第19話 黒幕
ゴート陣営の領地とハイム陣営の領地の堺に位置する都市、ラインライツ。
今は亡きバンシーの森の後方に位置しているその街は、強力な火砲に耐えうる低く分厚い二重の城壁で守られた稜堡式城郭の要塞都市だ。
防衛戦を主眼に置いた城郭は難攻不落の拠点としてこれまで幾度と無くハイム軍の侵攻を退けていた。
ゴート陣営としてはラインライツが落とされてしまえば、ハイム軍のその神速の如きスピードで領内を蹂躙されてしまう恐れがあり、逆にハイム陣営としても本土と河川でつながるラインライツを落とせば、この内戦を一気に有利に運ぶことが出来る。お互いに取って生命線とも言えるラインライツはどうしても守るべき、落とすべき拠点だった。
ツンと冷えた風が霜が降りた草木を揺らし、日の光で煌いている。いつもと変わらない一日の始まりのはずだが、今日は違った。その草木の傍らにはそんな一日の始まりに似つかわしくない真紅の獅子が描かれた軍旗がはためいている。
槍斧を携え、分厚い甲冑に身を包んでいる騎兵に、巨大な長方形の盾「スクトゥム」を持つ兵士、ライフルを持った銃兵と巨大な攻城砲。
ラインライツを目標に乱れなく整列しているキンダーハイム装甲騎兵団は、装甲騎兵を先頭に美しい楔形の陣形をかたどり、それはまるで敵を刺す矛のようにその時を待ちわびているようだった。
「良い眺めだ」
一団の後方、丘の最頂部に佇む他の騎兵とは違う漆黒の甲冑に身を包み、黄金の髪を風に揺らしている女性がそうつぶやいた。その姿は神話の戦乙女を彷彿とさせ、思わず息を飲んでしまうような美しさと荘厳な空気を纏っていた。
「いよいよですな、閣下」
ヴィオラはラインライツの城壁が一望できる丘から戦場を眺めていた。手を伸ばせば掴めてしまうような遥か遠くの山々まで望めるその景色。
しかし、その素晴らしい景色に似つかわしくない集団が目下で黒くうごめいている。
城壁内から吐出され、ヴィオラ達を撃退せんと隊列を組むゴート陣営の傭兵達。正規軍ではないゴートの兵士は、そのほとんどが金で雇われた傭兵だ。
その統一されていない装備とゴート陣営の黒い軍旗にヴィオラは嫌悪した。美しく無いものは生きる価値はない、とでも言いたげに冷たい目を彼らに向ける。
「準備は良いか。ゲルト」
「ハッ。すでに」
ゲルトの返答にヴィオラは冷たい笑みを浮かべると、彼女の乗る白馬は一歩前に踏み出した。
「皆、よく聞けッ!」
ヴィオラの声に、冷たい風が止まった。彼女の芯の通った声が丘に響き渡る。
「長きに渡って続いてきた『聖戦』もこの戦いの後終焉に向かうだろう! ついに逆賊どもから故国を奪い返す時が来たのだ! 今こそ倒れた戦友たちの無念を晴らす時だ!」
身振り手振りを交えて兵たちを鼓舞するヴィオラに熱が帯びてくる。漆黒の鎧から溢れ出る黄金の髪が彼女の動きに呼応して小さく揺れた。
「勝機は我らに有り! 逆賊共は我らの矛と剣の前にひれ伏すであろう!」
「……ウォォォッ!!」
ヴィオラの声に高揚した兵士たちから雄叫びが上がる。
「準備は良いかッ! 我が子らよッ! 逆賊共の首を斬り、彼奴らを蹂躙する準備はできているかッ!」
「ウォオォォオッ!!」
「ヴィオラ閣下万歳ッ!」
兵士らは雄叫びと共に高々にヴィオラを賛美する声を上げた。狂気に近い高揚感が兵士らを支配すると、彼らの鼓動に合わせるように兵士がスクトゥムを剣の柄で叩き始める。
それは次第に兵士達の高揚感に合わせ、スピードを増していく。
時は満ちた。戦いの時だ。
「装甲騎兵ッ! 前へッ! 襲歩前進ッ! 我らに……」
『我らに勝利をッ!』
ヴィオラの抜刀に合わせ、轟音のような叫び声がラインライツの丘に響き渡る。その轟音が風に乗り、目下のクロムウェルの傭兵達の耳に届いたその時、キンダーハイム装甲騎兵が得意とする楔形の陣形、「鋼鉄の傘」がけたたましい蹄の音を従えながら動き始めた。
***
時を同じく、朝霧を切り裂くように一台の駅馬車が猛スピードで走り抜けていく。ガーランドが用意した専用の駅馬車は足が強い特注馬が引く乗り心地よりも速さに長けた物だった。
「は、早いですね」
「あたりめぇだろ。いくらかかってると思ってンだ」
両手の指をいくつも折りながら、目を丸くしているラッツにガーランドが応える。流石は北部責任者だ、とラッツは舌を巻いた。ラッツの横に腰掛けるバクーは腕を組み、これから起こるであろう事を想像しているのか硬い表情で俯いている。ラッツとバクーは軍服に戻っていた。ラインライツに展開するハイム軍に接近する恐れがあるため、軍服に戻ったほうが何かと良いとガーランドが判断したためだ。
そんなバクーと同じように、駅馬車の窓に景色をぼんやりと眺める訝しげなララの姿が映っていた。この二度目の駅馬車は、ララに前回の様な高揚感も喜びも何も与えていなかった。同じ駅馬車なのに、気分次第でこんなにも変わるなんて。当たり前のような考えがララの脳裏に浮かんだ。
「大丈夫かよ? ララ」
そんな彼女を心配してか、目の前に座っていたヘスが声をかける。
「えっ、あっ、うん、大丈夫。ごめんね」
ヘスの視線に気がついたララがニコリと笑みを浮かべた。だが、それが造られたものだということはヘスにも判った。ハサウェイさんが魔術師協会を脅迫した手紙を送った犯人かもしれないと、そう思うだけで心が沈んでしまうのはヘスも同じだった。
「大丈夫だよ、きっと。何かの間違いさ」
ララと同じようにぼんやりと窓の外を眺めながらヘスが小さく呟く。しかし何も根拠がないその言葉にララは何も返せなかった。
「……ヘス」
「あん?」
「そういえば聞いてなかったんだけどさ」
少し言いづらそうに、俯きながらララが言葉を漏らした。
「ヘスが『禁呪書』を探してた理由って何なの?」
まだ三日前なのに、もう気が遠くなるほど昔の様に感じる色あせた記憶を掘り起こしながらララが問うた。ララに相談があると言って店に訪れたヘス。ゴート商会と繋がりがある父に秘密裏に話が来た、と言っていたが、そんなものに手を出さなくてもヘスの家は生活に困る事など無いはずだった。
「あ、えーっと……」
明らかにヘスの表情に焦りの色がにじみ出る。
「あ、言いづらい事だったら、言わなくて良いよ」
「……いや、巻き込んじまったからな、正直に話すよ」
ヘスが頭をポリポリと掻きながら気まずそうな表情を浮かべた。
「実はさ、親父の仕事うまく行って無くて」
「えっ?」
意外な言葉にララが驚く。ヘスの家はバージェスの村で指折りの富裕層だ。人口が少なく目立った産業もないバージェスの村では、だが。ゴート商会とも繋がりがあると言っていたし、仕事には困ってないだろうと勝手に想像していたララは驚きを隠せなかった。
「ウチ、ゴート商会と繋がりがあるって言っただろ……」
言いにくそうにヘスは事の成り行きを説明した。ヘスの家は内戦の影響で仕事が減り、会社を立て直すために商会に借金を作ってしまった。しかし内戦が続くにつれ、状況は悪化するばかりだった。次々と仕事は無くなり商会への高い金利の返済に苦しむ毎日。そこに商会から禁呪書の話を持ちかけられた、という訳だ。禁呪書を持ってくれば借金はチャラにするという話だった。慈善活動で熱心なゴート商会の裏の顔を垣間見た気がしたララは苦い表情をヘスに見せた。
「そうだったんだ……」
「でも、もう諦めるよ。禁呪書は」
もう諦める。その一言にララはどこか救われた気がした。危険な禁呪書、ブランはゴート陣営にも、パルパス陣営にも、ハイム陣営にも渡すわけには行かない。もし渡ってしまえば、さらもに多大な人命が失われることになってしまうだろう。だが、禁呪書をゴート商会に渡さないと、ヘスの家はいずれ借金に溺れ、全てを失ってしまうことになる。見知らぬ数万の命かヘスの家族の未来か。ララには選ぶことなど出来なかった。
「私……私、ヘスの力になるよ。ヘスを助けたい」
そう言ってララはヘスに笑顔を見せる。だがララ自身が一番判っていた。自分にできることは何もないということを。無力な偽善がララの心をチクリと刺した。が、ララのその優しさがヘスには一番うれしかった。
「ありがとう。ララをこれ以上巻き込むわけにはいかないもんな。別の方法でなんとかするよ」
「……んじゃ俺も手伝うぜ。約束の油揚げを貰わにゃなんねぇかンな!」
ヘスとララの会話に聞き耳を立てていたトトが小さく呟く。トトにしては気の利いた一言。その言葉に思わずヘスは笑みをこぼした。
「へっ、カラスにまで気を使われるなんて情けねぇ男だぜ、俺は」
「むおっ、てめぇ何すん……」
優しくトトの嘴を掴み、グリグリといじりながらヘスが笑う。ヘスからララへ、ララからラッツへ……その笑いは伝染するように駅馬車の中に広がっていった。
と、ララの目に駅馬車の外に流れる人影が映った。目の錯覚かとララは思ったが、次第に目の錯覚という言葉ではごまかせない程、道脇に倒れているおびだたしい数の人影が流れていく。
「……ガーランドさん!」
声を上げたのはラッツだった。倒れているのは、不揃いの鎧に身を包んだ傭兵の集団に、協会魔術院のエージェントだろうか、協会の職員と同じ服を着た者、ラッツ達と同じ青い軍服の者……その姿に駅馬車に乗る全員に戦慄が走った。
「遮るもン全員ぶったおしながら進んでやがるな……」
ガーランドが顔をひきつらせ静かに独りごちたその時、駅馬車がスピードを落とした。がくんと揺れた後、駅馬車は軋み音を放ちながらその足を止める。
一体何事だろうか。バクーが立ち上がり、警戒を強めたのがララにも判った。
「……おい、どうした? 何故止める?」
不信に思ったガーランドが駅馬車の御者が居る前方へ歩み寄った。
「も、申し訳ありません。何故か馬が急に動かなく……」
「何?」
ガーランドが御者の横に立ち、牽引する四頭の馬を見た。怯えている。明らかに馬たちは何かに怯え足を止めていた。そしてガーランドはその何かに導かれるように、駅馬車の前に目を移す。視線の先、朝霧の乳白色の中にうっすらと見えるのは黒いベストを着た人影――ガーランドの頬がぴくりと引きつった。
「……誰か居る?」
警戒するバクーの後ろに隠れながら、ララとヘスが駅馬車から降りる。昨晩雨が降ったのか、ぬかるんだ土がバクー達の足にまとわりつきビチャリという歪な音を奏でた。
そして、ララ達の目にもガーランドと同じ物が映った。霧の先に佇んでいる黒いベストを着た男の姿。
「……あ〜、やっぱり来ちゃったんですか」
ため息混じりの声が響く。聞き慣れた男の声だった。
「その声は……」
ララの声に後押しされるように、バクーがゆっくりと足を進める。ビシャリと、ガーランドが駅馬車から飛び降りたのだろうか、ひときわ大きな音が木霊した。
バクーも、そしてガーランドも意識を前方に集中している。得体のしれないその人影に。
「もしかして追ってくるんじゃ無いかと思いましてね。ここで待っていたんですが」
ヒュウと湿った風が後方から吹き抜けた。ゆっくりと晴れる霧の中にはっきりと見えるのは怪しく光る黒縁丸メガネをかけた冴えない男の姿。
「ハサウェイさん……やっぱりハサウェイさんだ!」
ララが笑顔を見せた。一体どうしたのか、聞きたいことが山ほど浮かび、思わず駆け出したくなったものの……ララの身体は動かなかった。いや、動けなかった。
ハサウェイが携えているそれは、優しく愛嬌がある笑顔ではなく、見たこともないような冷たく斬りつけた様な笑み――
「いやぁ、まさかあそこでブランに心を読まれるとは思ってもいませんでした」
「……やはり犯人は貴様だったかハサウェイ。ブランは何処だ」
ガーランドがバクーの隣で身構え、低く敵意の隠った言葉を漏らす。
「彼は今『作戦行動中』ですよ」
「何だと?」
「あは、でも、良いアイデアだったでしょう? まさか協会が禁呪を公表するとは思わなかったですが」
「……お主、何者だ」
含み笑いを浮かべるハサウェイに今度はバクーが問う。ハサウェイの目的は協会の悪事の暴露ではない。彼の冷たい表情からバクーはそう悟った。
「ララちゃん、あのままバージェスに帰っちゃえばよかったのに。それにヘス君も。折角あの牢屋で助けてあげたのになぁ」
牢屋で助けた、という言葉を聞いてヘスの表情が固まった。あの時、自分を痛めつけようとしたあの憲兵達に起きた「異変」を思い出す。
「何も知らないふり、良い人のふり、ドジなふり、弱者のふり……自分を偽るのは意外と大変なんだよ? わかるかなぁ?」
「ハサウェイさん、あんた一体何者なんスか……?」
ふぅと溜息をつくハサウェイを睨みつけながら、ヘスが言葉を絞りだした。嘘だ。違う。ハサウェイさんはこんな事言うはずがない。こんな顔をするはずがない。ララとヘスは目の前にいる男に疑心をぶつけるが、現実は容赦なく彼女らを襲った。
「魔術師協会の権威を失墜させて、邪魔なゴートとハイムの主力を消し去る、そんなシナリオだったんですけどね。まぁ、すんなりとは行きませんよね」
「成程、貴様は……」
ハサウェイの言葉に、お前の正体がわかったぞ、とガーランドがつぶやく。が、彼の顔に余裕は無かった。予測が正しければ、この男は――
「ま、いいや。僕もこれでやっと帰れるんだ。僕の計画、邪魔してほしくないなぁ。僕とブランを見逃して帰ってくれるなら何もしないよ? でも……」
ガーランドの思考を遮るようにハサウェイは口元に再度冷たい笑みを浮かべ、眼鏡の向こうのその目に殺意を携えた。素人とは思えない、使い慣れた相手を射殺す殺気。
「邪魔するなら……全員殺すよ」
そこにはもうハサウェイの姿は無かった。有るのはハサウェイの皮を被った、悪魔。
先ほどまで見えていた青空はなりを潜め、いつの間にか薄暗い雨雲が空を支配していた。
そして間もなく、ララ達に冷たい雨がさめざめと降り注いだ。