第16話 青白い悪魔
ヘスの腹部を襲った弾丸は、その小さな身体を貫通し、ララの傍らに小さな穴を穿った。一体何が起こったのか、ララにも、そしてヘス当人にも判らなかった。しかし、一瞬の静寂を乗り越え、真っ赤に焼けた火箸を突き刺されたような熱さを伴った激痛がヘスに襲いかかると、ヘスはその事態を受け入れる必要を迫られた。
撃たれた。
その事実が痛みに恐怖の味を添える。
「……」
ヘスは何も言葉を発せなかった。ただその痛みを押さえつけるように、撃たれた腹部を押さえたまま膝からその場に崩れ落ちる。
「ヘスッッッ!!」
嘘だ、これは夢だ。目の前の現実を受け入れられなかったララは、ヘスの身を抱き起こし、彼が押さえている腹部に手をあてがうと「有るはずはない」と確かめるようにその身体を調べまわった。当たっているはずがない。ほら、何もないじゃない。自分に言い聞かせるように、そうララは呟いた。
しかし、ヘスの身体に回したその小さな手に感じた、ぬるりとした感触が彼女にその事実を突きつける。扉から刺し込む光に照らされて、真っ赤に染め上げられている己の手が、大きく見開かれたララの目に映り込んだ。
「嫌……嫌ッ! ヘスッ!」
堰を切ったように大粒の涙がララの頬を伝う。ヘスのその血の匂いがララを錯乱させた。流れ落ちる血をその身体に戻そうとララは必死に地面に滴るヘスの血をすくう。そうすることでヘスは助かるはず。そう思いながらララは何度も、何度もすくった。
「フム。せいせいしたわい」
儂の腕も捨てたもんじゃないな、と悦に浸りながら指揮官がまじまじとピストルを眺め、そして再び冷たい瞳を携え、銃口をヘスに向けた。
「どうだ、痛いか小僧。大人を舐めるからそういう目にあう」
「ララ……逃げろ……」
錯乱しているララの肩を掴み、うつろな目でヘスが小さく囁いた。目の前のこの醜い指揮官にララを渡す訳にはいかない。残る力を振り絞るようにヘスが指揮官の前に立ちはだかった、が、すでに視界はぼんやりと歪み、意識が遠のきつつある。気を抜けば砕けてしまいそうな足を抑えつけ、その気力だけでヘスは立っていた。
「ほっほっほ。このまま苦しませて殺すのも一興だが、ようやく巡り会えた後ろの少女との『楽しみ』の時間が勿体無い」
霞む目でも判るほど下衆で下品な笑み。ヘスは死への恐怖よりも、先に己への不甲斐なさを悔いた。力が無いばかりに、ララを守れない。
ヘスの死ぬ姿を見逃すまいと指揮官が目を大きく見開いたのが判った。そして、その丸々と太った指を引き金にかけた瞬間ーーーー
「……テメェッ! この豚野郎ッ!」
「うっ!?」
闇の中から見えない何かに襲われた指揮官は、先ほどまでの威勢を喪失させ、恐怖に慄き身を竦めた。指揮官に襲いかかったのは、牢の高い位置に逃げていたトトのその爪と嘴だった。
「ひぃッ! 何だッ!? 何だッ!」
思った通りの小者だ。姿も音も無く襲い掛かるトトを近づかせまいと手当たりしだいに腕を振りまくる指揮官にトトはそう直感した。
「オラ、もっかい行くぞッ!」
くるりと闇の中身を翻し、獲物を狙う猛禽類のようにトトが滑空体勢に移る。指揮官はまだトトの姿を捉えていない。
指揮官の顔に照準を合わせたその時、闇に目が慣れた憲兵の一人がうろたえる指揮官に耳打ちしている姿がトトの目に映った。バレたーー恐ろしく夜目が効く奴が居る。体勢を立て直すために指揮官の上を通り過ぎ、再度トトは身を翻した。
「カ、カラス!? 何故牢の中にカラスが! ええい忌々しい! 殺してしまえッ!」
「ハッ!」
指揮官の指令に憲兵達は一斉にサーベルを抜くと、扉から刺し込む光に照らされ一瞬ギラリと怪しい煌きを放った。
だが、空中を自由に飛ぶトトには彼らの短いサーベルを躱す事に難はなかった。
間合いを制しているのはこちらだ。中に夜目が効く憲兵も居るようだが、牢の暗闇も味方している。闇に紛れ指揮官の目の一つでも潰せば彼らは逃げ出すようにこの牢を去っていくだろう。
トトがタイミングを測るようにくるくると回りながら、再度指揮官に飛びかかろうと滑空したその瞬間ーーーー指揮官の隣に控えていた憲兵がサーベルを斬り上げた。しまった夜目の効く奴か、とトトは身の危険を感じ距離を取ろうと身体を捻ったが、遅かった。サーベルがトトの翼を切り裂き黒い羽が牢内に散ると、そのまま浮力を失ったトトは音もなく床に落下した。
「ぎゃっ!」
「トトッ!」
声は聞こえたが、ララの場所から落下したトトの姿は見えない。怪我をしたのか、それとも……。嫌な予感がララの脳裏を過るが、さらに事態は悪化していく。そのトトの姿に呼応するように、朦朧とした意識の中、指揮官の前に立ちはだかっていたヘスがついに意識を失い、トトと同じように地面に崩れ落ちた。
「……ヘスッ! あああっ!」
その二人の姿を見て、ララは泣き叫びながら掻きむしるように頭を抱えた。自分ではなく周りの人達が傷つけられていく。その現実に幼い少女の精神は限界に来ていた。
「もう、もう止めてください! なんでもしますから……だから……」
もう自分にできることはこの場の強者であるこの指揮官にすがることしか出来ない。だが、懇願するように己の足にすがりつくララを見て、サディズムが刺激されたのか満悦の表情を浮かべながら指揮官は冷たい一言を言い放つ。
「……駄目だ」
指揮官がその短く太い足でしがみついたララを蹴飛ばす。簡単に宙に浮いたララの身体が地面をゴロゴロと転がると、落ちた彼女の眼鏡がカツンという小さな音を奏でた。蹴飛ばされた事自体は大したことが無かったが、動けない。絶望が彼女の身体から自由を奪っていた。お前の相手は後でたっぷりしてやる、と笑みを浮かべたまま動かなくなったララの姿を見届けると、指揮官は再度銃口をヘスに向けた。
この距離で身動きがとれない標的に弾を当てることなどたやすい。冷たい笑みを浮かべながら即座に指揮官は引き金を引いた。
「……止めてェェッ!」
うなだれるように地面に突っ伏しながら叫んだララの慟哭と、乾いた銃声が牢に響いたのは同時だった。その音と火薬の臭いがララに絶望を運んでくる。
そして訪れる牢を支配する、痛い、痛い静寂。立つことすら出来なかったララは、うつ伏せのまま這うようにヘスの元へ向かった。
大丈夫、絶対、大丈夫。
先ほどと同じように神に祈りながら血に染まったヘスの身体をララは抱きかかえた。涙でよく見えない視界を補うように、ララは両手でヘスを探る。神経を指先に集中させその顔と身体を。
「うぅ……」
「へ、ヘスッ!」
ヘスが苦悶の声を上げた。彼女の祈りが通じたのか、新たに撃たれた傷はどこにも見つからなかった。信じられなかった。指揮官が放った弾丸は何処にも当たっていない。どころか、弾が地面に着弾した音すらも無かった。
「ど、どういうことだ!? 確かに今……」
信じられないのは、発砲した指揮官も同じだった。
ピストルが故障したかと再度指揮官は銃を構えると、躊躇なくもう一回引き金を引いた。同じように、発砲音が響くが……弾は目の前の少年に当たらない。当たらないどころか、地面にもその痕跡は残らない。火薬の破裂する音と、激しいリコイル、弾丸が発射される感覚は確かにある。しかし目の前で起きている事は想定している結果とは異なる。指揮官は何が起きているのか全く判らなかった。この場の強者は自分のはずだったが、彼は逆に追い詰められているような感覚に陥る。理解できないまま、無心で二回、三回と引き金を引き……やがてその全てを出し尽くしたピストルは遊底を後退したまま、機関部が露出した状態で停止した。が、結果は同じだった。
「何だ一体!? なぜ弾が出て来ぬ!?」
銃口をつきつけられワンマガジン全てを撃ち尽くすほど弾丸を浴びせられたララも同じ心境だった。弾は届いていない。では放たれた弾丸は何処に消えたのか。ララには皆目見当もつかなかったが、その疑問は次の指揮官の行動で、その一部が解明された。
何の冗談だ、と指揮官は地団駄をふみながら、怒りに任せ投げつけたピストルが――――目前で忽然と姿を消した。
それはかき消されたかのように音もなかった。その出来事に指揮官も、憲兵達も、そしてララも目を疑った。
「ピ、ピストルは何処だ!? 何処に持っていった!?」
幻を見ているかのような表情で、指揮官が慌てふためき、間抜けな質問をララに投げかける。弾丸が当たらず消え去ったのもきっとこれが原因だ。更には、この様な常識外の現象が発現する物は一つしか考えられない。――魔術だ。
魔術……ララの頭にそう浮かんだその時、小さい囁くような声が聞こえた。
「……痛い、ララ、痛い」
「えっ?」
咄嗟に声のする方へ顔を向けると、そこには青白くまるで幽霊の様な少年が立っていた。夢遊病者の様にゆらゆらとした佇まいの少年。先ほど気絶していた少年だとララにはすぐに判った。その少年のうつろな目はキョロキョロと何かを探すように辺りを見渡している。その異様な佇まいに戦慄を覚えてしまうのが普通であろうが、その姿よりも、ララは少年がポツポツとつぶやいているその言葉が気になっていた。この少年は確かに口ずさんだ。ララの名前を。
「……ヘス、ヘス、死ぬ、血……」
青年が何処か不安を感じているような表情を見せながら、別の単語を口にした。今度はヘスの名前だ。先ほどの会話を聞いていたのか、とも思ったが、口ずさんでいるのは会話から得た情報ではなさそうだ。その言葉の端々に感じるのはもっと奥底の……心?
その言葉でララは気づいた。まさかこの少年は、心を読んでいる? そして、ララのその予想が的中していると言わんばかりに、少年の雰囲気が一変した。
「小僧……殺す……生意気……こ、コロ……」
ううう、と頭を抱えて少年が苦しみ出す。今のは指揮官の心だろうか。やはりこの少年は周りの人間の心を読んでいる。いや、読んでいるというよりも、その心と「同化」している……?
「な、何だこの小僧は……!? 構わん、殺してしまえッ!」
邪魔者は排除するという彼の信条に基づき、当然のごとく憲兵達に指示を出す。だがその表情に余裕は無い。明らかな恐怖に支配されている顔だ。少年の姿に躊躇したのか、一瞬の間を置き、指揮官に指示された憲兵が数名ピストルを構え前に出るのが判った。
「うぅううぅう……!」
少年の動向を確認するようにジリジリと距離を詰める憲兵に反応するように頭を抱え、うなだれたままの少年が恐れとも怒りとも取れる声を上げた。
今だ、と憲兵達が近づこうとした次の瞬間――見えないハンマーに殴られたかのように、突然正面の憲兵が吹き飛ばされた。
悲鳴とも擬音とも取れる上ずんだ声を発して、憲兵が指揮官の横をかすめると重厚な扉に激突すると、喀血しながら潰れるようにその場に倒れこんだ。
「な、何……」
その突然の出来事に、憲兵達を底知れぬ恐怖が支配する。
恐怖は己の常識の範囲を越えてしまった時に訪れる。得体の知れないこの少年の何かに、すでに憲兵達の常識の壁は崩され、強大な恐怖が忍び寄っていた。
「う、うわぁぁあぁっ!」
そして恐怖は毒だ。それはいとも簡単に侵食し、身体を蝕む。
憲兵の一人がその恐怖に負けピストルの引き金を引くと、その憲兵の恐怖が周りに伝染し連鎖反応の如く次々とピストルが発砲されていった。その凄まじさに、ララは思わず耳を塞ぐ。その時間は三十秒ほどだっただろうか。時間としては短いが、永遠に続くのかと思うほど、途切れること無くピストルから弾丸が放たれた。そして、悲鳴をあげるようにピストルは遊底を後退させ鳴りを潜める。
硝煙で少年の姿がよく見えなかったものの、さすがにこれだけの弾丸を打ち込めば生きていることなど出来るはずがないと憲兵の誰もが思った。
――が、彼らの願いは脆くも崩れ去る。
「……ば、馬鹿なっ……」
憲兵の目に映ったのは、先ほどと同じ状況。無傷でゆらゆらと立つ少年の姿。四名のピストルから計六十発もの弾丸が発射されたが、一発たりともその少年の身体を捉えることはできていなかった。
その姿を見てララは確信した。魔術だ。彼の魔術で弾が消されたのだ。少年の姿に恐れ慄く憲兵達が後ずさると、彼らをあざ笑うかのようにゆっくりと少年は抱えていた頭を上げた。――そこからが地獄のショーの始まりだった。
「な、な、何で……フヒヒッ……なんで、当たらない……ヒヒッ」
少年の目つきが変わった。恐れと不安で支配されていた目が、狂気に変貌していく。その狂気の最初の餌食になったのは、少年に一番近い場所にいた憲兵だった。今度は頭上から巨大なハンマーで叩きつけられたかのように、轟音とグシャリと骨が砕ける音を放ち、地面に巨大な真紅のクレーターを生成した。即死だった。一体何をどうしたらこんな芸当ができるのか。石畳がまるで波打つかのように幾つもの歪みを作り出している。
「な、な、何なんだ貴様はっ……!」
指揮官が明らかに恐怖に怯えた声を漏らした。
すでに腰がぬけてしまっているのか、地面にへたり込んでしまっているもののそれでも威厳だけは保たせようと、必死の形相で少年を指さしている。と、そんな彼の威厳など知ったことではないと続けてもう一人の憲兵が弾き飛ばされる。勢い良く空中に浮いた彼の身体は、遥か上方の天井に近い壁に打ち付けられると、ビシャリという破裂音を牢内に響かせた。
「バケモノ、バケ……コロ……殺す……殺したい」
少年の口元に切り裂かれたかのような冷たい笑みが浮かんだ。とても冷たく、凶暴な微笑。まるで「悪魔」の様なその姿から逃げ出すように、言葉になり得ない叫び声を上げながら残りの二人の憲兵が牢の扉に向い走りだした。儂を置いて逃げる気か、と指揮官が叫んだその瞬間、逃げる憲兵を中心に空気が歪んだ。ズドンという大きな衝撃音がララの耳を劈き、暗闇に支配されていた牢に巨大な窓が穿たれた。
「こんなのって……」
青白く浮き上がったどこか哀しげな少年の姿にララが小さく呟く。巨大な窓から見えるビビの空は黒く落ち、月明かりが一筋、少年に刺し込んでいた。
巨大な穴を穿たれた事でバランスを崩し、ガラガラと崩れ落ちる天井。
目の前で跡形もなく吹き飛んだ憲兵の姿が生み出した恐怖に情けなく逃げ惑う指揮官の姿。
――そして、まるでその殺戮を楽しんでいるかのような冷たい笑みを浮かべる少年。
吐き気を催す死の臭いが立ち込めた中、それは夢の中に居るような現実離れした光景だった。起こしてしまったのだ。決して呼び起こしてはいけない「悪魔」をあの指揮官は起こしてしまったのだ。
「ララ……にげろ……」
ぐったりと力なくララの腕の中で横たわっているヘスが、先ほどと同じセリフを漏らす。が、ララは何処にも行く気はなかった。
「ヘスを置いて行けないよ」
ララが小さく首を振り、血にまみれたヘスの手を優しく握る。と、ひときわ大きな瓦礫が雪崩のように建物の外へ崩れていくのがララの目に映った。先ほど穿たれた穴はすでに天井を食い尽くし、かつての牢は原型をとどめていない。
少年はララをじっと見つめていた。その顔は、また恐れと不安の表情に変わっていた。そしてその中にわずかに感じる、悲壮感。何故そんな顔を。ララがそう感じた瞬間、再度凄まじい衝撃が憲兵本部を襲った。そして、その衝撃に吹き飛ばされるように、ララの意識は深い、深い闇の中に静かに沈んでいった。