見てみたい。
だが、忍び寄る悪寒と虚無感の波にガガーリンは飲み込まれる。全身の力が抜け、足先、指先から血の気が引いていくような感覚。
誰にも等しく訪れる「死」――
それが彼のその欲望を許すことはなかった。