第24話 それぞれの道
ぼやけた視界。平衡感覚を失った身体。
今自分の顔に感じているこのひんやりとしたものが壁なのか地面なのかすら判らない。
「お~い、生きてっか? バクー」
どこか気の抜けた声で自分を呼ぶ男にバクーは気がついた。
自分は何をしていたのだ。確か、ハサウェイが呼び出した腐死体達と共に奴の魔術を喰らって……。
ぴくりと動かしただけで激痛が走る身体をゆっくりと動かし、バクーは天を仰いだ。まだバクーの三半規管は昏睡状態から覚めていないようだった。ぐらんぐらんとまるで風車のように空が回っている。
だが、バクーは気がついた。空が、澄み渡った青空に戻っていることに。
「生きてたな」
「……む」
バクーの傍らにしゃがみ込むように短く刈り込まれた頭の厳つい男。その姿にバクーは笑みを浮かべた。
「お主も生きていたか、ガーランド殿」
「まぁな、一時はどうなることかと思ったが」
「奴はどうなった」
身を起こそうとしたバクーをガーランドが制した。
バクーの質問に言葉を返さないガーランドだったが、彼の表情に警戒の色は無かった。
「気がついたら奴は居なくなっていた。腐死体共も、だ」
「居なくなった?」
バクーの声にガーランドはふぅと一つため息をつく。
「ああ。気がついたら消えていた。何処に行ったか検討もつかねぇ」
「……禁呪は?」
「そっちも判んねぇ。が、まだ俺たちが生きてるって事は、嬢ちゃん達がやってくれたって事だろ」
違うか? とガーランドがニヤリと笑みを浮かべる。
禁呪が発現しなかったということは、ハイム軍も助かったということか。ハサウェイが消えた事実には何処か嫌な胸騒ぎがするが、取り敢えずは一安心といった所だ。バクーの表情に安堵の色が浮かんだ。
「……疲れたな」
「まったくだ」
ガーランドの言葉に、間髪入れずバクーが返す。と、干し草のような香りがバクーの鼻腔をくすぐった。
「……お前も吸うか?」
どうだ、と褐色の葉巻がバクーの目前に差し出される。チリチリと白く煙を放っている葉巻にバクーは緊張が解かれた気がした。
「いただこう」
震える指で葉巻を受け取ると、口元に運び、ぎゅう、とストローでジュースを飲むように頬で煙を吸い込む。甘い葉巻の味が傷ついた身体を癒す様に全身に染み渡っていく。その味をじっくり味わい、バクーはゆっくりと確かめるように煙を吐き出した。
「その葉巻吸い終わったら治してやっから」
ガーランドが黒いグローブをはめた左手をひらひらとさせた。治療魔術が施された特殊魔術書だ。
「……出来ればすぐにでもお願いしたいところなのだが」
苦い表情を見せるバクーに、ガーランドがクックッと含み笑いを浮かべる。
「勝ち取った『生きてる』っつー実感が湧く、有り難〜い『苦痛』を味わえてンだから、もう少し楽しめよ」
「フッ、それも悪くないか」
バクーがもう一口葉巻を吸い込んだ。
「お主、ハイム軍に戻る気は無いか?」
「あ?」
「……戻る気があるのなら、私が口添えすることもやぶさかではないぞ」
バクーの言葉にガーランドは苦笑した。
「カッ、冗談じゃねぇ。言っただろ? 俺は腕の腱を切ってもう戦えねぇんだよ」
ガーランドが肘をパンパンと叩きながら嬉しそうにつぶやいた。バラックでガーランドがそう言っていたこと思い出すと、諦めたようにバクーは笑った。
「……フッ、そうだったな。戦えぬ者に軍隊は無理だな」
「そーいうことだ。デクスワークが今の俺にはピッタリだ」
そう言って、二人はほくそ笑んだ。
ガーランドが来る前に言っていた、魔術師協会のエージェントだろうか。慌てて駆け寄ってくる黒いベストを着た職員の姿がバクーの目に映った。
「……ガーランド支部長でありますか!?」
職員の声が響く。その声にゆっくりとガーランドが手を挙げた。戦いは終わった、と改めてバクーは感じた。
葉巻から雪のような灰が一つこぼれ落ちた。
干し草の香りと葉擦れの音を乗せた風が傷ついた二人の兵士の身体を優しく通り抜けていった。
***
ララは倒れたブランを優しく抱きかかえていた。
その小さな少年の胸が上下しているのがはっきりと判る。あの牢の中と同じように気絶しているだけだ。その姿に「よかった」とララが安堵した。
「その少年が例の『禁呪書』の魔術解読師か?」
凛とした声がララの耳に届く。天高く上がった日の光を遮るようにララの前に数名の騎士を従え、黄金の髪をなびかせる女性の姿があった。
「どうみてもただの少年にしか見えぬが、な」
「貴女は……」
「ララちゃん!」
その女性の後ろから心配そうな表情の男が姿を見せた。ラッツだ。先ほどの砂塵で顔が真っ黒になっていたため、すぐに判らなかったが。確かにラッツだった。
「ラッツさん?」
「ああ、良かった。間に合ったんだね」
「ラッツさんも無事だったんですね! 良かった……!」
「ララ、とやら」
胸をなでおろしたララの名を呼び、その女性が馬から降りる。ズシンという重い着地音がララの身体を揺らした。
一見華奢に見える女性だが、その身に纏った漆黒の甲冑は相当な重さであろう事が判る。この女性は相当な手練なのだろうとララは畏怖の念を交えて、そう直感した。
「どうやってその禁呪を止めた」
「えっ?」
「先ほどの面妖な出来事、確かに見た。あれは何だ?」
影になっていた女性の顔が、濡れた地面に反射した光で鮮明に映し出された。見えたのは、息を飲む程に綺麗な女性。透き通った肌と、その禍々しい漆黒の鎧とのコントラストがより魅力を際立たせているような麗人。ララから見てもつい見とれてしまうほどの美しさと神々しさを携えている女性だった。
「ララちゃん、この御方がヴィオラ公爵閣下だよ」
「……ええっ!?」
思わず声を荒らげたのは、ヘスだった。
ついヴィオラに見惚れてしまっていたヘスだったが、嘘だろ、と上ずんだ声を上げてしまった。
「ヘス、どしたの?」
「ば、馬鹿っ! ヴィオラ公爵っつったら、ハイムの騎士団を纏めている将軍様だろうがっ!」
「えええっ! こんなに、綺麗な人が?」
思わずララも驚嘆の声を上げてしまう。ヴィオラという人が率いているということはラッツから聞いていたが、まさかこのような綺麗な人だったとは。ヴィオラは風でなびくブロンドの髪を耳にかけながら少し困ったような表情を見せると、ララはその表情に温かい物を感じてしまった。
「……あっ、ええと。お母さんから教えてもらった『すべてを終わらせる魔術』というもの……だと思います。多分」
自分もよく判らなかったため、わたわたと目を白黒させながらララが必死に説明をする。ラッツもヘスも、その説明がよく判らなかったが、ヴィオラだけは納得したという表情をララに見せた。
「……成程な。面白い娘だ。魔術師協会の手前、この魔術解読師には手は出せぬが」
「えっ?」
ララは遠くを見つめているヴィオラの視線を追いかけるように踵を返した。ブランを確保するために派遣された協会員だろうか。馬に乗る黒いベストを着た数名の人影が見えてとれた。
「お前のその力、興味が湧いたぞ」
ヴィオラが笑みを浮かべた。その笑みは冷たく、先ほど一瞬ヴィオラに感じた温かみは鳴りを潜めていた。
「いずれまた会おう」
ヴィオラは静かにそうつぶやくと、ゆっくりと愛馬にまたがる。再度、吹き抜ける冷たい風に、彼女の髪が踊るようになびいた。
ララは違和感を感じていた。彼女は何か知っている? 先ほど禁呪の力を封じたこの力の事を? ララは走り去っていく漆黒のヴィオラの姿を見つめながら、彼女が言った言葉が近い将来現実になりそうな、そんな予感がした。
***
ラインライツでの事件の後、ララ達はビビの街に戻った。
色々あったものの、やっとバージェスに帰れるとララは喜んだが、そうは問屋がおろさなかった。戻ってからもララに災難は降り注いだ。
「えぇ……まだ有るんですか?」
協会の出張所の奥、ガーランドの個室のソファにかけたララが山のような書類に目を通し眉をひそめながらペンを走らせている。
その作業を始めて相当な時間が経っているのか、ララの周りでヘスが鼻ちょうちんをふくらませ、トトが空を飛んでいる夢でも見ているのか、寝たまま羽根をばたつかせている。幸せそうな二人の姿に、ララはむっとした表情を見せた。
「馬鹿野郎。まだ有るんですか、じゃねぇよ。嬢ちゃんの罪状は特殊下級魔術書の不法持ち込み幇助に、上級魔術の生成および改変、それの行使。普通だったら一生牢屋ン中だぞ」
判ってんのか、と呆れた表情でガーランドが言葉を漏らす。そのすべての罪状を不問とする代わりに、ララは自分に関する情報を事細かく書き落とし、協会に提出することになった。要は「今後協会の監視下に置かれるが、お咎めは無し」という事だった。
「うえぇぇぇ」
もうしばらくペンは握りたくない、とララが苦い表情を見せる。
「わっはっは! まぁ、そう苦い顔すンじゃねぇよ。ペンを走らせるだけで以前と変わらない生活が出来ンだ。有り難いことじゃねぇか」
ニヤリを笑みを浮かべるガーランドにララはしぶしぶ笑顔で頷く。
この部屋にはすでにラッツとバクーの姿はなかった。ビビの街に戻ってすぐ、バクーと合流したラッツは軍に戻った。ラインライツを落としたハイム軍だったが、泥人形に与えられた被害は大きく、ヴィオラの第3西方方面軍は至急軍の再編成を行い再度奪還の為に攻め入るゴート陣営からラインライツを守る必要があったからだ。
駅馬車に乗るラッツは「キンダーハイムに来た時は必ず連絡してね」と再三ララ達に言った。
バクーも「キンダーハイムに来た時は騎兵連隊本部に遊びに来い」と恥ずかしそうにララに伝え、ヘスには「男は強くあり、女は命を賭してでも守れ」とも熱く語った。当たり前だ、と笑顔で硬い握手を交わす二人に、自分の事を言っているとは微塵も思っていないララは、男っていいなぁ、としみじみ言葉を漏らしていた。ラッツとバクーと行動を共にしたのは二日ほどだったが、もう何年も一緒にいた錯覚があった。ラミア魔術書房の前でぶつかってから、色々あった。助けて、助けてもらって。でも、助けてもらったほうが多い気がする。彼らが居なければ、憲兵に捕らわれていたヘスを助けることすら出来なかっただろう。彼らと離れるのは寂しかったが、あの二人とは今後も仲良く出来る気がする。走りゆく駅馬車の中から手を振るラッツと、恥ずかしそうに直立しているバクーの姿に思わずクスリと笑みを浮かべながらララはそう思った。
「……これで、終わりですかね?」
最後の一枚を書き終えたララがペンを置いた。ガーランドが険しい表情で葉巻を加えたまま、その書類に目を通す。
「……ハサウェイさんは、どうなっちゃったんですかね」
窓の外に視線を移したララがぽつりとつぶやいた。ビビの街に戻ってから、ガーランドとバクーに事の真相をララは聞いた。ブランの事、協会の事、そしてハサウェイの真実の事。
「さぁね。まぁ、奴が今回の騒動を裏で操っていたのは事実だ。騒動は嬢ちゃんのおかげで大事件にならずに済んだが……奴が打ち込んだ楔はでかい」
「……楔?」
「協会が秘密裏に禁呪を蘇らせ、兵器として開発したという噂は世間に広まることはそうそう無いと思うがな、内部はそうは行かねぇ。奴が落とした楔はいずれ協会内を二分する事態になるかもしんねぇ。それだけでも奴の目論見はある意味で成功したって事だ」
協会内が混乱することで、大協約を取り締まるべき動きが滞ってしまう可能性は高い。現に、ラインライツでゴートが使用した「生命付与魔術」に関する制裁措置の声明は協会からまだ発表されていない。
それが今だ続いているこの内戦に及ぼす影響は計り知れないだろう。均衡していたパワーバランスが崩れ、統一に向い歩みを進めるかもしれない。禁呪書の様な凶悪な魔術で罪の無い人々が犠牲になってしまうかもしれない。人々から笑顔が消え去り、憎しみと争いに明け暮れる毎日が始まってしまうかもしれない。あの時、母が語った物語をララはぼんやりと思い出した。
「ま、嬢ちゃんが気にすることじゃねぇわな」
「ブランは……?」
「ブランは協会魔術院の研究所に送られた。研究所で奴の身体に刻まれた魔術構文は消される。読心魔術が消えれば自ずと人格も戻ンだろ」
その話しを聞いて、ララは何処かほっとした。あのまま協会に「処理」されるのではないかと危惧していたからだ。
「……よし、大丈夫みたいだな。おつかれさん」
そう言ってガーランドは書類でララの頭を優しくポンと叩くと、ララの顔はぱっと明るくなった。
「帰っていいぜ……と、嬢ちゃんと小僧だけじゃ心配だから職員にバージェスまで送らせてやる」
無料の駅馬車付きでな、と笑顔でガーランドがウインクする。
「あは、本当ですか!? ありがとうございます!」
「ま、色々と大人の事情で嬢ちゃんを犯罪者扱いしないといけなかったがよ、俺個人の意見では……」
そう言ってガーランドはごつごつとした厳つい右手をララに差し出した。
「マジで助かったぜ。嬢ちゃんが居なかったら、大惨事になっていた。本当にありがとう」
照れくさそうにガーランドが笑みを浮かべた。バクーもそうだが、ガーランドも見かけは怖いけど、いい人で、好きだ、と素直にララは思った。いかにも取ってつけたような引きつった笑顔だったが、その笑顔にララは心が暖かくなった。
「また、遊びにきてもいいですか?」
「おう、何時でも来い。嬢ちゃんの『特別な友達』と一緒にな」
ララはガーランドのその大きな右腕を両手で掴んだ。イメージ通り、分厚い皮に覆われた、石のように硬い右手。だけど、何処か安心する右手だった。
「……はい」
ララは恥ずかしそうに笑顔で頷いた。
帰ろう、バージェスの村に。
気持ちよさそうに眠っているヘスとトトの姿を見て、ララはそう思った。
***
そして、いつもの変わらない日々が戻った。
ララの周りにあるのはいつもと変わらない『辛いものが食べたくなる魔術書』に『乳酸を増やして疲労感を与える魔術書』、『臭い匂いが好きになる魔術書』。
そして、お客が全く居ない古魔術書店。
「真っ昼間から鳥の鳴き声が聞こえンな。……ああ、カンコドリって奴か」
「うるさい」
いつぞやと同じセリフをトトが吐いた。だがララの古魔術書店にはいつもと違う物が一つだけあった。
『魔術書の修理始めました。ご相談は店内で。ララ』
入り口に大きく掲げられた一枚の看板。新しく始めた、そして「唯一」のララの収入源。
「つーかよ、あの看板なんなんだ?」
「新しい商売よ」
「オルガが言ってたやつか?」
「そう。ラミア魔術書房にお客を持って行かれちゃったから、サイドビジネスよ。サイドビジネス」
「その前から客は居なかったっつの……」
ぼそりと呟くトトに、「なにか言った?」とララが冷たい視線を浴びせる。
バージェスの村に二日ぶりに返ってきたララを心配そうなオルガが迎えた。今までオルガに何も言わずにララが二日もいなくなることは今まで経験が無く、心配したオルガが村中総出でララを探したそうだ。ごめんなさいと謝るララをオルガは優しく叱った。だがそれもララには嬉しかった。自分を愛してくれているんだと改めて感じたララはやっと緊張の糸が切れたのか、オルガの腕の中でわんわんと泣いた。オルガの優しさが嬉しかった。
ヘスもあの駅馬車で話してくれたとおり、禁呪書は見つからなかった、と父に報告した。「これから大変になるかもしれないけど、頑張るよ」とまっすぐなヘスの表情にララは嬉しそうに頷いた。その姿に、ヘスの家の……いや、ヘスの力になりたいとララは改めて思った。
何も変わらない、バージェスの村。
でも、ただ一つだけ、あるべきピースが抜けていた。
トタンでつくられたみすぼらしい出張所のドアを開けても、冴えないハサウェイの姿は無い。しょうがないなぁ、という何処か甘ったるくて、つい頼ってしまうハサウェイの声は無い。何故ハサウェイは居なくなったのか。その事実を知っているのはララとトト、ヘスだけだ。他の村人にとっては変わりない、穏やかなバージェスの村だった。
「ララちゃん居るかい?」
「オルガおばさま!」
「ポトフ作ったからおいで。トトちゃんも」
「はい! 今行きます!」
トト、行こ、と駆け出すララを「油揚げ、油揚げ」と連呼しながらトトがゆっくりと追いかけていく。
雲ひとつない水のように澄んだ秋の空。冷たく乾いた風がひゅうとララの頬をくすぐった。非武装中立区画と呼ばれる地域にある小さな村バージェスはもうすぐ厳しい冬を迎える。