第3話 主人
「神父さまありがとうございました」
そう言って恭しく老婆が頭をたれる。
この老婆で何人目だろうか。こんな事になるならローブ姿ではなく私服で来るべきだったか。
スピアーズはバージェスに向かう駅馬車内で、悩みを聞いて欲しいと行列をなしている老婆達に嫌気が差していた。「ウジウジ悩んでねぇでまずは行動しろっ!」と叫んでしまいたいがそうも行かない。なにせ、スピアーズは「物柔らかで優しい神父様」で通っているのだ。
「教会の子らを我らが母は見捨てません。ただ、祈りなさい」
優しくスピアーズが老婆の肩に手を当てる。ありがたや、と涙を浮かべながら祈る老婆。
心で悪態をつくスピアーズだったが、この老婆のように涙を浮かべて感謝する人々の姿を見ては思う。何の効力もなかったとしても、神父としての自分の言葉が彼らを少しでも救うのであれば、優しい神父の仮面を被り続けるのも悪くはない、と。
だが、彼は教会に仇なす者達を闇に頬むる暗殺者「死の宣教師」だ。自分にすがりついている老婆の姿とその事実とのギャップにスピアーズは小さく苦笑した。
「神父様……私もよろしいでしょうか」
老婆に代わり、スピアーズの前に立ったのは銀髪の女性。美しいロングストレートの頭髪が駅馬車の窓から差し込む光で煌き、教会が崇める「女神」かと思ってしまうほど美しく神聖な香りがする女性だ。
その女性の姿にスピアーズの裏の顔が心の中で蠢く。
「はい、どうぞ」
なんとか冷静を装い、スピアーズがその女性を正面の座席にエスコートする。彼の前を横切った瞬間、なんとも言いがたい甘い香りがスピアーズの心をくすぐった。
「このような事を神父様にお話するのは気が引けてしまうのですが」
「どのような悩みでしょう?」
「……どうしても殺してしまいたい人がいるのです」
女性の言葉にスピアーズの顔が一瞬引きつった。その姿からは想像できないその言葉。顔色一つ変えず、子守唄でもうたっているかのような静かな声で女性が言い放つ。
「殺したい人……?」
「私には主人がおりまして」
女性がぽつりと続ける。
人妻だったのか、とスピアーズは顔に出さないようにほくそ笑んだ。人妻は……大好物だ。
「主人は人々を守る仕事をしております」
「なるほど、誇れる職業ですね」
「でも、主人の仕事を妨げる男がおりまして……」
「妨げる、ですか?」
スピアーズの言葉に女性はひとつ、こくりと頷く。
「はい。その男のせいで主人の仕事は上手く行かなくなりそうなのです」
「人々を守るのに支障がある、と?」
「そのとおりです」
女性の目に影が落ちた。
「成程。しかし、殺すとは物騒ですね。他になにか方法はないのですか?」
「色々と試してはおりますが、上手く行きそうになく……。こんな私を主は許していただけるのでしょうか?」
スピアーズを見る女性の目は許しを乞う子供のように無垢で純真なものだった。だからこそスピアーズは思った。この純真で美しく、心に汚れが見えない女性が何故「殺す」という結論に至っているのか。
「我らが母は、教会の子らに等しく慈愛を与えて下さいます。ただ……」
人を殺める事は思いとどめなさい、と言葉を発しようとしたスピアーズの口が固まった。目の前の女性の口が裂けたのではないかと思うほどキュウと釣り上がり、どこかもの恐ろしい笑みを浮かべたからだ。
「主は……私を許していただけるんですね」
「い、いえ、人を殺めることは主の教えに背くもの……」
スピアーズの言葉に力は無く、機械的に放たれただけだった。
女性の顔から先ほどの神聖な香りは消えていた。何か嫌な予感がスピアーズの脳裏をよぎる。
「流石……我らの女神様。心がお広い」
スピアーズの横から感情が無い声が聞こえた。
驚いて顔を向けたその先に立っていたのは先ほどの老婆。それに駅馬車内の乗客達がうつろな目でこちらを見ている。
「あなた達は……」
「スピアーズ様」
目の前の女性の口から漏れた自分の名にスピアーズはさらに驚愕した。一度も名乗っていないはずなのに、何故自分の名を知っているんだ。
「……何故私の名を?」
「主が許していただけるのであれば、殺そうと思います」
「えっ?」
ゆっくりと女性が立ち上がった。その顔はもの恐ろしい笑みを浮かべたままだ。
「邪魔する……あなたを」
そう言い放った瞬間、女性の手がスピアーズの首を掴んだ。不意の事に避けることも叶わず女性の細い手がスピアーズの首を締め付ける。そのか細い手からは想像できないほど凄まじい握力だった。
「……き、貴様……」
「『主人』の邪魔はさせませんわ」
ギリギリと女性の握力が更に増していく。と、スピアーズの視界の端にきらめく物が見えた。ちらりとそちらに送ったスピアーズの目に映ったのはナイフを構える老婆達の姿。
「……なるほど、そういうことか」
引きつった表情のまま、スピアーズはニヤリと笑みを浮かべる。
「美しい女性を手に掛けるのは……趣味じゃないんだけどな」
苦しそうな声でスピアーズは呟くと、人差し指を女性の胸元にあてがった。
「……燃えよ」
スピアーズの冷たい声が駅馬車に響く。と、その瞬間、彼の指先が赤く光った。そしてその指は一本の炎の矢になり、あっさりと女性の胸を貫く。その威力は凄まじく、女性の後ろ、駅馬車の壁面を貫き車外へと赤い矢は放たれた。
「グッ……!」
女性は苦悶の表情を浮かべると、スピアーズの首からその手を離した。が、倒れこむことは無く、よろよろと後ずさっただけで、ギラリと狂気に満ちた鋭い眼光をスピアーズにぶつける。
「ほう、心臓を射抜かれても死なんか」
掴まれていた首をほぐしながらスピアーズが笑みを浮かべながら言葉を漏らす。
「『主人』の邪魔をする者は殺す……」
目の前の女性に呼応するように、ナイフを構える老婆達も同じことを口ずさんだ。
主人とは……誰のことだ?
「コロス!」
殺意に満ちた声が木霊した瞬間、乗客達は一斉にスピアーズに襲いかかった。だが、死の宣教師には動揺の欠片も無かった。
正面から飛びかかった女性の胸部を蹴りあげ押しのけると、スピアーズは客席から多少開けた通路にするりと身を滑り込ませる。通路は狭く、通れて二人ほどの幅だ。何人来ようと対峙するのは二人だけ。
スピアーズを追うように若い乗客が奇声を上げながらナイフを振り下ろす。わかりやすい動作で振り下ろされた腕を難なくスピアーズはいなし、その力を利用してナイフの軌道を変え、逆にその若い乗客の腹部に突き刺した。その痛みに若い乗客は怯むものの、先ほどの女性と同じく、倒れる気配はない。
「ハッ、どいつもこいつも、身体が頑丈だな」
若い乗客を押しのけて、老婆が襲い掛かってくる。先ほどの若い乗客と違い、身体にナイフを固定し、体当たりしながらナイフを突き刺すつもりらしい。
「キェェエェエェッ!」
狂気に満ちた老婆の声が響く。が、その老婆の身体がスピアーズと交差する瞬間、スピアーズはくるりと左足を軸にして身を翻し、老婆の後頭部を握ると力任せに背後にあった駅馬車の窓に老婆の頭部を叩きつける。ガラスが割れる派手な音がスピアーズの耳をつんざいた。
「……あぁ、痛い。心が痛むな。美しい女性と老婆を傷けるのは心が痛むよ」
俺の心の痛みが判るかい? と両手を大きく広げ、オーバーリアクション気味に演説するようにスピアーズが吐き捨てた。だが、乗客達に言葉は通じていないようだ。ただ彼らの獲物を狙う獣のような目がスピアーズに向けられる。
と、突如スピアーズの肩に痛みが走った。
ちらりと目をおくると、肩から突き出しているのは、自分の血で濡れたナイフの切っ先。
「コロスゥゥゥゥ……!」
背後からナイフを突き立てていたのは駅馬車の御者だ。彼らと同じように目をギラつかせている。
「てめぇ……俺にナイフを突き立てやがったな」
刺された傷を痛むどころか、スピアーズの目に殺意が混じった怒りが滲んだ。神父の仮面を抜いだ、死の宣教師そのものの目だ。
「てめぇら全員ぶっ殺す……!」
スピアーズの怒りに満ちた叫び声が車内に鳴り響いた瞬間、彼の身体が赤い光りを放った。まるで彼自身が炎になったかのような、オレンジ色の光。
それは光だけではなかった。
強烈な熱風が乗客達の視界を歪め、光はうねるような凶暴な炎に変貌する。
その炎は一瞬で駅馬車を飲み込んだ。
凄まじい爆発音とともに、炎は天高く駅馬車の残骸と乗客達を舞い上がらせ、近くに居た乗客たちは灰燼に帰した。
それはまさに一瞬の出来事だった。
燃える駅馬車の一部に、がらがらと崩れ落ちる残骸。凄惨な状況だった。残った駅馬車の一部はごうごうと赤い炎と黒煙を天に巻き上げ、パチパチという音とともに人体が焼ける嫌な匂いが辺りに立ち込めている。
その炎の中から陽炎のように現れる人影。スピアーズだ。その肩に先ほど突き立てられたナイフの姿は無く、その惨状を気にすることもなく、埃を払うかのように軽くその黒いローブを叩いた。
「まったく、手荒い歓迎だな」
黒く焦げ落ちた乗客の死体を見て、スピアーズは独りごちた。
心臓を射抜かれても、腹部をナイフで刺されても倒れること無く向かってきた乗客たち。ハサウェイのガキが得意とする「生命付与魔術」で作られた腐死体に似たような特性だったが、あれは違う。変貌する前までは確かに何の怪しい所もない普通の乗客だった。
だが、あれは魔術だ。魔術解読師が発現した魔術であることには間違いない。
「……しまった。『主人』の正体を聞く前に殺しちまった」
スピアーズは俺の悪い癖だな、と額に掌をあて、顔をしかめる。
あの乗客達が口ずさんだ「主人」という言葉。あれは単にあの女性の伴侶ということではなく、もっと大きな、「何か」だ。
その「主人」の正体を聞くためにも、好みだったあの美しい人妻だけは生かしとくべきだったか、とボンブルグハットをかぶり直しながらスピアーズは後悔した。