第22話 天魔の炎槌
赤い。
何処かもの恐ろしさを感じる赤く染まった空。すでに馬から降ろされたララとトト、ヘスはその赤い空を仰ぎ見た。突如夕暮れが訪れたようなその異変。ララは嫌な胸騒ぎを感じた。
「ララ、こりゃぁ何だ……?」
「わからない。だけど何か嫌な予感がする」
トトの声に再度感じた嫌な予感。可能性は一つだけだろう。胸騒ぎの原因になっているのは彼女の目に映っている少年、ブランと彼の身に刻まれた禁呪の魔術構文。この異変が禁呪が発現する予兆の可能性は高い。通り雨が降り注いだ平原に湿った風が血の匂いを乗せ、通り抜けた。
「まずいぜ、あのデカイのがこっちに向かってきてる」
ヘスが震えた声で言葉を漏らした。ゆっくりとした動きで踵を返した泥人形が地響きを轟かせながらこちらに一歩、足を進めた姿がララの目にも映った。一歩とはいえ、その巨大な足で進めた一歩はそれだけでかなりの距離を縮める。
「泥人形がコッチに来るっつーことは、周りの有象無象も来るっつーことだよな!? ララ、急ごうぜ」
慌てるトトの姿をチラリとララが見たその時だった。ララの耳を襲う、詰まったような違和感と強烈な静寂。まるで時間が止まったかのような静寂。 ズシンと、音はしないものの泥人形がさらに一歩進んだ衝撃がララを襲う。
泥人形はブランを狙っている。その泥人形を追うように、黒い甲冑を着た騎士と、白い甲冑を着た騎士の集団が見えた。
「逃げて」
と、ララに小さく声が聞こえた。何処かで聞いたことが有る女性の優しい声。暖かく、安心する女性の声。
(えっ?)
ララは声を出したがその口から言葉は出なかった。喉を震わす振動だけが、身体を伝わり、耳を震わす。今の声は何だったのだろうかとララは思ったが、すぐに目の前にそそり立つ泥人形の動きにその疑問はかき消された。
泥人形がその巨大な腕を振りかぶった。やはり目標はブランだ。そしてゆっくりと腕が振り下ろされる。ブランに巨大な腕の影が落ちたその時、ブランを中心に空気が収縮していくようにその姿がグニャリと湾曲し、それが弾けた。
***
目隠しをされたように薄暗く視界を遮る灰色の砂塵。朦朧とした意識の中、自分が何処にいて何をしていたかラッツはすぐに思い出せなかった。砂煙で覆い尽くされた視界。兵士達の恐怖に満ちた叫び声。転がる死体。耳の奥で鐘が鳴り響き、得も言われぬ浮遊感がラッツを襲う。手探りで辺りを確認しながら、ラッツは状況を思い出す。砂塵の隙間から真っ赤に染まった空が見えた。そうだ、自分はヴィオラ閣下の元に急いでいたんだ。その最中、背後から襲いかかった衝撃波に馬から投げ落とされた。
「……閣下ッ!」
思わずラッツは叫んだ。禁呪が発現してしまえば、辺りは焦土と化してしまう。
キンダーハイム装甲騎兵団長のヴィオラをここで死なせる訳にはいかない。その思いでラッツは足を踏み出す。つい先程、錯乱した傭兵が振る剣を避け、装甲騎兵の横をすり抜け、巨大な泥人形の脇を無心で駆け抜けた時、戦場を駆け抜ける漆黒の騎士の姿が見えた。近くにヴィオラは居るはずだ。
「閣下ッ!」
もう一度ラッツは叫んだ。
「第四騎兵大隊集まれッ! ゲルトッ!」
ヴィオラの声だ。透き通っていながらも何処か焦りと苛立ちを含めた声が響いた。落ち着きつつ有る砂塵の奥に漆黒の影が見えた。
「閣下、ここに」
「被害は?」
「泥人形により剣術騎兵二個中隊は壊滅。銃士隊は現在敵残存兵と交戦中です」
「一個中隊を援護に回せ。残りはこのまま私と泥人形の処理に向かう」
「了解しました」
ひと通り指示を下し、ヴィオラはフェイスガードを上げ、怪訝な表情を見せた。
「……しかし、先ほどの衝撃とこの砂塵は何だ」
「閣下ッ!」
砂塵の中から現れたラッツの影に、騎兵達が槍斧を構え警戒の色を見せる。だが、ハイムの濃紺色の軍服が目に入ると、すぐさま警戒は解かれた。
「ヴィオラ閣下ッ!」
「貴様は確かバクーの……」
ヴィオラが険しい表情でラッツを見る。禁呪捜索に当っているはずの貴様らがどうしてここに居る、と眉を潜ませたのがラッツに判った。
「閣下、すぐ後退して下さい!」
「何?」
「禁呪です。例の禁呪と魔術解読師がすぐそこまで来ております」
「どういう事だ」
「閣下を狙った企みです! ハイム軍とゴート軍がぶつかるラインライツで禁呪を発現させる為に仕組まれた罠です!」
「罠、だと。……成程、面白い」
焦りながら提言するラッツにヴィオラは冷たい笑みを浮かべた。
「か、閣下!?」
「バンシーの森を消失させた禁呪であれば、今から逃げても遅い。となれば助かる道は一つ。敵の喉元に喰らいつき、その首をへし折るまでだ」
そう言ってヴィオラは手綱を引いた。ヴィオラの愛馬が一声いななきを上げた。
ヴィオラの言葉にラッツは息を飲んだ。ヴィオラの言うとおりだった。助かる方法は一つしかない。ブランを、殺すしかない。だが出来るだろうか。凶悪な人間兵器と化しているあの少年を殺す事が。
「時間がない。泥人形は後回しだ。その禁呪を持った魔術解読師を討つ。ラッツ、案内しろ」
ヴィオラがフェイスガードを下ろした。そして彼女がその鎧と同じ漆黒の槍斧を構えると、周りの騎兵達も合わせて抜刀した。
冷たい風が吹き荒み、辺りを支配していた砂塵が晴れる。うっすらとした砂塵の向こうに小さな人影が見えた。
***
ラッツと同じく、ララも砂塵に覆われた空を朦朧とした意識の中見上げていた。
ブランに振り下ろされた泥人形の腕が凝縮された空気に阻まれ、その腕がはじけ飛ぶと、耳につまっていたような違和感が無くなり、衝撃波が襲いかかった。たぶん、はじけ飛んだのは腕だけではないだろう。この砂塵がそれを物語っていた。
「ララ、大丈夫か?」
駆け寄ってきたヘスの姿が、砂塵の中に浮かび上がった。
「泥人形が消えちまった!」
慌てたトトが叫ぶ。やはりそうだった。ブランが魔術で泥人形を吹き飛ばした。それは禁呪の一部だったのか全く別の魔術だったのかは判らない。判っているのは時間がないということ。それだけだ。禁呪が発現してしまう。
「ヘス、トト、急ごう!」
ヘスの腕を掴み、ララが起き上がる。次第に辺りを支配していた砂塵が薄らいでいく。その向こうに見える、上半身が無くなった泥人形の姿と、ゆらりと歩いているブランの姿。再度、ギュッと空気が圧縮されるような嫌な感触がララを襲った。その凶暴な力でねじ曲げられた光がブランの姿を歪める。
ララは走った。彼を止めないと。禁呪を止めないと。
「ブラン! ブラン、もう止めて!」
思わずララが叫んだ。
ララの小さな手はまだその身体には届かない。
背後からヘスの同じような叫び声が聞こえた。
すべてがゆっくりとスローモーションの様に見えた。
風にあおられる砂塵。
足を踏み込むたびに揺れる草原の葉に折りた雨水。
上半身を無くし、倒れる泥人形。
馬に乗り、こちらにかけてくる騎兵達。
地面に倒れ苦しむ兵士。
雄叫びを挙げ、己を鼓舞する兵士。
恐怖におののき泣き叫ぶ兵士。
必死の形相で叫ぶヘス。
羽ばたきながら喚くトト。
ゆらりと揺れる青白い少年。
流れる雲。
赤い空。
草の匂い。
血の匂い。
無音の静寂。
そして、彼女の願い。
禁呪『天魔の炎槌』は静かに発現した。
23話は17日にアップ予定!