第16話 絶望の屍術
ガガーリンとハサウェイが動き出したと同時に、ヘスは背中に衝撃を受けた。
何が起きたか判らず、ヘスはつんのめる形で体勢を崩し、逆の壁側に吹き飛んでしまう。
「どわぁっ!」
ゴロゴロと転がりながらも起き上がったヘスの目に飛び込んできたのは、スピアーズの足。
ヘスを助けるつもりだったのか、邪魔だと思ったのかは判らないが、背中を蹴飛ばしガガーリンの目前からヘスを退かせたのはスピアーズだった。
「……安心しろ。最初の処理対象はお前だスピアーズ」
ヘスにはまだ手を出さん、とガガーリンが小さく囁く。
ガガーリンとハサウェイは魔術を使わない。スピアーズはそう予測した。この狭い路地で魔術を放てばお互いに被害を受ける可能性が高い。それに騒ぎが大きくなれば教会にとっても不味い事態になる。
となれば、体術による接近戦になるだろう。ハサウェイ達からヘス君を守りながら戦うのは容易だが、面倒以外の何者でもない。退場願った方が俺にとってもヘス君にとっても最良だ。
と、スピアーズがそう思った瞬間、ガガーリンが空き箱を踏み台にして跳躍した。
自ら自由の聞かない宙に舞うなど自殺行為に等しかったが、彼のそれは自殺行為などではない。ガガーリンの意図を知っているスピアーズは落下地点を予測し、身を捻った。
次の瞬間、ズゴンというまるで巨大な鉄球が地面に叩きつけられたかの様な衝撃と音が鳴り響く。空中に居たガガーリンがまるで地面に引っ張られるように先ほどまでスピアーズが居た地面を踏みつけていた。踏みつけた地面が割れ、破片が空を舞う。
彼の魔術の一つ、重力を自在に操る「操重術」だ。
「甘い」
身を捻ったスピアーズは遠心力を利用し、地面に突き刺さったガガーリンの足の膝を後ろから蹴りつけた。
ガクンとガガーリンの膝が崩れ腰が落ちと、上半身が後ろにそれ喉元から水月に至る急所が晒される。
そこの何処かを肘で叩きつければ終わりだ。
だが――
「それはこっちの台詞ですよ」
ハサウェイの冷たい声がスピアーズの耳に届く。
数名の男達と共にスピアーズに詰め寄る危険な光を放つ黒縁眼鏡。
ガガーリンへの攻撃を中断し、スピアーズは襲いかかる先頭の男に前蹴りを放った。
「……ぐほおッ!」
相手の力とスピアーズの強力な脚力が合わさり、スピアーズのつま先が男の腹部にめり込む。吐瀉物をまき散らしながら幾人かの男達を巻き添えに蹴られた男が吹き飛んだ。
だが、その男をスルリと躱し、ハサウェイの姿が迫る。
「遅いですよッ!」
突如ハサウェイのスピードが増した。
そのスピードのまま肘を突き刺すつもりか。
だが、加速したハサウェイに怯むこと無くスピアーズはその肘を手のひらで受けると、肘の軌道をいとも簡単に己の身体軸の外側に逸らす。
「速いだけじゃ駄目だ」
スピアーズは軌道を逸らしたハサウェイの腹を膝で蹴上げると、彼の身体は簡単に宙に浮き、ガガーリンの身体を押しつぶすように落下した。
「ぐあっ!」
「ぐっ」
圧倒的だった。
逆の壁にへたり込むヘスの目に映ったのは、圧倒的な力で二人の死の宣教師を赤子のようにいなすスピアーズの姿。
あの炎の魔術だけじゃない。その体術でさえも常人とは逸した暴力をこのオッサンは兼ね備えている。
「どうしたガキ共。もう終わりか?」
スピアーズが少し着崩れてしまった黒いローブを直す。
「……流石、ですね」
追撃を警戒したハサウェイが跳ね起き、ガガーリンはローブの埃を払うような仕草でゆっくりと立ち上がった。
青白い顔には多少怒りにも似た色が見える。
「本気で行くぞ、スピアーズ」
「……待ってください、ガガーリンさん」
腕をまくり上げ、スピアーズに詰め寄るガガーリンだったが、ハサウェイがそれを制止した。
その表情に焦っている姿は無い。ハサウェイは余裕の笑みを携えたままだ。
「僕の『あれ』で終わらせます」
「……フン。それを使いたいだけだろう、貴様」
「あは、まぁ、そうなんですけどね」
ハサウェイがほくそ笑みながらずれ落ちる眼鏡を上げた。
仕方ないと、ガガーリンが一歩後ろに退がる。
「余裕だなハサウェイ。俺に受けた三年前の『懲罰』をもう忘れてしまったのか?」
「……いやぁ、忘れもしませんよ」
ぴくりとハサウェイの頬が引きつったのがヘスの目にも判った。
「あの時は僕もまだ『子供』でしたからね。貴方に受けたあれは仕方なかったと言ってもいいでしょう」
「……まだ『子供』だったから、俺の前に屈したと?」
「そうです。反抗する牙を持たない蛹だったんですよ」
「フン」
よく言う、とスピアーズが嘲笑する。
「あの時と一緒だな。お前の弱点は若さゆえの己の力への過信だ。だからあの時暴走したお前に『懲罰』を与えた」
「……だから、あの時とはもう違うと言っているでしょう?」
「何が違う? 俺の後ろに居る『腐死体』共を従えて、強くなったつもりか?」
「ふふふ……彼らは不完全な『腐死体』ではないんですよ」
「……何?」
どういう意味だ、と眉を潜めたスピアーズの目にもう一つの影が映った。
ハサウェイとガガーリンの後ろに立つ男。黒いコートに黒いサングラス、体格の良い男。
あの男は……
「時間が無いぞ、ハサウェイ、ガガーリン。ガーランド達が戻ってくる」
ポツリとその黒いサングラスの男が呟いた。
「お前は……ランドルマン? 協会魔術院のランドルマンか?」
「へぇ、よく彼の事をご存知で。でも、まぁ、当然ですか」
「何故ランドルマンとお前達が一緒に居る?」
確かにハサウェイ達の後ろに見えるのは協会魔術院のランドルマンだ。以前に一度見た記憶がある。
「まぁ、利害が一致しているとでも言いましょうか」
そう言ってハサウェイがククク、と不敵な笑みを浮かべる。
やはりそうだ。すべてに合点がいった。ビビの教会で思った通りだ。
ハサウェイは先ほど、『ブランに関する情報を嗅ぎまわっている邪魔物達を消す』と言っていた。ビビの神父が言っていた協会に仇なす者を葬っているランドルマンと手を組み、パルパス、協会双方に取って面白くないブランの情報を嗅ぎまわっているガーランド達を処理するつもりなのだ。
双方に取ってメリットがあり、ついでに「ボス」も協会の協力を得て処理しようって魂胆か。
「成程、な」
「彼の存在だけですべてを理解されましたか。流石はスピアーズさんですね」
「簡単だ」
「……何がです?」
「後ろのランドルマンをここで処理してしまえば、俺の任務も終わりって事だ」
簡単な作業だ、とスピアーズが続ける。
「そう簡単に……」
いきませんよ、と口ずさんだハサウェイの言葉をスピアーズが遮る。
「もう一度言うぞ」
彼の周りに先ほどとは違う、空気が放たれている。まるで「陽炎」のようにスピアーズの周りだけ景色が歪む。
強烈な威圧感。
ハサウェイ達とは桁が違うスピアーズの凶暴な威圧感に思わず「守られる側」であるヘスの背筋が凍ってしまった。
「……俺の邪魔をすれば、殺す」
「怖いですね。『陽炎のスピアーズ』という二つ名は伊達じゃない、といった所ですね」
思わずハサウェイが言葉を漏らした。だが、その顔は笑みを浮かべたままだ。
先ほど言った「あれ」というものにそこまでの自信があるのだろうか。
「……同じ恐怖を貴方にもプレゼントしてあげますよ」
そう言ってハサウェイが地面に手を突いた。彼の腕から見える魔術構文が光る。媒体の血液が使われた証拠だ。
魔術を発動するつもりか。
発動を止めるためにスピアーズが身構えたその時だった。
「オッサン! 後ろッ!」
路地にヘスの叫び声が響く。
その声に素早く反応したスピアーズだったが、すでに遅かった。振り向いたスピアーズの喉元に冷たい二本の手が襲いかかった。
「ぐっ……!」
「オッサン!」
まさか、いつの間に……
その気配すら感じることが出来なかったスピアーズが苦悶の表情を見せる。
彼の目に写っているのは女性の姿。
後ろに立っていたのは先ほどの女性職員だった。
だが、何処か違う。
先ほどの清楚な姿とは違う、何処か恐怖におののいている様な、絶望しているような表情。
「ここからが本番ですよ、スピアーズさん! さぁ、絶望して下さい!」
そう叫んだハサウェイの声が始まりの合図のように、地面から染み出してきた黒い塵が女性の足を伝い、上半身、そしてその顔までを覆い尽くす。
その黒い塵達は細かくなり、女性の身体に染みこんでいく。
「こ、これは……」
その黒い塵がそのまま乗り移ったかのように黒く、長い艷やかな頭髪。闇夜の中光り輝くように白く輝いている肌。スピアーズ達と同じような黒いローブ。
その姿は何処かで見たことがある。
美しい、まるで「魔女」の様な女性――
「オ、最初の魔女!?」
スピアーズが思わず言葉を漏らした。
最初の魔女、そう、その姿は古くから伝わる伝説の魔女、その姿。魔術書を作った始祖にして、最初の魔術師。
「死者を蘇らせる魔術、それが僕の『屍術』ですよ、スピアーズさん。まだ不完全ではありますが、貴方で確かめてもらいますよ。――彼女の力を」
「オ……オオォォォオォ……」
最初の魔女が言葉にならない雄叫びをあげる。感情が感じられない声に、表情。目は死んだままだ。
それはスピアーズが経験したことのない未だかつて無い危機だった。
最初の魔女に死の宣教師が二人、それに、ランドルマン。
「舐めるなよハサウェイ……」
だがそれがどうした。俺を誰だと思っている。死の宣教師のスピアーズだ
これまで幾度と無く死線を一人でくぐり抜けてきた。
今回も問題無くくぐり抜けてやる。
その危機を何処か楽しむような表情を見せるとスピアーズは最初の魔女の腕を強引に掴んだ。