第12話 潜入
黄昏の夕日が放つ光が憲兵本部の壁を琥珀色に染めている。
街の治安を守るべき象徴であるはずだが、今はまるで打倒すべき悪の組織であるかのようなその憲兵本部を見上げ、出来れば今後一生ここには足を踏み入れたくはないと、キャスターが付いた大きめの廃棄物回収台車を押しながらバクーとラッツは思った。バクーとラッツは軍服を脱ぎ、すえた臭いを発する薄汚れたシャツに、ボロボロの外套を身にまとっている。このボロボロの外套はバラック住民の特長で、聖パルパス教会が施しとして貧民層に配布している簡易な外套だ。
国家としての機能が停止しているシュタイン王国では、各地域を統括する派閥が「自治」という形で国民の最低限の生活を保障している。しかし、特に決まった統治勢力の無い「非武装中立区画」では保障が受けられず、働き口を亡くした失業者が飢え死にしてしまう事例が多発していた。元々シュタイン王国を統治していたのは王室が主軸の「ハイム陣営」だったため、内戦が始まってしばらくは「非武装中立区画」の援助を行っていたが「いかなる軍事組織も立ち入ることを禁じる中立の区画」として三陣営間で制定し設けられた「非武装中立区画条約」を盾に、まもなく援助は打ち切られる事になった。
内戦に終りが見えないことから、余計な事に物資や人的資源を裂きたくないというハイム陣営の本心から来たことは誰の目からも明らかで非難の対象となった。
そんな政治的策略に翻弄された「非武装中立区画」だったが、今は各都市の聖パルパス教会が政治抜きに独自に貧民層に施しを与える、という形でスラムの人々は雀の涙ほどの援助を受けるという形に落ち着いている。
「止まれ」
憲兵本部に足を踏み入れてわずか数分もたたないうちに、入り口に立っていた憲兵がラッツ達を制止した。憲兵の帽子の影に隠れるように光る目が明らかな軽蔑の色を出している事にラッツが気がつく。
「……何でしょうか?」
「いつもの奴はどうした?」
「ええと、誰の事でしょうか」
ラッツは、はて? と大げさに首をかしげる。このオーバーリアクションはバラック住民のふりをするために練習した彼らの真似だ。人との関わりを嫌がる彼らはこういった小馬鹿にしたリアクションをすることが多い。
憲兵がラッツらに近寄るものの、彼らの身体から発せられる特有の刺激臭に顔をしかめ、後ずさる。バラックの住民は皆同じ格好に同じ体臭を放っているため、パッと見の違いなど憲兵には判らなかったが、いつもの巨躯の乞食ではなく二人組が来たため怪しんでいるようだった。
「奴は風邪を引いてしまってな。家で寝ておる」
バクーが廃棄物回収台車に手をかけたまま、低い声でそう答えた。
ぶっきらぼうに応えるバクーに、ラッツは少し焦ったものの、そういった無愛想な対応がバラックの住民らしいなと何処か納得した表情をみせた。
「そうです。自分たちは奴の代わりです」
通っていいですか、と言わんばかりに、ラッツが憲兵に許可証を見せる。
憲兵は、外套のフードに隠れたラッツ達の顔を確認しようとしたものの、近寄りがたいその匂いで遠目から顔を伺う事しかできなかった。
「うっ、判った、もう行って良い。さっさと終わらせろよ」
物乞いを追い払うかのような仕草で険しい表情のまま憲兵が言葉を吐き捨てる。
ラッツはニヤリと笑みを浮かべた。ラッツらが身につけているそれは、バラックの住民が着ていたものを買い取ったものだった。やはりバラック住民独特のこの刺激臭が役に立った。
鼻をつまむ憲兵を横目に、ラッツは一礼し、憲兵本部の奥に足を進める。シュタイン王国の国旗が掲げられた高い天井が印象的なロビーホールを抜け、作戦通り最初の角を左に曲がる。想定どおりの長い廊下と、「憲兵総務室」と書かれたプレートが掲げられた一室が見えた。
しかしラッツ達は目的地であるそこには目もくれず、急ぎ足で廊下を進んでいく。通りざまにチラリと憲兵総務室の中を伺い見ると数名の憲兵の影がラッツの目に映った。やはりそう簡単には行かないかと、ラッツの脳裏に一抹の不安が過った。
しかし、悩んでも仕方がない。憲兵総務室を通り過ぎたラッツとバクーは、そのまま丁度廊下から死角になる一階の廃棄物を集めている集積所に隠れるように身を滑り込ませた。
「……ララちゃん大丈夫だよ」
ラッツが廃棄物回収台車に載せられたゴミ袋の口を開けると、その中から、眉間にしわを寄せ苦い表情をしたララとトトが慌てて出てくる。
ララのような幼い少女がバラックの住民に居るわけは無く、方法を幾つか考えたものの、結局潜入のためゴミ袋の中に隠れる事になった。
「く、くっさ〜い……」
「鼻がもげんぞ、これ」
ララとトトが小さく愚痴をこぼす。だが、ララ達だけではない。ラッツ達もまた殺人的なその匂いと戦っていた。
「僕の鼻はもう麻痺しちゃってますよ。とにかく作戦の第二ステップに」
「急げ」
ラッツの後ろで警戒するようにバクーが廊下を注視しながらそう呟くている。憲兵の姿は廊下には見えないものの、いつ現れるか判らない。バクーの表情はフードに隠れてはいるものの、強張った空気を感じた。
バクーの声に、ぐずぐずしてはいられないと、ララは急いでリュックの中から「模写魔術書」と「念話魔術書」を取り出す。
「何かあったら、すぐ連絡してください」
魔術書を渡しながら、ララが不安そうな眼差しをラッツに送る。まだ新米だとはいえ少女に心配されるほどやわではない。ラッツはララの眼差しを見て、笑みを浮かべてしまったが彼女のその好意は素直に貰おうと、ゆっくりと頷いた。
***
トトはいつもとは勝手が違う自分の身体の動かし方を練習しながら「喫煙所」に向かった。どうにも手と足の動かし方がよくわからない。目の前を歩く、ララが化けた憲兵の動きを見ると右手と左足、左手と右足を交互に動かしているが、どうしても一緒になってしまう。人間など毎日のように見ていたが、彼らが自然に動かしていたそれがこれほど大変なものだとは想像もしていなかったトトは人間というものに改めて感心した。
「ちょっと、トト大丈夫?」
ぎこちない動きを見せているその憲兵にララが話しかける。どこからどう見ても、トトが化けた憲兵の動きは怪しかった。目立たないように変装したつもりだが、これでは逆に目立ってしまう。ララの表情を焦りが支配していく。
「なんつーか、こう、手と足がだな……」
ウンウンと唸っているトトの手を引きララが急ぎ足で廊下を進む。憲兵同士で手をつないで歩くなど怪しい極みだが、グズグズしている時間はない。三十分で効果が切れてしまうのだ。そうなっては怪しいどころの話ではない。そのまま、憲兵総務室の前を通り抜け、ロビーを視界の端に感じた。喫煙所はこの先だ。
「あった。ここだよトト」
ロビーを突っ切った先、運良く手をつないでいる姿を憲兵に見られること無くララ達は例の喫煙所にたどり着くことができた。だが問題はこれからだ。聞き込みなど今までやったことは無い。どころか、自分から見知らぬ男に話しかけるなど経験すらない。
ゴクリと息を飲み込み、ララはゆっくりと喫煙所のドアを開けた。
ドアの向こうに、そこまで広くない縦長の部屋。幾つかのベンチにスチール製のスタンド型の灰皿が幾つか設置されており、目的の憲兵はまばらにその姿が確認できた。一歩中に足を踏み入れたものの、まるで入り口に煙の壁があるような、まとわりつく煙草の匂いがララの鼻を襲い思わず苦い表情を見せる。先ほどの悪臭と言い今日は鼻を酷使する日だ。
「おい、お前、煙が出るだろ。閉めろよ」
煙草を吹かしながらベンチに腰掛けている憲兵が呟く。分煙の為に設けられた喫煙所だ。煙が出て行ってしまっては元も子もないのは当然かと、慌ててララはトトを中に入れドアを閉めた。シンとした静寂が喫煙所に立ち込め、煙草を吹かす音が何度かララの耳に届いた。誰にどう話しかけてよいか判らすず尻込みし、ララはトトと共に入り口に呆然と立ちすくんでしまった。
「……お前ら見ない顔だな、新人か?」
先ほどの憲兵が、物珍しそうにララ達を見ている。若い憲兵だ。着任してまだそれほど経っていないのだろうか。他の憲兵と比べていくぶんか擦れていない感じがした。
一番話しかけやすそうだ、とは思ったものの返答に困ったララはどうしよう、とトトの顔を見た。しかしトトは、俺に聞くなよとただ目線だけを返す。
聞き込みして欲しいとラッツに言われたものの、どう聞き込みをやればよいかララは全く判らなかった。しかし、このまま入り口に立ったままでは怪しまれるだけだと、意を決しララはその憲兵に質問を投げかける事にした。
「少々お伺いしたいのですが」
ララは自分の声をなるべく低く落とした。いつもの声で話せば怪しいオカマっぽい憲兵になってしまう。いかにも作られたララの声にトトは吹き出しそうになってしまうが、それを必死に抑え込んだ。
「ん? 何だ?」
「収監された例の少年についてなのですが、収監場所をご存知でしょうか」
「少年?」
何のことだ、と憲兵が眉間にしわを寄せた。直接過ぎた質問だったか、とララ息を飲み少し後悔したがこのまま押し切ろうと、続けて質問をぶつける。
「街で逮捕した少年です」
ララの質問に何のことか判るかとベンチに座っている憲兵は奥の憲兵に声をかけた。喫煙所に居た数名の憲兵の視線が一斉にララに注がれた。思わずララの顔が強張ってしまう。
「あぁ、多分あの少年の事ですかね」
「ご存知ですか?」
助かった、とララが強張った表情を崩し安堵の表情を浮かべた。
「あぁ、東棟の五階に収監されている。奴がどうした?」
「あ、いえ、上司から収監場所を聞いてくるように言われまして」
憲兵達が怪訝な表情を見せ始めた。空気が変わり始めた事に気がついたララが敬礼をしながら適当に憲兵をあしらうが、そんなララにトトが目を丸くした。上司が部下に喫煙所に行って収監された罪人の場所を聞いてこいなんて言うわけ無いだろう。カラスの俺でも判ると、トトは呆れ返っているようだった。
「上司に? 誰だ?」
ほらー、とトトがララの顔を見る。ララが目を白黒させながら表情をひきつらせていくのが目に見えて判った。ここは早く抜けだした方が身のためだとトトがララの制服の端を引っ張る。
「いえ、あの、その……失礼しました〜」
ララはトトの手をにぎると踵を返しそそくさと喫煙所を後にした。おい待て、という声が喫煙所から聞こえたものの、喫煙所の奥に見えた階段に一目散に走って行く。途中トトの足がもつれてしまいそうになったが、気にせず一階から三階まで一気に駆け上がった。ちらりと背後を見たが、先ほどの憲兵達は追っては来ていないようだった。なんとか難を逃れることができたとララは胸を撫で下ろす。一階では騒ぎになっているかもしれない。だが、怪しまれたとしても、ヘスを救出できれば後のことは知ったことではない。息を整え、ララは五階を目指し再度階段を登り始めた。
「あ、ララ。ラッツ達に連絡」
大事なことを思い出したトトがララの肩をツンツンとつつく。トトに促され思い出したララは、いけない、と懐に隠し持っていた「念話魔術書」を取り出し、ペロリと指を舌で舐め表紙にあてがう。唾液を媒体としている為、これで会話ができるはずだったが、ラッツ達の応答がない。
「……ラッツさん、聞こえますか?」
やはり何も返答が無い。三百メートル以上離れてしまっているのか、しばらくそのまま反応を待ったが何も反応は返ってこない。一度一階に戻って伝えようかとも思ったが、先ほどの喫煙所の憲兵達が騒いでいるかもしれない。それに「模写魔術書」の制限時間も刻一刻と少なくなっている。
「……駄目か?」
「うん。行こうトト。時間が無い」
ララはそう判断し、魔術書を懐にしまいなおすとトトの手を引き階段を登り始めた。
しかし、ララのこの判断が、彼女の運命を変えることになった事を、もちろん彼女は知る由もない。ただララは、ヘス達を助けたい一心で彼らの待つ五階の牢を目指し目の前の階段をかけ登っていった。