第1話 トント祭
ララ達が住むバージェスの村もすっかり雪化粧し、冬の到来を告げていた。
バージェスの村は湿潤大陸性気候で夏はかなり温暖になるものの、冬が長く、特に真冬になると平均気温が氷点下まで落ち非常に寒くなる。
氷点下まで気温が下がってしまったら暖房魔術で温かい室内にとどまり、外には出たくなくなってしまいそうだが、バージェスの村人達はそうではなかった。僅かな晴れ間があれば、服を着こみ、外に出て日光浴を楽しむ。冬の到来に合わせて、のんびりと日光浴を楽しむ村人たちの姿が増えてくるのがバージェスの村の特徴だった。
「オルガおばさま、フィッシュパイが焼けましたよ!」
耐火性のレンガで組まれた石窯からピールに載せられたパイを取り出しながら、ララが声を上げた。小さなエプロンをかけ、両手には大きめのミトンをはめたララが手慣れた手つきでフィッシュパイを大きめの籠に入れる。
我ながら良い出来。そしていい匂い。
食欲をそそる焼きたてのいい香りが鼻をくすぐり、ララはつい笑顔を溢してしまった。
「……オルガおばさま!」
「ごめんよ、戸締まりがあるから、先に行っとくれ」
家の奥から聞こえるオルガの声に、ララは「はあい」と何処か上の空で軽く返事を返した。
用意しながらパイを冷まさないと、と籠を片手に抱えたまま、忙しなくリビングとキッチンをバタバタと往復するララ。
「急がねぇとそろそろ皆集まってんじゃねぇか?」
玄関で羽繕いをしていたトトがララの姿を顔で追いながらぽつりと言葉を漏らす。
トトに促されるようにララが時計をチラリと見る。
そろそろ時間だ。今日催される年に一回のイベントに乗り遅れる訳にはいかない。何が何でも!
「そうだね! 急ごう!」
そう言いながらララがポンチョを頭から被り、よろよろとおぼつかない足取りでリビングから飛び出して来る。
アブねぇやつだなぁ、とトトが玄関先であっちにぴょんぴょん、こっちにぴょんぴょんとララに踏まれないように身をかわす。
ララが誰が見ても判るくらい浮かれていた。今日バージェスの村で執り行われるとある行事、ひと月前から楽しみにしていた冬のお祭り、「トント祭」が今日行われるからだ。
「トント」とは、パルパス教が崇める女神の一人で、作物と収穫、そして命の目覚めを司る女神の名だ。
秋の収穫が終わり、感謝祭としての意味合いもあるトント祭は、村で取れた作物や料理を持ち寄り、村の中心で「トントの火」と言われる炎を囲み、冬への不安を解消し早い春の訪れを天に願うためのお祭りだった。
「あっ、見てトト、もう一杯人が集まってるよ」
「ほんとだ」
オルガ宅の玄関から籠を抱えてチラリと村の広場に目を配るとすでにいくつもの人影が見えた。
まだ始まってはいないようだけど、準備から参加しないと本当の意味で祭を楽しむことは出来ない。
「……おばさまも早くいらしてくださいね!」
気持ちがはやっているララが再度オルガに催促すると、はいはい、という少し呆れたような声がララの耳に届いた。
「トト、行こ……わっ!」
「ぬわっち!」
籠を抱えたまま、急いで道に飛び出したララは大きな籠を持った少年とぶつかりそうになってしまった。
既の所で衝突は免れたが、大きな籠を持った少年はふらつきながらも、その籠を守るように塀にお尻をぶつけてしまう。
「ごめんなさい……って、なんだ、ヘスか」
籠を持っているのはブラウンのクセ毛が強いショートヘアの少年、ヘスだ。
「なんだってなんだよ。危ねぇなぁ」
ヘスなら良いや、と言いたげなララにヘスが唇を尖らせる。ごめんごめん、と小さく舌を出すララの目にヘスの籠に入ったそれに目が移った。
色々な食材が入った大きな籠。季節ものの野菜から、魚介類、さらには鹿肉らしきものまで覗いている。
ヘスの家はトント祭の為に色々と買い付けをしていると言っていたが、それなのだろうか。
「お、働いておるな少年」
「……トト、お前は働いてねぇな」
「食う専門だからな、俺」
カラスは楽でいいよな、と毒づくヘスに「がはは」と笑いながらトトが応える。
「ヘス、それが仕入れたって言ってたやつ?」
「え? ああ、うん、わざわざチタデルから仕入れたって親父が」
籠の中を覗き込みながらララが問いかけた。
ヘスが言ったチタデルとはゴート商会の本拠地がある貿易の中心となっている街だ。東西に行き来する貿易キャラバンが必ず通る街で、お金さえあれば何でも揃えることができる。仕事が上手く行っていなかったと言っていたヘスだったが、あれから内戦が落ち着きつつあったため、市場が反応し仕事が増えたらしい。
そう、皮肉なことではあるが、例の「禁呪書」騒動が原因でシュタイン王国の覇権を狙い続いていた内戦はゴートとハイムが戦ったラインライツの戦いを最後に落ち着きつつあった。ゴートがあのラインライツの戦いの後、大協約違反を犯した罪で魔術師協会から制裁を受けることになったためだ。
ゴート陣営の領地内に魔術書を不法所持していないか大規模な調査が行われ、疑いがあった幾つかの私兵団が解体された。領土を維持する力を失ったゴート陣営は領土を縮小することになり、きわどいパワーバランスを保っていた情勢は崩れ、内戦は今やハイム陣営とパルパス陣営の小競り合いが続いているといった状況だった。
「あら、ララちゃん」
村の広場に設けられたテーブルに食器やフォーク、ワイングラスなどを並べている背の小さい女性がララに声をかけた。
「ヘスのおばさま!」
女性の姿を見て、ララが思わず駆け出す。
その女性はヘスの母だった。ヘスと同じくブラウンのカールした癖毛に大きくぱっちりとした目。化粧気のないさっぱりとした印象で、まるで彼女の周りだけがゆっくりと時間がながれているような穏やかな雰囲気の女性だった。
貿易関係の仕事で家を開けることが多いヘスの父に代わり、一人で家を守っているらしい。その独特な雰囲気から判るように、おっとりとした性格で虫すらも殺せない性格だったが、いざというときに人一倍力を発揮するタイプの女性だった。
「お手伝いします!」
「あら、ありがとう。じゃあ……向こうのテーブルをお願いしようかしら」
「はい、分かりました!」
フィッシュパイをテーブルの上に載せ、ララが奥のテーブルに走る。
と、美味しそうな湯気に乗る芳ばしい香りがよたよたと歩くヘスの鼻腔をくすぐった。
「ラ、ララ、すっげぇいい匂いすんなコレ」
「私が作ったほうれん草入りのフィシュパイだよ。つまみ食いしちゃ駄目だからね」
近寄んな! とフィッシュパイを守るようにトトが取っ手に止まりヘスを威嚇する。
パイを守るトトに、つまみ食いを図るヘス。去年も見た光景だ。その既視感に思わずララの顔から笑みが溢れた。
つまみ食いをするヘスの顔は真剣そのものだ。去年もトトに邪魔され、結局食べることが叶わなかった。ララのパイはほっぺたが落ちるほどうまいと、彼女が作る腰痛治療魔術と合わせて巷では有名なためすぐに無くなってしまう。
「ララちゃんの料理は美味しいからね。ついつまみ食いしちゃうよ」
うふふ、と笑みを零すヘスの母に、やめてください、と頬を赤く火照らせララが照れる。
「ヘスのおばさまの料理の方がずっと美味しいですよ」
「あら、ララちゃんったら。嬉しい事言っちゃって」
ヘスの母とララが仲良くなったのは禁呪騒動後の事だ。
ララは禁呪騒動後にバージェスの村に戻ってから、仕事で大変なヘスの母に協力したいとヘスの家に行くようになった。
だが、ララがヘスの母と打ち解けるのにそう時間はかからなかった。
ヘスの父は家を開けることが多かったため、料理のお手伝いに来たり家事の手伝いに来てくれるララにヘスの母は感謝し、新しく出来た娘の様にララを可愛がった。
「ヘスのおじさまは今日も仕事なんですか?」
「うん。でも今日は早いっていってたんだけどね。一年に一回の祭の時くらい、休めばいいのにね」
ばちは当たらないでしょう? とヘスの母がララに戯けた表情を見せると「そうですね」と思わずララも笑顔がこぼれた。
「……ああっッ! テメェッ! ヘスッ! 駄目だっつってんだろッ!」
「うるせぇ! こんだけ手伝ってんだから少し位いいじゃねぇか! ケチッ!」
突如穏やかな空気を切り裂くように静かな村に弾けた罵声が響き渡る。
何事かと、声の方に送ったララ達の目に映ったのは、テーブルの端でぎゃあぎゃあと喚き散らしているヘスとトトの姿。どうやらララのフィッシュパイをヘスがつまみ食いしてしまったようだ。口をモグモグとさせながら「うめぇ」と漏らすヘスの頭をトトがキツツキの如くつついている。
その光景を見て、ララは改めてあれからの毎日は平和で幸せだと感じた。
あの禁呪騒動から時間は経っているが、もうあの凄惨な出来事が遠い昔のように記憶の中に溶けて消えつつある。残っているのは、居なくなったハサウェイの笑顔と、ラッツ、バクーの姿。
内戦がこのままもし終わって本当の平和が来たら、トント祭にラッツとバクーを呼ぼう。ララはそう思った。
「皆、そろそろ始めるとしようか」
白く長い髭を蓄えた村長のその言葉に、わっと歓声のような声が上がる。
厳しい冬を越え、春を願う祭、トント祭。
その始まりを告げる「歌」を静かに村長が口ずさみ始めると、波紋が広がるように村人達が合唱を始めた。まるで子守唄のような、聖歌のような静かな歌声がバージェスの広場に広がっていく。
――共に歌おう 命終わる冬が来ても
――共に祈ろう 新しい命の誕生を
――共に迎えよう 春の訪れを
――命の目覚めを 共に
冷たい雪に閉ざされる冬は、新しい生命を産む春を迎える為に必要な試練だ。閉ざされた冬があるからこそ、春の恵みがある。
ララは何処か物哀しく、そして希望に満ちたこの歌が好きだった。
「バージェスの冬は深い。だが必ず春はやってくる。その時を夢見ながら今日は我々に命を与えてくれた大地に感謝しよう」
村長がニコリと笑みを浮かべ、広場の中心に組まれた笹搔き状に傷をつけた薪に火をくべた。
生木の火床に並べられた薪に勢い良く火が移り、天高く煙が立ち上っていく。
「トント様に、感謝を」
今年も感謝いたしますトント様。村長の言葉に村人達は厳かに女神トントに感謝を捧げた。
――だが、村人達の感謝の祈りをよそに、「彼ら」は女神さえも呆れる傍若無人な行動を続ける。
村の広場を駆け抜けるのはさらにララのフィッシュパイをつまみ食いしたヘスと、彼を追い立てるトトの姿。
彼らの姿に呆れたようなクスクスという押し殺した笑い声が、始まりの歌のように村人達の間に波紋のように広がっていくのであった。