第17話 最後の笑顔
五階に到着したラッツ達の目に映ったのは凄惨な光景だった。そこから見えていたのは薄暗い天井ではなく、黒に限りなく近い紺色で覆われたビビの街の空。
憲兵本部の東棟は七階からなる建物だった。三階から上は憲兵が捉えた罪人を一時的に勾留する留置所になっていて、特別な用事がなければ憲兵達もあまり足を踏み入れない場所だ。勾留されている人が居なかったことを祈るが、その留置場になっていた五階から上がすべて瓦礫と化し吹き飛んでいた。ただ一つ不思議だったのは五階は崩れ落ちていないという事だった。まるですっぽりと切り取られたかのように六階から上が無くなっていたのだ。その状況から外部からではなく内部から何か凄まじい力がかけられ、その力で外壁や天井が吹き飛んだ……ということを物語っていた。
「こ、これは……」
ズシンという衝撃が数階建物に響き渡ったのはラッツも、そしてバクーとハサウェイにも判っていた。だがまさか、このような状態になっていたとは。ラッツは思わず目を丸くし、立ちすくんでしまった。
「ラッツ、ハサウェイ殿、こっちだ」
バクーが残骸に身を隠しながら、ラッツとハサウェイを呼ぶ。そこにあったのは、かつて部屋があったであろうその面影は残ってはいるものの、もはやその目的を果たしていない壁の一部と、強力な力でひしゃげられた重厚な扉だった。そして、無残に殺されている幾人かの憲兵の死体。ラッツの背後でハサウェイが小さい悲鳴を上げたのが判った。
「バクー少佐、これは……」
「わからん。何か爆発が起こったのか」
と、ひしゃげられていた重厚な扉が、最後の叫び声を上げ地響きを轟かせながら横たわった。その衝撃で幾つかの瓦礫が天井だった物の一部から辺りに降り注ぐ。思わず身構えてしまったラッツとバクーだったが、その視線の先に彼らが探していた人影があった。
「ララちゃん! ヘス君!」
最初に走りだしたのはハサウェイだった。その後を追うように瓦礫を踏み越えながら、ラッツとバクーが彼女らの元へ急ぐ。
だが、ハサウェイの足が彼女らの手前でピタリと止まった。血だ。波打つように湾曲してはいるものの外壁や天井と違い、原型を辛うじてとどめているその床におびただしい量の血痕がいくつも残っている。それが彼女らの血痕なのか憲兵達のものなのかは判らない。
「……ララ殿は無事だ。ヘス殿は……危険だな。腹部銃傷に多量の出血。早く運ばねば」
冷静にバクーがララ達の状況を確認する。ヘスの荒い呼吸音がラッツの耳にも届いた。
流石はバクー少佐だ。生々しい憲兵の死やララ達の状態を見て気圧されてしまった自分とは違う。この惨状よりも、もっと酷い戦場をいくつも渡ってきていためだろうか。この程度の事で動じないバクーにラッツは尊崇の念を隠せなかった。
「は、早く運びましょう」
「あそこにトト殿も倒れている。ラッツ、見て来い」
了解しました、と言葉を発しようとしたラッツの目に、少年の姿が飛び込んでくる。うつろな表情で何かを訴えているような、青白い少年。その異様な佇まいにラッツは体中の毛が逆立った様な気がした。
「バ、バクー少佐」
思わずラッツはバクーの名を呼ぶ。今までこの少年に何故気が付かなかったのか。得体のしれない恐怖がラッツを襲う。
「う、うわっ! 何だっ!?」
「ラッツ、下がれ!」
その少年の姿に驚いたハサウェイとバクーの叫び声がラッツの耳に届いたのは同時だった。危険だと判断したのかバクーがヘスを背負ったまま前に出てくるのが気配で判る。だが、この少年は何も動かない。ただゆらゆらと夢遊病者のように佇んでいるだけだ。
「……何だ貴様は」
静かにバクーが警戒した。返答次第では容赦なく叩き伏せると言いたげな口調だった。
「ラ……ラインライツ」
「……何?」
少年がぽつりとつぶやいた。
「ラインライツ……見つけた……ラインライツ……行かないと……」
まるで呪文のように同じ単語を少年は繰り返した。「見つけた」「ラインライツ」「行かないと」と。一体何のことを言っているのか判らないラッツとバクーはお互いの顔を見合った。ラインライツというのはゴートの拠点の一つであるラインライツの事だろうか?
「何を言っている?」
バクーがぼそりと言葉を漏らしたが、少年は何も答えない。バクーの額から冷たい汗が一筋滴り落ちた。まさか自分はこの少年に戦慄を覚えている? 馬鹿な、とバクーが口角を上げた。そんな空気がバクーを支配したその時、困惑した表情のラッツとバクーをあざ笑うかのように少年はぐるりと白目を剥き出すと、ぷつりと操り人形の糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「な、何だ……!?」
その姿にラッツ達は再度憂惧したものの、崩れ落ちた少年のその口からは、もう何も発せられることはなかった。
***
ララは夢を見ていた。
見たことの無い木組みの家。職人の手で作られたのか、金物の使用を最小限に留めているその木組みの家は、ほのかに樹木の香気を放っている。何処か懐かしくそして心が落ち着く家だ。火の魔術によって灯された暖炉の薪が二つに折れる心地よい音を奏でると、ララの鼻腔を甘い香りがくすぐった。大好きな香りだ。すぐに蜂蜜入りのホットミルクだとララは直感した。
「はい、ララ。いつもの蜂蜜入りね」
優しい女性の声が部屋に響いた。この部屋と同じように、何処か懐かしく、安堵する声。しかし聞き覚えの無い声だった。でもララは気にならなかった。それは目の前のホットミルクに夢中になっていたせいなのか、それともこの家のせいなのか。そもそも、ララにはホットミルクが好きだったことも記憶にない。だが、その女性の声と同じく、何故かララにはこの目の前のホットミルクが愛おしくてたまらなかった。
「えへへっ、ララこれ大好き!」
純白の小さなコーヒーカップを待ちきれないと言った勢いでララが両手で掴む。熱せられたミルクが注がれたそのコーヒーカップは暖かく、じんわりとしたその心地よさが両手から伝わってきた。
だが、ララはそのホットミルクに口をつけることができなかった。なぜか、それを飲んでしまったら全てが終わってしまうような恐怖があったからだ。
「……飲まないの?」
ララの隣に腰掛けた女性が呟く。ララはその女性を見上げたが顔は判らなかった。黒くかすみ、霧がかったようにはっきりと判らない。記憶の欠片もない女性の姿。だが、その姿にララのお腹の上の辺りがジンジンとうずいていた。
「うん」
「どうして?」
「飲んじゃうと駄目な気がして」
カップを両手で握り顔の前までカップを運んではみたものの、口をつけることができず、ララはじっと揺れる乳白色の液体を見つめている。
「……ごめんね、ララ」
「えっ?」
その女性が悲哀の色がにじみ出ている声を発した。本心で許しを乞うている女性の声だった。と、握りしめていたカップのホットミルクに異変が起きていた。甘い香りを放っていた乳白色の液体は……腐臭漂うどす黒い液体に変わっている。
血だ――――
驚いたララはカップから手を離すと、重力に逆らうことが出来ずカップは足元で砕け散った。その瞬間ララは気づいた。先ほどの木組みの家ではなく、薄暗い牢の中に自分が居ることを。暗く、薄ら寒い、孤独な牢。
「ララ、ごめんね。行かなきゃいけないの」
女性の声が牢に響いた。
「誰、貴女は誰!?」
ララはその闇と恐怖に折れてしまいそうな心を、己の声で必死に繋ぎ止めた。虚空に向かって放ったその言葉に、冷たい沈黙が答える。しかし、ララには本能で判っていた。お腹の上がジンジンするこの感覚。
あれは――――母だ。
***
開いたララの目に映ったものは、先ほどと同じような木作りの天井だった。だが、先ほどと違うのは、金具を多様した一般的な木の天井。自宅の暖炉よりも一回り大きい、大型の暖炉で揺らいでいる炎が木作りの天井に優しく影を落としている。
ここはどこだろう、とゆっくりと身を起こしながらララは思った。彼女が寝ているベッドの他に幾つか並べられた同じ形のベッド達。それに、幾つかカーテンで仕切られ、そのカーテンの境目から点滴スタンドが覗いている。
病院とまでは行かないものの、何処かの治療室だとララは直感した。そしてそのうちの一つのベッドでララは視線を止めた。その視線の先には横たわっている少年の姿。
「ヘス……?」
ララはベッドからするりと抜けだすと、しんと静まり返った部屋にペタペタと床に貼り付く足音を放ちながらヘスの元へ駆け寄った。
血でまみれていた服から、白いシャツに着替えられていたヘスはその服の上からでも判る程の大きなガーゼを腹部に当てられ、包帯でくるまれている。まさか、とは思ったが静かに上下している小さな胸がララの目に映った。
助かった。ヘスは助かっていた。意識はなくベッドに横たわったままの姿だったが、ヘスが助かったということにララは安堵し、思わず小さな涙を浮かべてしまった。
「でも、ここは……」
何処だろうか。そして、あの崩れつつあった憲兵本部はどうなったのだろうか。ラッツ達は。そして、あの少年は。安心したララの脳裏に幾つもの疑問が浮かび上がった。そして私達をここに運んでくれたのは誰だろうか。
「ララ……ちゃん?」
静まり返った部屋に響き渡った聞き覚えのある声にララはハッとした。部屋の端にある扉が少し開き、そこから顔をのぞかせている男の姿……ハサウェイだ。
「ハサウェイさん!?」
「ララちゃん、気がついたんだね!」
「ああ、ハサウェイさん!!」
ララは思わずハサウェイの元に駆け寄るとその身体に抱きついた。ハサウェイも無事だった。だとすると、ラッツやバクー達もきっと……。ララの顔に笑顔の花が咲いた。
「無事だったんですね……! よかった……!」
「うん。ラッツさんとバクーさんが助けに来てくれてね」
「ラッツさん達は……」
「うん、もちろん無事だよ。大変だったんだ。ヘス君もトト君も怪我しちゃっててさ」
トトは、と思わず声を荒らげようとしたララをハサウェイが手で制した。
「大丈夫、別の部屋に居るよ。怪我は大したこと無かった」
「ああ、良かった……」
皆無事だった。その事実にララは胸を撫で下ろす。
「……ここは何処なんでしょう?」
「ここは、ビビの街の魔術師協会さ」
ハサウェイはそう言って事の成り行きを説明し始めた。ヘスが牢を飛び出してララの元に向かった後を追い、五階に向かったこと。その途中に爆発音がして五階から上が吹き飛んでいたこと。そして、倒れていたララとヘス、トトの姿を見つけ、そこに青白い少年が佇んでいたこと。
「あの彼は何処に?」
「別の部屋に居るよ。……ええと、これは僕の予想なんだけど……あの少年は『禁呪書』じゃないのかい?」
静かにハサウェイが囁いた。あの魔術構文とそして目の当たりにした悪魔の所業。そういう表現が合っているのかララには判らなかったが、彼が「禁呪書」だということは間違いなかった。静かにこくりとララが頷く。
「やっぱり。魔術解読師の技術があるララちゃんが言うならば間違いない、か」
ハサウェイが顎に手をあて、眉を潜めながらそう呟く。
「ヘスの容態はどうなんでしょうか」
ララが知りたいのはそこだった。一命は取り留めたとはいえ、あの傷であれば今も危険であることには間違いないとララは思っていた。
「あ、うん。大丈夫だよ。ガーランドさんが居たから」
「ガーランドさん?」
「非武装中立区画北部責任者、ガーランド支部長だよ。ほら、姿は見えなかったけど出張所で叫んでいた人」
「……あ! あのおっきな声の人ですか?」
そうそう、とハサウェイが笑みを零す。
「ガーランド支部長は、中級魔術の一つ『治療魔術』のライセンスを持っているんだ。彼がヘス君とトト君を」
治療魔術は発現するためには高度なスキルを必要とする一般人には到底扱えない中級魔術書の一つだ。中級魔術はその一つだけで、商売が成り立ってしまうほどの高い効果を発現するものが多い。その最たるものがこの治療魔術だった。
ハサウェイの説明にララはもう一度ヘスを見る。たしかに、致命傷を負ったにしてはすこぶる顔色が良い。呼べばすぐ起きそうな、そんな雰囲気さえあった。
「それよりもララちゃん、もう一度見て欲しいんだけどさ」
ずり落ちかけていた眼鏡をハサウェイが指で上げる。扉から刺し込む明かりが反射しハサウェイの眼鏡が鋭く光を放った。
「えっ?」
「う、うん。ララちゃん達と一緒にいた少年の身体に書かれた魔術構文なんだけど……」
こっち、とハサウェイが更に奥の部屋にララを案内する。
まるで隔離するかのように設けられた小さな部屋。そこに一床設置された小さなベッド。そこで静かに眠っているのはまだ記憶にあたらしい、青白いあの少年だ。
「ガーランドさんに報告する必要があってさ。僕には魔術解読師の技術は無いから、もう一回しっかり見てくれないかな?」
頼むよ、とハサウェイが両手をあわせ懇願する。
「……はい、大丈夫ですよ。見てみますね」
にこりとララは笑顔で頷く。先ほど腹側だけしか見ていなかったララはこの禁呪が何を媒体にしているのかが判らなかった。それがわかれば多少危険を回避できるかもしれない。その情報はハサウェイにも伝える必要がある、とララは思った。ララはゆっくりとベッドの逆側に周り、少年の身体を食い入るように調べはじめた。
「ハサウェイさん、彼の身体を少し起こしていただけますか?」
ララのその言葉に、ハサウェイが慌てて駆け寄り、優しくこの「悪魔」を起こさないように身を起こした。そのまま流れるようにララは少年の身体に書かれた魔術構文に目を通していく。
「……記述がありますね。間違いなく『禁呪』の魔術構文です。ほらここ……」
少年の左わき腹の構文を指さし、ララが続ける。
「ど、どこ?」
「ここです。『血液を媒体とし、精神の揺らぎに呼応して発現させる』とあります。発動する魔術は……」
そこから腹側に指をすべらせ、へその左で指を止める。
「『天魔の炎槌』と書かれています。『天魔の炎槌』って古書に書かれている『大陸の一つを滅した禁呪魔法』ですよね」
「天魔の炎槌」――
その名前を聞いて、ハサウェイは息を飲んだ。
ララの言うとおり、「天魔の炎槌」は幾つかの歴史書で明記されている大陸の一つを滅ぼしたとされる上級魔術だ。歴史書によれば、グラントールが制定されるはるか前に二度発現が確認されている。
一度目は古代王朝時代、外部からの侵略に対抗する手段として発現され数万の敵兵士を無に帰したとされている。そして二度目は皮肉にもその古代王朝を滅ぼさんと攻め込んだ軍勢が発現した。王都の中心で発現された「天魔の炎槌」は王都と王の一族を飲み込み、古代王朝をこの世から消滅させた、とされている。だが消し去ったのは国だけではなかった。同じ時代に同じ場所で違う勢力が発現した二度の禁呪にその大陸は海の藻屑と消え、今はその片鱗すら残されていない。それほど強力かつ凶悪な魔術。それが「天魔の炎槌」だった。
「ま、間違いなさそうだね……」
間違いない。ハサウェイの言葉にララもそう思った。血液を媒体として、精神の揺らぎで発動する凶悪な破壊力を持つ魔術。書物に書かれた魔術書ではなく、身体に直接書かれているため、媒体は常に魔術構文に供給されている。そして、相手の心を読み精神の揺らぎを起こし、発動させる。まさに「人間兵器」と呼べるこの魔術構文にララは一瞬背筋に冷たいものが走った、が、ララのその恐怖はその目に映った次の一文で鳴りを潜める。
「……ちょっと待ってください」
ララの指がその先の構文を追っていく。まだ何か重要な事が書かれているのだろうか、とハサウェイはゴクリと唾を飲み込んだ。
「何か……なんでしょう。メッセージの様なものがあります」
「メッセージ?」
魔術書には、その構文内に注意書きとしてメモが残される事が多い。誰にでも扱える下級魔術書にはあまり見られないが、高度な魔術解読師のスキルが必要になる中級魔術書以上のものには特に注意すべき点が魔術構文師により記載されている。その魔術書を作った魔術構文師の癖によって、多少手順が変わることが多い中級魔術書だからこその物だった。
だが、ララが言っているのは注意書きではなく、メッセージだった。
そしてさらにララに違和感を与えたのは、そのメッセージはこの構文を読んだ魔術解読師に対するメッセージだったからだ。
「えっと……『人道を無視した研究を行っている協会を裁いて欲しい。私の意思をこのメッセージを読んだ魔術解読師に託す』……ええっ?」
さらさらと読み上げていたララが驚嘆の声を漏らした。人道を無視した研究を行っている協会を裁いて欲しい……その意味がどういうことなのかララはすぐには判らなかった。
まさか、大協約の順守を監視する第三者機関である魔術師協会がこの「悪魔」を……?
「ハサウェイさん。これって……」
ハサウェイもまた、そのメッセージに言葉を失っていた。魔術師協会の職員であるハサウェイですら知らないその内容。このメッセージが真実なのか、全くの虚構なのか、ハサウェイでさえ判らないようだった。
「初めて聞いたよ。研究ってなんだろう。まさか魔術師協会が……今回の騒動の黒幕?」
まさか。ララは信じられないといった表情を見せる。ハサウェイの言うように、もし魔術師協会がこの騒動の黒幕だとしたら……ララには全く合点がいかなかった。不自然な点が多すぎるのだ。
もし魔術師協会がこの「悪魔」を創ったとしたならば、一体なんのためにこの「悪魔」を世に放ったのか?そして、何故自ら「バンシーの森事件は禁呪書によるものだった」と発表したのか? 考えれば考えるほど、ララには皆目見当もつかなかった。
「判りません……ただ、ガーランドさんに聞けば……」
北部責任者であるガーランド支部長聞けば事の真相が判るかもしれない。ララはそう直感した。的を得ている、とハサウェイも頷いた。
「そうだね、協会内でも影響力があるガーランドさんに聞けばすべて明らかになるかも、だね」
「明日朝にしましょう。治療魔術で回復したヘスとトトも明日には目が覚めるかも知れないし」
明日になればすべてが明らかになるかもしれない――にこりとララが笑みを浮かべると、その笑顔に応えるようにハサウェイは笑顔でもう一度静かに頷いた。
これまでに何度も見たハサウェイの暖かい笑顔。
だが……それがララが見たハサウェイの最後の笑顔だった。
第18話は日曜日にアップ予定です