第15話 騎士道
「ヘス君ッ! 駄目だッ!」
まだ警報が鳴り響いている憲兵本部の中を一人で行くなんて無謀すぎる、と「念話魔術書」を投げ捨てたヘスをハサウェイが制止しようと叫んだ。だが、もうヘスの耳にはけたたましい警報の音すら届いていなかった。ヘスは倒れている憲兵が携えていたホルスターからピストルをかすめ取り、階段をかけ登っていく。
「危険です、一人でいくなんて!」
「……どけッ!」
ヘスはピストルの銃口をラッツに向け、彼が怯んだ隙に脇をかすめるように通り過ぎて行く。銃口をラッツに向けたヘスの顔は明らかに頭に血が登っている表情だった。冷静に立ちまわったとしても、憲兵達が警戒している今、五階に行くことは困難だろう。ましてや冷静さを欠いている少年が一人で行くなど無謀すぎる。
「バクー少佐! 彼を止めてください!」
ヘスの表情を見て、咄嗟に判断したラッツが叫ぶ。バクーの腕力であれば、例えピストルを持っているとはいえ、ラッツを止めることができるはず。だが、ヘスの身を案じたラッツとは対照的に、バクーは走り抜けていくヘスを止めようとはせず冷めた目でただじっと彼の姿を追いかけただけだった。
「……!? バクー少佐!?」
ヘスの姿が廊下から消えた事を見届けると、バクーは困惑した表情のラッツの横を抜け階段を降り始めた。その表情に感情は無く、まるで鉄で出来ているような印象をラッツに与えた。
「……立てるか」
階段の下で座ったままのハサウェイの腕をとり、バクーがぼそりと声をかける。その静かな声に気圧されてしまったハサウェイは無言で何度も頷いた。ラッツはバクーの空気が一変してしまったことに驚きを隠せなかった。ララを助けるとバラックの酒場でそう言っていたのに。
「バ、バクー少佐! 私達もヘス君と一緒に……」
「ならん。我々の任務を忘れたかラッツ」
ハサウェイの肩を持ち、バクーが鋭い目つきでラッツを睨みつける。我々の任務……その言葉にラッツは続く言葉を思わず飲み込んだ。
「し、しかし……」
「まだ判らんか、ラッツ。ララ殿を助けたのはこの為だ」
ヴィオラから与えられた任務は「禁呪書」を探し出す事。そのために必要なのはこの魔術師協会の職員であって、ララ達ではない。バクーの言葉に潜むその意図がラッツの心を切り裂くと、牢内には静かに警報の音だけが鳴り響いた。
「……ダスト・シュートから一階に降り、再度バラック民を装い脱出するぞ」
黙ったままのラッツに命令を下すように、バクーが小さく言葉を零す。が、ラッツはそう冷たく言い放つバクーの命令に従う事は出来なかった。憲兵総務室の中で感じた小さな疑問がまたもやラッツの心に顔を出してしまったからだ。確かに禁呪書を探し出し、ヴィオラに献上することがゴート陣営やパルパス陣営を打ち倒し、この内戦に終止符を打つことになるかもしれない。しかし、それでは「恨み」という残骸をこの国に残してしまい、その「恨み」はやがてくすぶり、そして巨大な炎になってしまうだろう。
それでいいのか。あの時と同じ声がラッツの心を刺した。
「……バクー少佐、やはり間違っています」
「……何?」
聞き間違いか、とバクーが怪訝な表情をラッツに見せる。上官に己の意見を訴えることに、恐怖を感じたラッツは杭のように身を硬直させてしまったが、それでも彼の目はしっかりとバクーを見据えていた。
「ぼ、僕にはララちゃん達を見捨てて、禁呪書を探す事は出来ません!」
再度しっかりと言い放ったラッツのその言葉に、バクーの表情に怒りが隠ったことがラッツにもはっきりと判った。例えどんな状況であれ、上官に歯向かった者は銃殺刑に処されてしまうだろう。だが、ラッツは言わずには居られなかった。
「……任務を放棄して、あの娘の元に行く、と?」
「バクー少佐も……バクー少佐も解っているはずでしょう? 人は利己的では駄目なんです」
懇願するようにラッツが答える。バクーに葛藤が起きている事はラッツには判っていた。ゆえに、バクーは鉄の表情でそれを覆い隠しているということを。
「僕も、バクー少佐も、あの酒場の元軍人も、バラックの人たちも、クロムウェル人もパルパスの人々も、皆心で動いている人間なんです。自分たちの都合で自分たちの利益ばかり求めても、同じ悲劇の繰り返しになってしまうんです」
ラッツの真理を突いたその意外な言葉にバクーの表情が歪んだ。
「……それは戯言だラッツ。幾度と無く数多くの将兵が願った『残酷な希望』だ。そして、その希望で生まれたのがこの内戦だ」
彼だけではない、将兵の全てがそうあるべきだと思っていたはずだ。だが、一将兵で大きな流れを変えることなど出来るはずもない。その無力感と絶望がこの国で戦う兵士達を、そしてバクーを襲ったであろうということはラッツにも痛いほど判っていた。
自分の心に小さく引っかかっていたそれは、まだ若く、経験も無い「士官候補生」であるからこそ芽生えているものかもしれない。しかし、どうしてもラッツは己の中のその「声」を無視できなかった。
「酒場で会ったあの元軍人に言われて思い出したんです。子供の頃に見た装甲騎兵の『騎士道』に憧れていた事を……」
「……!」
「騎士たるもの、忠義を尽くし、かの婦人を守らんとすべし」――忠義を尽くし、己を犠牲にしても、弱き者を守る。それがハイムの「騎士道」だった。まさか未熟な士官候補生にその「騎士道」を吐かれるとは思って居なかったバクーが今度は言葉を失う。バクーの中でもラッツの言う通り、答えの出ない葛藤が起きていたという事は事実だった。そしてその矛盾の反動がバクーを襲っていた。任務だから、任務のせいで。バクーは、騎士道に反しているのではないかという己の中の声を抑えこみ、そう言い訳をしていくにつれ、自分の心がわからなくなっていた。
本当の騎士道とな何か。騎士とは何者なのか。己の信じる「道」とは何なのか。
「……ハサウェイ殿。構わんか」
「へっ?」
突如バクーから言葉を振られたハサウェイが上ずった声を上げる。
「脱出は……ララ殿達を助けた後でも構わんか」
何の事を言っているのか判らなかったハサウェイだが、バクーの表情を見てそれが即座に理解出来た。
「彼女達をこの街に連れてきたのは僕です。彼女達を置いて行けません」
そう答えるハサウェイの目に、どこか吹っ切れたようなバクーの「騎士」の顔が映った。それは王に忠し自己犠牲を顧みず、弱きを守ってきた「英雄」達の心強い眼差しだった。
「バクー少佐……!」
バクーと同じように、強張った表情から緊張が抜けていくようにラッツの表情にも笑顔が生まれる。
「時間がないぞラッツ。ララ殿達と合流し、この場から脱出する」
「……了解です!」
バクーが小さく笑みを浮かべた。これから幾度と無く経験するであろうお互いが憎しみ合う争い連鎖の中で、ラッツは自分が言ったことがいかに子どもじみた事で、戯言だったかという事を思い知るだろう。だが、彼の目を見ているとそれに賭けても良いかもしれない、と、バクーは思った。そして、そう思えてしまう自分につい笑みが溢れてしまう。
若気の至りでは無いことを祈ろう。そう思いながらバクーはハサウェイ、ラッツと共に冷たい牢を後にした。
***
暗く冷たい牢の中で、ララはどうするべきか悩んでいた。
「念話魔術書」の反応はなく、ヘスはこちらに向かっているだろう。こちらから階段を降りていけば、途中で合流することができるだろうかと思ったララだったが、「駄目だ」と自分に答えるように首を横に振った。ここに来る道が一つだとは限らないし、もし会えなかったとしたら終わりだ。連絡も取れない以上合流することは叶わなくなるだろう。それに、一階に集合しているとはいえ、憲兵が居ないとは言い切れない。「迷子になったらその場を動くな」という誰かが言っていた少々意味合いが違う言葉を思い出し、ララはこの場に留まる事を決意した。
「お、おいララ。何か身体が……」
ララの隣で少年の顔を覗きこんでいたトトが焦ったような声を出した。次第に暗闇に目が慣れてきたようで、横にいるトトの身体から煙のようなものが出ているのがララの目に映った。まずい。ララの脳裏にその言葉が過った瞬間、それが訪れた。
「わわっ!」
身体から染み出すようにくすぶっていたその煙が爆発するように膨れ上がりトトとララを包み込む。そして、その中から現れたのは「模写魔術」が切れ、元の姿に戻ったカラスと少女の姿だった。
非常にまずい状況だった。「模写魔術」が切れる前であれば、もし憲兵が牢に来るような事があったとしてもどうにでも言いくるめようがあったがこうなってはどうしようもない。憲兵が牢に現れた時点でアウトだ。ララの表情から血の気が音を立てて引いていった。
「ど、どうしよう、トト」
抱きかかえたままだった少年をゆっくりと地面へ寝かせ、ララが立ち上がる。遥か上にある、申し訳程度に穿たれた窓からどうにか出れないかと思案したが、トトは行けても自分は無理だと即座に諦めた。やはり扉から行くしか無いか、と扉に近づこうとしたその時、錆びた悲鳴を上げながら扉がゆっくりと開き始めた。不意の出来事にララは隠れることも忘れ身構えた。
「ヤバい、隠れろ! ララッ!」
トトがそう促したがすでに遅かった。先ほどと同じ三分の一ほど開かれた光が刺し込むその隙間から人影が現れる。ララの表情が恐怖に染まった。
「……へスッ!?」
しかし、顔をのぞかせたのは待ち望んだ少年の顔。ヘスだった。無事だった。そう安堵したララは思わずヘスの元に駆け出す。
「ララッ!? ララッ!」
ヘスの目にもまた、扉の隙間から差し込んだ光に照らされるララの姿が飛び込んで来る。
「ああっ、良かった! ヘス!!」
もう会えないのかと思っていた。ララは喜びを抑えきれないと言った表情でヘスの胸に飛び込むと、その温もりを確かめるように、ヘスはララの身体を全身で受け止めた。憲兵に捕まってからひとときも頭から離れること無く、その無事を祈っていたララの姿にヘスは安堵し、同じように思わず笑みがこぼれる。
「ララも、無事で良かった……」
「本当にバカッ! なんで来ちゃったのよッ……」
ララは眉をひそめ、今にも泣き出しそうな表情を見せる。だが背後で気絶したままの少年の「禁呪」がいつ発現するか判らない。一刻も早くラッツ達と共にこの場を離れなくては、とヘスと共に立ち上がったその時、扉の隙間から刺し込む光を遮る影がララとヘスに落ちた。二度と見たくは無かった、漆黒の制服に身を包んだ彼らの姿。そして、幾人かに守られるように控えた醜い影。
「ほっほっほ、小僧を見かけて後を追いかけてみれば、やはり居たか魔術構文師の少女」
その「招かざる客」の影を見たヘスの顔が引きつった。癇に障るその高い声に、だらしない体つき。憲兵の指揮官だ。やけに憲兵の姿が見えないと思っていたが、まさか後をつけられていたとは。ヘスはうかつだった己を悔いた。
「ほほう、やはり中々可愛い娘ではないか」
「あ、あなたは……」
その醜い口が舌なめずりする姿がヘスの目に映る。先ほど牢でこの指揮官が言い放った言葉を思い出し、ヘスの頭に瞬時に血が登った。
「てめぇ! それ以上近づいて……」
ヘスがララの身を守るように身構える姿と同時に、ララの目に映ったのは指揮官がピストルを構える姿。感情が感じられない冷酷で嫌な目つきだ、とララは氷の様な指揮官の目を見てそう感じた。
そして、ララがそれを感じた瞬間、冷酷な男の手に持たれたピストルの銃口から感情の無い鉛弾が放たれ、まるで引かれたレールの上を流れるように弾丸はララを守るヘスの身体を貫いた。