第17話 携えた武器
「弾けろッ……」
最初の魔女の強烈な握力で悲鳴を上げている喉元からスピアーズはかすれる様な声を漏らした。
とにかくこの女のものとは思えない凶暴な握力を携えた腕から逃れないと、どうすることも出来ない。
スピアーズが言葉を小さく漏らした次の瞬間、甲高い破裂音が路地の湿った空気を震わし、彼が掴む最初の魔女の腕が小さく爆ぜた。
「……ッ!」
声にならない悲鳴を最初の魔女が放つ。怯んだ様子も無かったが、一瞬彼女の腕の力が弱まったのがスピアーズには判った。
刹那とも言える一瞬の隙。
だが、獰猛な悪魔の両腕から逃れるのには十分な時間だった。
スピアーズは両手を外側に捻り上げ、首と最初の魔女の手の間にわずかな隙間を作り、引き剥がすように彼女の腹部に強烈な前蹴りを放つ。
「女性を蹴り上げるのは、俺の『道徳』に反するんだが、仕方がないよな?」
スピアーズが何処か哀しそうな笑みを浮かべる。
こいつは女の面を被った悪魔だ。遠慮する必要は無い。先ほどスピアーズに蹴られた男と同じように最初の魔女も悶絶する……はずだった。
「……なッ!」
最初の魔女は多少ノックバックしたものの表情は変わらず氷のように冷たいままスピアーズを見つめている。
何の冗談だ。俺の蹴りを受けて飄々としている女が居るなどあり得ない。
その光景に今度はスピアーズに一瞬隙が生まれてしまった。凶暴な力を携える魔女に見せてはならない一瞬の隙。
「ハジ……ケロ……」
ギラリと最初の魔女の目が光った。
まずい。
最初の魔女と距離を置こうと一歩退がったスピアーズだったがすでに遅かった。突き出した最初の魔女の両手が青白く光ると、空気がその両手に収縮し、瞬時に破裂した。
キンという金切り音とともにすさまじい衝撃がスピアーズの身体を襲う。
「ぐッ……!」
スピアーズの目前で破裂した空気が彼の身体をおもちゃの人形のように弾き飛ばす。すさまじい衝撃で、木箱を粉々に弾き飛ばし、空調機のダクトを拉げさせながらスピアーズの身体は壁に叩きつけられた。
それはまさに一瞬の出来事。
「お、オッサン!」
ヘスが思わず叫んだ。身体が動かない。これまで「狩る」側だったスピアーズが「狩られている」光景がどこか非現実的な感覚をヘスに与えていた。
だが、これは紛れもない現実だった。
壁に叩きつけられた衝撃で、肺の中の酸素をすべて吐き出し一時的な呼吸困難に陥ってしまったスピアーズが朦朧とした表情を最初の魔女に向ける。
「て、てめぇ……」
怒りに身を震わせるスピアーズだったが、最初の魔女が放った一撃で身体が悲鳴を上げる。思わずその場に崩れ落ちそうになるスピアーズだったが、片膝を付き気力で耐える。
身を起こせ、あのバケモノに隙を見せるな。攻撃しろ。
己の身体に命令を与えるスピアーズだったが、一時的に指示系統を遮断された彼の身体は動かない。
そして、そのバケモノはそれを見逃さなかった。
「ツブ……レロ」
最初の魔女が青白くか細い右手をスピアーズに向け広げると、先ほどと同じようにその右手を中心に空気の層が歪み、収縮し、そして放たれる。
バキバキと舗装された石畳がその圧縮された空気に次々とめくれ上がり、スピアーズに襲いかかる。
「吹き飛べッ!」
気力を振り絞り、スピアーズが叫ぶ。
圧縮された空気がスピアーズの目前まで迫ったその瞬間、その圧縮された空気の進路を妨げるようにオレンジ色の炎がぐるぐると円を描きながら現れ、爆音とともに破裂した。
スピアーズの魔術だ。
手加減などしている余裕はない。全力でこのバケモノを処理する。
空気中に赤く燃え広がる炎の向こう、陽炎のように揺らめくスピアーズの表情がそう語っている。
「咲き乱れよッ!」
間髪入れず、スピアーズが続ける。
最初の魔女の足元が赤く光った。バージェスの村で見た、炎を立ち上らせるあれだ。たとえ最初の魔女といえども、あの炎を食らっては無傷とは行かないだろう。
地面の光りが更に増し、オレンジ色の粉塵とともに炎が立ち昇るその瞬間だった。
最初の魔女が左手を地面に向けた。
勝ち誇った様な冷笑と共に。
「テテ……レ……スタイ」
ズドンという衝撃音が辺りに響いたかと思うと、地面から放たれたスピアーズの炎の柱が最初の魔女の左手に吸い込まれる。
「なッ……」
思わず声を上げたのはヘスだった。
これは、あの時「禁呪」を止めたララが見せたあれだ。
まるで、スピアーズの魔術を吸い取るように立ち上るべき炎のすべてが最初の魔女の中に消えていった。
「『無に帰す盾』か……」
まさかその力までこのバケモノは使えるのか。
ひょっとしてと思っていたスピアーズだが、その現実に背中に冷たいものが走った。
魔術は使えない。
使えば……事態はよりまずい事になる。
「テテレ……スタイ」
最初の魔女が右手をスピアーズに向け、再度同じ言葉を口にした。
その瞬間、彼女の右手が赤く光ったかと思うと、巨大な炎の矢が放たれた。
それは先ほどスピアーズが放った物と酷似した炎。
「……チッ!」
スピアーズの予想は的中した。魔術を無に帰す「盾」が使えるとすれば、それと対になる命を無に帰す「矛」の力も使えて当たり前か。
スピアーズは己の足に力が戻ったことを確認して身を翻すが、彼の身をかすめた炎の矢は壁に激突すると、すさまじい衝撃と爆風を放つ。
辺りに粉塵と壁の破片をまき散らし地響きが響き渡る。
「オッサン!」
直撃は避けたとは言え、あの爆発ではスピアーズは無傷とは行かないだろう。俺にできることは無いかもしれないけど、このままじっとしている事は出来ない。
最初の魔女に近寄る事は自殺行為に等しいが、構わずヘスは走りだす。
……だが、すぐにヘスの足は地面にへばりついたまま動きを止めた。
粉塵の向こうに見えるのは、スピアーズの首を掴みあげる最初の魔女の姿。
「て、テメェッ! オッサンを離しやがれッ!」
剣を構え、ヘスが威嚇する。
何故か無性に腹が立つ。この最初の魔女の姿を見ているとイライラする。
ふつふつと怒りが湧いてくる。
「やめろ……ヘス君」
「離せッツってんだろッ! この野郎ッ!」
弱々しくスピアーズが制止するが構わずヘスが動く。
大きく一歩踏み込み、ヘスが最初の魔女の背中を斬りつける。普通であれば致命傷になりかねない一撃。だが、ヘスの剣はまるで鉄の塊を斬りつけたかのように鈍い衝撃とともに、動きを止めた。
「硬ッ……」
人間とは思えないほど硬い。どんな身体してやがる……。
ヘスが両手に伝わってくる衝撃からそう言葉を漏らそうとした瞬間、腹部に強烈な衝撃を感じた。
最初の魔女の蹴りだ。
女の物とは思えないその強烈な蹴りでヘスは宙に浮き、再度壁に向い吹き飛ばされてしまう。
「ぐぅッ……!」
悶絶する激痛がヘスを襲う。
立つことも、息をすることさえも出来ない激痛。ヘスはそのまま腹部を押さえうなだれるしか出来なかった。
ドサリとヘスが倒れこむ音が静かに舞う。
幕間の静寂が辺りを包み込んだ。
最初の魔女の前に佇む、絶望に支配された静寂だ。
「……すばらしい」
ポツリとまだ粉塵が舞い散る路地にハサウェイの冷めた声が響いた。
「魔術を吸収する『無に帰す盾』と、吸収した魔術を放つ『無に帰す矛』……なんと素晴らしい力」
ハサウェイが満足気にクククと肩を震わせる。
「チッ、不快な物を」
だが、ハサウェイとは対象的に、怪訝な表情でランドルマンが最初の魔女を見ながら呟いた。
「あは、申し訳ありません。貴方には酷な物ですよね」
「……このままここに居ては俺がオリジンを破壊しかねん。先に行く」
「どうぞ」
「二人とも確実に処理しろ」
「わかっていますよ」
ランドルマンの顔を見ること無く、まるでひとりごちるようにハサウェイが言葉を漏らす。
先に行くというのは、ガーランドさんやララの所に行くという事か。
待て、とヘスは口にだそうとするが、胃が痙攣して言葉が出てこない。歯がゆい怒りがヘスを襲う。
「なんともまぁ、情けない姿ですね。スピアーズさん」
どこか命令を待っているように佇む最初の魔女に絞り上げられているスピアーズにハサウェイが呟く。
「ク……ククッ、死の宣教師が……協会のパシリか、ハサウェイ」
苦痛の表情を見せながらも、スピアーズがハサウェイを卑下する。
「……あはは、まだそんな口が効けるんですか」
ハサウェイが嘲笑すると、最初の魔女がスピアーズの首をさらに絞り上げた。
骨が軋む音が脳に伝わり、苦悶の表情を見せるスピアーズだったが、その目は変わらずハサウェイを睨みつけたままだ。
「だから言ったでしょう? 僕は以前と違うって。貴方にいいようにやられていたあの頃とは違うんですよ」
「何も変わっちゃいない……ね」
ぴくりとハサウェイの頬が引きつる。
「己の力への過信。そこから生まれる油断。やはりお前は……三流だ」
「……何だって?」
その言葉にハサウェイの空気が変わった。
変わらず冷めた笑みを浮かべてはいるものの、目は笑っていない。凶器じみた殺意が滲み出るようにその両目から漏れだしている。
「僕が……三流? ハッ、その状態でよくもそんな事を言えるものですね」
「ククッ……苛立ちを見せるということは、図星か?」
スピアーズがわざとらしくハサウェイを挑発する。そのまま最初の魔女が手をひねればスピアーズの首の骨は粉砕されてしまうだろう。明らかな絶体絶命の状況。
だが、有利なはずのハサウェイが次第に心理戦で後手に回ってしまっているのはヘスの目にも明らかだった。
スピアーズが何かを狙っている。
「ハサウェイ」
スピアーズのその狙いを察してか、ガガーリンがハサウェイを制止する。
奴の思惑に乗る必要はない。このまま奴の首をひねれば終わりだ。
「冷静になれ。スピアーズの口車に乗るな」
「無駄だよ、ガガーリン。三流のハサウェイは冷静さを持ち合わせていない」
「……ッ!」
ハサウェイがガガーリンの制止を振り切り、スピアーズの元へ走りだす。
「ハサウェイ!」
「誰がっ……!」
激昂したハサウェイが感情に流されるまま、スピアーズの脇腹を蹴り上げた。
スピアーズの身体がくの字に折り曲がり、一瞬宙に浮き上がる。衝撃が左わき腹に抜け、全身をしびれるような激痛が走り抜けた。
「ぐあッ……!」
「誰が三流だッ!? ああっ!? 訂正しろッ!」
続けざまにハサウェイの拳がスピアーズの頬を襲う。
スピアーズの唇が切れ、鮮血がほとばしる。
「ククッ……本当の事は……訂正する必要無いだろ……」
「僕の……僕の『人形』に屈しているお前が三流だ! スピアーズ!」
見ろ、あの時とは逆の立場だ。あのスピアーズが僕の前にだらしなくなすがままになっている。
今や僕が「上」でスピアーズが「下」だ。
ハサウェイの手が最初の魔女の手を押しのけスピアーズの首元を掴む。
「いいでしょう、僕の手で殺してあげますよッ……」
完全に最初の魔女の手が喉元から離れた。
来た。スピアーズがその時を待っていた。
魔術を無効化させる力を持つ最初の魔女の手から離れるその時を。
「……舞い上がれッ!」
スピアーズの声が路地に響き渡る。
魔術の発現の声だ。
魔術でハサウェイもろとも最初の魔女を吹き飛ばすつもりなのか。
だけど最初の魔女にはあの力がある。彼女の腕から逃れたと言っても、効果はあるんだろうか。スピアーズの叫び声に一抹の不安がヘスの脳裏に浮かんだその時だった。
「えっ……?」
ヘスの足元が青白く光る。
え、なんで俺の足元が光るんだ。ヘスが困惑した表情で足元に視線を送る。
だが、ヘスに考える時間を与える前に、スピアーズの魔術は発現した。
「……ファッ!」
足元から吹き上がったのは炎ではなく、風。
しかしその風は安々とヘスの身体と辺りに散らばっていた残骸達を舞い上がらせる。
「のわぁぁぁぁあっ!?」
ひと瞬きしたヘスの目に飛び込んできたのは、眼下に見えるスピアーズとハサウェイの姿。そして建物の屋上。
咄嗟の事に事態が把握できなかったヘスだったが、間一髪屋上に小さく張り出したパラペットに手をかけた。
「チッ、ヘス君をッ……」
舞い上がったヘスに一瞬ハサウェイが気を取られる。
そのタイミングをスピアーズは逃さない。
「ククッ、だからお前は三流なんだよ、ハサウェイ」
「……ッ!」
首を掴むハサウェイの腕をねじ上げ、腹部に膝を撃ちこむ。
先ほどのダメージからか、ハサウェイの芯を捉えていない膝だったが、不意の反撃に思わずハサウェイは身を翻し、距離を置く。
「オッサン!」
屋上に這い上がったヘスが眼下を見下ろす。
まさか、俺を逃がすために?
またヘスの脳裏に怒りが湧いてくる。非力で何の役にも立たない自分に対しての怒り。
「クソッ! 何でだよ!」
「行けッ! ヘス君! ランドルマンより先にララ達を見つけろッ!」
「畜生ッ!」
地上に降りるためにヘスは配管に足をかける。
いつも俺は守られる側だ。禁呪の時も、バージェスの村でも、ここでも。
守られるのはうんざりだ。
俺を守るために誰かが傷つくのはもう、うんざりだ。
「来るなッ! ヘス君!」
「オッサンを置いて行けるかよッ!」
と、舞い降りてくる残骸の中、赤くぼんやりと輝くナイフがヘスの目前に刺さった。
まるで、炎が具現化したかのような熱を放っているナイフだ。
「な、何……」
「それは餞別だ。それを持って走れッ!」
スピアーズの叫び声がヘスの耳に届く。
まるでナイフ自体が「早く掴め」と誘っているかのように震えている。不思議なナイフだ。
ナイフの柄を握ったヘスの手のひらにじんわりと熱が広がる。
やはりそうだ。ナイフ自体が熱を帯びている。
「小癪な事を!」
ガガーリンが即座に動く。
彼の腕が光ったと同時に、ふわりと黒いローブが浮き上がった。「操重術」で重力をゼロに近づけた証拠だ。
「ヘス君、早く行けッ!」
「ハサウェイ、貴様はスピアーズを片付けろ。俺は小僧を始末する」
ハサウェイの返事を待つこと無く、ガガーリンが跳躍した。
重力から開放された彼の身体は先ほどのヘスと同じように空高く舞い上がり、地上から姿を消す。
「まさか司教様より死の宣教師に与えられる『聖騎士の遺産』を渡すなんて。あなたどうかしてますよ」
「……あれがあれば、ヘス君はただの子供じゃない」
「ただの子供ですよ。彼は無力な少年です。今のあなたと同じです」
と、最初の魔女がまるでハサウェイの伴侶のようにその傍らに寄り添う。
今だハサウェイは勝ち誇った笑みを浮かべたままだ。
運良くランドルマンとガガーリンが去った。
状況は悪いが、最悪でもない。
「ヘス君とそう長くいるわけじゃないが、な。あいつには武器が有る」
「武器? 何でしょう?」
「『諦めないガッツ』と、『大切な人への強い想い』だ」
「あはは、何ですかそれは。あなたらしくない」
思わずハサウェイが声を上げて笑う。スピアーズもまた釣られるように笑みを浮かべた。
「まったくだハサウェイ。実に俺らしくない」
薄汚れてしまった黒いローブをスピアーズが脱ぎ捨てる。
その下から現れたのは、引き締まった細い筋肉が収まった白いボディースーツ。
そして、両腕に刻まれた永久魔術。
「……第二ラウンドと行こうか」
「無駄ですよ。何度やろうと、あなたは僕を倒せない」
スピアーズが血で濡れた唇を拭い戦闘態勢に入る。一寸の隙も無い、ピンと張り詰めた弓の様な空気。触れるものを斬り裂く刃の様な怪しさ。
「俺を、舐めるなよ、ハサウェイ」
スピアーズの美しい中性的な顔に、悪魔の陰りが落ちる。
その表情はどこか、天使の哀哭のようにも見えた。