第2話 白い鴉
ソファで大の字になったヘスと、身体を丸めているトトが静かに寝息を立てている。
予想通り、トント祭でララのフィッシュパイはあっという間に無くなり、「つまみ食いしかできなかった」「俺はつまみ食いすらできなかった」とふてくされるヘスとトトの為に、ヘス宅で同じフィッシュパイを焼く事になった。
一度やった手順だったので朝よりも短時間で作ることが出来たフィッシュパイだったが、そんなに食べたかったのか、と少しララが引いてしまうくらいに、飢えた狼のようにヘスはパイにかぶりついた。
「本当に子供なんだから」
そうつぶやきながら、笑顔でヘスの母が紅茶のティーカップを流しに運ぶ。温かいリビングにはヘス達の寝息とともに、優しい紅茶の残り香が包み込んでいる。ヘス達がソファの上に撃沈し、静かになったリビングで紅茶を嗜みながら、ララとヘスの母は去年のトント祭の思い出やヘスの父の仕事、ララの古魔術書店の事などを話していた。
「あ、そういえば、ララちゃん知ってるかしら?」
「えっ、何ですか?」
後片付けを済ませ、テーブルを拭きながらララが応える。
「ラミア魔術書房の分店がこの村にできるらしいんだけど」
「えっ、ラミア魔術書房が?」
ヘスの母の言葉にテーブルを拭いていたララの手が止まった。
「ええ。こんな小さな村に作る意味があるかどうかわからないけどねぇ」
「へぇ……」
ララには初耳だったが、特に動揺も焦りも無かった。
大手の魔術出版会社であるラミア魔術書房をライバル視しているわけもなく、小さな魔術書店である自分のお店はこれまでと変りなくほそぼそと続けるだけ。むしろラミア魔術書房の分店ができたら行ってみたいな、とララは思った。
「あ、そうそう。水の魔術書が時々調子悪くなるから、明日お店にいくわね」
そう言ってヘスの母が流しにおいてある水の魔術書をひょいと掲げた。使い込まれた古い魔術書だ。
「え、今見ましょうか?」
「ううん、大丈夫。ララちゃんとこの商売だから、ちゃんとお客として行かなきゃ」
ヘスの母がそう言ってウインクする。ララの魔術書修理事業はオルガが言っていたとおり、本職である魔術書販売の売上を大きく上回るほどの人気ぶりだった。新しい魔術書を売ることに主眼を置いているラミア魔術書房は魔術書の修理は行っていなく、そこに需要が隠れていたようで噂を聞きつけてビビの街から来る客もいるほどだった。
「ヘスおばさま、お安くしますよ」
「あら、助かるわ」
二人の会話に割りこむように、ヘスが「んがっ」と寝言を放つと、そんなヘスを見たララとヘスの母の笑い声が温かいリビングに響き渡った。
***
「え? まじかよ、ヤバイじゃん」
翌朝、鏡の前でパジャマ姿で身を震わせながら歯を磨くララにトトがそう呟いた。
トント祭の後、真冬に突入したバージェスの朝は殺人的な冷え込みを見せ、少しでも暖房が無い場所に行こうものなら、壊れたおもちゃのように自動的に身が震えてしまう。魔術のおかげで凍結していない水道が熱湯に思えるほどだった。
「別に大丈夫だよ。修理のほうでお金もらえてるし」
口の中をすすぎ、流しに吐き出しながらララが応える。
トトが言っているのは、昨日ヘスの母が言っていたラミア魔術書房の件だった。
「まぁ、開店休業みたいなもんだからな。ウチ」
「うるさい」
べーっと舌をだしてララが暖房のある部屋に駆け出す。お店の開店まで後一時間。着替えて支度をすませれば余裕の時間だ。
そういえば今日、ヘスのおばさまが来ると言っていた。念のため水の魔術書の構文に目を通しておこう、とパジャマを脱ぎながらララは思った。
「おい、ララ」
「ん?」
「何か下にもう客らしき奴が居ンだけどさ」
「ええっ!?」
ヘスのおばさまだろうか。開店は一時間後だが、寒い外で待たせる訳にはいかない、と急いで着替え、スノーフレークのポンチョを着たララは階段を駆け下りた。
「……あれっ?」
店先、ガラス扉の向こうに立っているのはヘスの母ではなかった。魔術書の修理を受け付けている旨が書かれたララお手製の看板を見つめている明るいグレーの頭髪の女性。グレーというより、日の光に照らされたそれはキラキラと銀色に輝いて見える。銀髪に白いコート、雪のように透き通った肌とそのすべてが純白で、神聖な香りすら漂っている、美しい女性だった。
「すいません、お客さま。お待たせしてしまって」
急いでドアの鍵を開け、中にどうぞとララが笑顔を見せた。だが、その女性は食い入るように看板を見つめたまま何も反応を見せない。
「……ええと」
何も返事を返さないその女性の冷たい雰囲気にララが固まる。その女性は冷たい、というかなぜか敵意すら感じる空気をまとっているようだった。
「これ、あなたがやってるの?」
「えっ?」
「魔術書修理」
ララが女性の視線の先をチラリと見て続ける。
「え、ええ。私が修理やっています。ええと、修理のお客さまですか?」
ララの言葉にフンと鼻で笑ったその女性は銀色の髪をなびかせ、くるりとこちらに身体を向ける。その仕草に思わず「綺麗」とララは思ってしまったが、彼女の目を釘付けにしたのはその銀髪ではなく、死角になっていた女性の逆側の肩にちょこんと乗っている「それ」だった。
――女性と同じように純白の衣に包まれた、鳥。
「へぇ、真っ白いカラスなんて初めて見たぜ」
「えっ? カラス?」
ララの肩に舞い降りたトトがその白い鳥をまじまじと見つめながら呟いた。
白いカラス。そのようなものを聞いたことすら無かったララだったが、カラスのオスかメスかひと目で分かると豪語していたトトが言うのであれば、この鳥は紛れもないカラスなのだろう。
「しかもメスかよ。中々の器量じゃねぇか」
「……うるせぇ、下品な糞カラス」
「!?」
「しゃべっ……!」
女性の肩に止まっていた純白のカラスの口からその姿からは想像できない荒々しい口調で言葉が吐き捨てられた。まさかこの純白のカラスが人語を話すとは思っても居なかったララとトトは、目をまくる見開き驚きの表情を見せる。
「て、てめ、今なんつっ……」
「下品な糞カラスって言ったんだよ。ねぇリン、糞カラスが居るこんな書店なんて潰しちゃおうよ」
トトの言葉を遮り、リンと呼ばれたその銀髪の女性に耳打ちするように純白のカラスが囁いた。
純白のカラスが口ずさんだ「こんな書店なんて潰そう」という言葉にララの笑顔が消える。
「あなたが例の禁呪書騒動の魔術構文師? 確かララとかいう」
キュッと口角を上げてリンが冷たい声を放った。先ほどララが彼女に感じた空気は間違いではなかった。確かに女性のその表情の奥に見えるのは明らかな「敵意」だった。
「何だてめぇら。胸糞わりぃ」
トトも同じような空気を感じたのか、口調を荒らげ今にも飛びかからんと言葉を吐き捨てる。
「あなた達は何者です?」
「私もあなたと同じ魔術構文師よ」
「えっ? 魔術構文師?」
リンはあっさりとした口調で応えると、ゆっくりとララの古魔術書店を見上げ、笑みを浮かべた。
「アポロの言うとおり、潰しちゃうのは簡単なんだけどね」
「えっ……?」
「……私はリン。ラミア魔術書房の第一級魔術構文師なの」
その言葉を聞いてララの顔から血の気が引いた。
この人がラミア魔術書房の魔術構文師? ラミア魔術書房が私の書店を潰そうとしている? まさか。何のためにこんな小さな書店を?
しかしリンのその言葉以上にララにはこの女性に引っかかっていた。
ララのカンが囁いている。このリンという女性は、ただの魔術構文師じゃない、と。
「また近いうち会うことになるわ。ララ」
「アタシはもう会いたくないけどね、糞カラス」
そう言葉を残してリンは踵を返し、ゆっくりと歩き出した。白いコートと銀髪が冷たい風になびき、次第に霞むように村に降り積もる雪の中に溶けこむようにリンの姿は消えていく。
残ったのは降り積もる純白の欠片と、後味の悪い静寂。
「……何だったんだあいつら」
リンが去り、張り詰めたような空気を解くようにトトがぼそりと呟く。
ララは彼女に感じた嫌な予感がまだ拭えなかった。
あのアポロと呼ばれた純白のカラスが最後に吐いたセリフに、普通であれば食って掛かるだろうトトが何故か大人しかった。
トトも感じていたに違いない。何なのかは判らない、嫌な胸騒ぎを。
「取り敢えず中に戻ろ、トト」
ひゅうと冷たい風がララの背中を押すように吹き抜けた。チラリとリンが去った方向に目を送ったが、すでに彼女の姿はない。
純白の魔術構文師と純白のカラス。
そして、リンたちがバージェスの村に現れた日と、ガーランドから「協会の仕事で協力してほしい」と手紙が来た日は同日だった。