第45話 扉を開いて
煮えたぎる破壊衝動で身体はまるで炎に包まれたかのように熱い。だけど、頭は異様に冷静で周りの動き一つ一つが鮮明に見える。以前の時とは違い、己の意識が残ったまま、黒い影を纏ったヘスが「黒い風」の様に駆け抜けた。
「やっぱりその姿は兄様だ」
最初の魔女がうれしそうに囁き、ヘスの身体を抱きとめようと両手を広げた。
あの騎士をミイラと化した魔術ーー
冷静に判断したヘスはその両手を避けるように直前で右に飛び退くと、そのまま最初の魔女の背後に回り蹴りを放つ。
ランドルマンに重症を追わせた影を纏ったあの強力な蹴りだ。
「ふふふ、思い出しますわ。あの時の事」
死角からの蹴りだったが、最初の魔女は難なくそれを躱す。
だが、ヘスの攻撃はそれで終わりではなかった。
蹴り降ろした足を踏みしめると最初の魔女の頭部を狙った回し蹴りに移るーー
「一緒に踊りましょう?」
「……ッ!」
だがそれも最初の魔女は読んでいた。ヘスの足をするりと抜けた最初の魔女はヘスの軸足を足払いすると、宙に浮いたヘスの身体を強烈な鉄槌で地面に叩きつける。
そのか細い腕のどこにそこまでの強烈な腕力が秘められていたのかと思うほど、凄まじい衝撃がヘスの身体を貫き、叩きつけられた地面がズシンと揺れ、瓦礫が飛び散った。
「まだだッ……」
無表情のままヘスが呟く。
芯を捕らえられたと一瞬焦ったヘスだったが、ダメージは無かった。四肢が動くことを確認したヘスが即座に反撃に移る。
地面に叩きつけられたままの状態で、ヘスは最初の魔女の手を掴むと巨大な黒い蛇がその腕にまとわりつくように駆け上った。
影が最初の魔女の細い腕を締めあげ、ミシミシと嫌な音を立てる。
「ああ、気持ちいいですわ、兄様」
恍惚とした表情を浮かべた最初の魔女が小さく言葉を漏らす。
影が次第に最初の魔女の腕から身体を多い、全身を覆い尽くした瞬間、ヘスが地面から飛び起きた。
そのまま身体を捻り、強烈な突きを最初の魔女の顔面に放つ。
がーー
「断ッ!」
最初の魔女の叫び声が響くと、その声は空気を切り裂き、即座にすべての物を両断する刃物と化した。
足元から発生したそれは、周囲の残骸を切り刻みはじめる。
「……うッ!」
危険と察知したヘスが、最初の魔女の身体から黒い影を引き剥がし、防御に回った。
「柱ッ!」
斬撃を躱すヘスに間髪入れず最初の魔女が次の魔術を放つ。空中で生成された氷の針が次々とヘスの身体を狙い放たれる。
その一撃一撃が致命傷になる魔術。
普通であれば、距離を置こうと下がるはずだが、ヘスは違った。
影で身体をガードしながら、降り注ぐ氷柱を払いのけながら、最初の魔女との距離を詰める。
「泥人形ッ!」
最初の魔女が叫ぶ。
ヘスが最初の魔女のローブをつかもうとした瞬間、地面から巨大な腕が突き出してきた。アルフと同じ、岩石で生成された泥人形だ。
「薙ぎ払えッ!」
「ガ……!」
最初の魔女の声に、上半身だけ地面から出した形の泥人形が両手を振り上げると、速射砲のようなスピードで巨大な拳を放った。
空気が震え、泥人形の拳が地面を叩き割る。
「危ねぇなッ!」
だが、その拳はヘスの身体を捕らえることは出来なかった。
ヘスは地面に突き刺さった泥人形の腕に飛び乗ると、そのまま泥人形の頭部に向かい駆け出す。
「シィッ!」
影を纏ったヘスの拳が泥人形の頭部を難なく砕く。
まるでプラスティックでできていたのか、と思わせるほど、簡単に頭部を破壊された泥人形がぐらりと揺れる。
ヘスが身を翻し、そのまま視線を最初の魔女に送る。
ここまで簡単に泥人形がやられるとは思っていなかったのか、最初の魔女が一瞬怯んだ。
今のヘスには十分な隙。
次の魔術を放つ前に拳を叩き込まんとヘスは拳を握り、跳躍した。
「兄様の愛を感じますわ」
キュウと最初の魔女が口角を上げる。その笑みにはもう優しさも慈しみも無い。
有るのはただ、愛するものを支配したい欲求のみ。
ヘスの拳が最初の魔女を捉えた、と思ったその瞬間、最初の魔女はヘスの拳を手の甲で受けると、そのまま受けた手で拳を作り、ヘスの顎へ裏拳を叩き込む。
パチンという火花が起きたのかと思わんばかりに、ヘスの視界が一瞬白く飛んだ。
「がっ……!」
「……あははッ、そらッ!」
最初の魔女の口調が変わった。
より凶暴さを増した最初の魔女が、がら空きになったヘスの胴体に続けて拳を放つ。水月、腹部、喉元、脇腹ーー流れるように次々と放っていく最初の魔女の突きは的確にヘスの身体の急所を捕らえる。
「そらそらそらそらッ! どうだいヘス君ッ! 死にたくなるだろう?」
「うぐぅッ!!」
一撃一撃が軽い様に見えて、まるで槍で突き刺されているような激痛が身体を襲う。
その攻撃に、ヘスが思わずボディーをガードした。
「がら空きですよッ!」
だがそれが「餌」だったと言わんばかりに、最初の魔女はヘスの顔面に掌底を撃ちぬく。
ヘスの身体が大きく反り上がり、鮮血がほとばしった。
「がッ……!」
「そらっ! 次の魔術は避けられるかい?」
最初の魔女が大きく掲げた掌を地面に下ろした。
空気が重みを増し、まるで巨大なハンマーが天から振り落とされたように、凄まじい衝撃とともに地面に巨大なクレーターを穿った。
「ぐあぁッ!」
体勢を崩したヘスは影でガードしたものの、それすらも凌駕する衝撃がヘスの全身を襲った。
ビキビキと全身から骨が悲鳴を上げる声と、激痛が直接ヘスの脳に届く。
圧倒的な力。
ヘスの霞んだ視線の向こうに、悦に入った表情を見せる最初の魔女の顔が見えた。
あの力を持っても、このバケモノにはかなわないのか。
苦痛とともにヘスに訪れたのは、絶望だった。
「テトラは君の中に居る兄を引き出したいと思っているみたいですけどね、僕はそんなものどうでもいいんですよ」
クツクツと最初の魔女が笑う。
その足元で、圧倒的な暴力に蹂躙されたヘスの身体から、黒い影が次第に四散していく。
「まだ……だッ」
全身に激痛を感じながら最初の魔女を睨みつける。
つるっぱげを打ちのめしたあの時、オーウェンは俺に「その力を使うべきは今じゃない」と言った。
そう、この力を使うのは正に今のはずだ。
「同じ、ですね。昔同じくテトラを止めるために戦ったオーウェンは今の君と同じように、地面に這いつくばり、死を覚悟したんですよ」
「……終わりじゃ……ねぇッ!」
震える腕を必死に動かし、ヘスは最初の魔女の足首を握る。
「今ならわかるぜ。昔なぜオーウェンがテトラと戦って死を選んだのか」
「……どういう意味です?」
オーウェンが死を賭してまで、変わり果てた妹を止めようとした理由ーー
「自分の命を捨ててでも守りたい物があったからだよッ!」
最初の魔女の足を掴んだヘスの腕から、再度黒い影が巻き起こる。今までとは違う、凶暴な力を携えた幾本もの黒い蛇。
それはまたたく間に最初の魔女の身体とヘスの身体を覆い尽くす。
「……これはっ!?」
「テメェだけは、俺が斃すッ!!」
黒い影が大きくうねり、全てを吸い尽くす闇と化す。瓦礫が吸い込まれるようにヘスと最初の魔女の間に流れこむと、粉々に弾き飛んだ。
「まさか、君はッ……! ……やめてッ! 止めなさい! 汚らわしいクルセイダー風情が私と兄様の邪魔を……」
この場を離れようともがくが、しっかりと影に締め付けられた最初の魔女は一歩も動くことすら出来ない。
引き剥がす為に最初の魔女が発動する魔術も全て、闇の中に吸い込まれていく。
「うぉぁぁあぁッ……!」
ぞわぞわと足元から忍び寄ってくる悪寒に思わずヘスが叫びだす。
だが、その悪寒は抑えることができず、ヘスの身体を覆い尽くした。
己の叫び声がノイズの様に雑音と化し、音が闇に飲み込まれ、そして最後に光がヘスの目から奪われる。
「ララ、ごめんなッ……!」
ヘスが心の中で叫んだ。
ララの名と共に、彼女との想い出が闇の中に吸い込まれていくように、浮かんでは消えていく。
そして、五感が全てなくなっていく恐怖がヘスの心を支配した時ーーララを思うその心さえも闇の中に消えていった。
***
ヘスが異空間から姿を消してすぐに、リン達の意識が戻った。
まるで、ヘスが異空間から旅立つ事を邪魔させないようにと何者かがそうさせていたかのように。
「ヘス君が……」
口惜しそうに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、そう漏らしたのはラッツだった。
弱き者を守る為に今日まで血も滲む訓練を繰り返し、実戦を経験してきたのに何も出来ないだなんて。
「追いかける方法は無いのか」
「……ララの話を聞く限り、ランドルマンは転送魔術で向こうに戻ったらしい。とすれば、転送魔術があれば」
静かに状況を把握していたヴィオラにスピアーズが返した。
そう、転送魔術があればすぐにでも戻れるはずだ。だがーー
「逆に転送魔術がなければここからは出れない、ということですねェ」
「……ロンドの言うとおりだ。魔術書が無い以上、俺達には待つことしか出来ない。ヘス君が最初の魔女を斃すのを、だ」
スピアーズの言葉に全員が言葉を失った。
軍人であろうと、死の宣教師であろうと、最初の魔女の血を引く末裔であろうと、今はあの少年の行く末を祈りながら待つしか出来ない。
「ララちゃん、その魔術書は?」
「これは……」
「……『時空魔術書』か」
魔術書を手に持ち、困惑するララに代わり、スピアーズがユーリアに答えた。
ボスが持っていた魔術書。ララの記憶を戻す為に必要なものだとボスは言っていた。
「そうだ。その魔術書、発現に必要な媒体って結局なんだったのさ?」
魔術解読師の知識があるアルフでも判らなかった構文の一節がユーリアの頭に浮かんだ。
「『時空魔術書』の媒体は命。ユナはそう言っていた」
ポツリとそう呟いたのはカミラだ。
「命?」
「命を使って魔術が発現されるって事さ」
その言葉を聞いて、ララの身体にぞくりと冷たいものが走った。
命。この魔術書を発現させるために必要なものは、命なんだ。
「待ってくださいカミラさん。とすればこの魔術書に記載されている構文、『炎を捧げ、彼の者を想うべし』っていうのは……」
この魔術書の発現方法を模索していたアルフがユーリアを押しのけ、カミラに問いかける。
炎を捧げ、彼の者を想うべし。
それは、つまりーー
「言いにくいけどね。『発現対象への愛を想いながら、命を捧げろ』ってことさ。多分ね」
「……ッ!!」
ララは思わず息を飲んだ。
そうだ。だからヘス君は……向こうの世界へ、一人で……
「ヘス君は最初からそのつもりだったって事ですか!? カミラさん」
ララの問いに誰も何も返せなかった。
私は馬鹿だ。記憶を戻せる方法なんて他にあるかもしれない。だけど、ひとつしか無いヘス君の命を戻せる方法なんて無い。どうしてあの時、止めなかったのか。
後悔と共に、ララの頬に涙が伝った。
「早く、早く戻らないとッ……! ヘス君が! ……ッ!?」
と、カミラにすがりつくララの魔術書がぼんやりと輝き始めた。
闇夜に光る、篝火の様に、優しく、儚い光だ。
「……ララ、もう遅いんだよ。ヘスは……」
「イヤッ! 嫌だよッ! こんな形で……」
魔術書の光が更に増していく。
それが意味するもの。それが痛いほどララに、そしてその場の全員に判っていた。
「スピアーズさん! 辞めさせて下さい!」
「無理だ、ララ。俺にはどうすることも出来ない」
そう言ってスピアーズはララの手を握り、キラキラと輝く魔術書を強く抱かせた。
「……ヘス君の想いを無駄にするな、ララ。これが奴の選んだ道だ。あいつの事を想っているのなら……せめて見届けてやれッ……!」
スピアーズの言葉に、ララはその魔術書を強く抱いた。
それがヘスそのものだと想い、強く、優しく。
「……あぁッ!」
ゆっくりと水が染みだしていくかのように、ララの心に温かい何かが広がっていく感覚があった。
あの時、心の中で見た小さな部屋の扉が開かれ、小さく部屋の端に佇んでいたあの子が解き放たれる感覚。
ーー嫌だ。
心の中で誰かが叫んだ。
ーー外に出たくない。
その声は続ける。
「……しっかりしなさい、ララ。ヘス君は命を賭してあなたを戻そうとしているのよ」
リンがララの肩を抱き、囁いた。
そうだ。彼だけじゃない。この場にいる皆が「あなた」がそこから出てくるのを願っているよ。
ララは心の中の声にそう応える。
「うぅぅ……!」
得も知れぬ悲しみとともに、大粒の涙がさらにララの頬を濡らした。
次第に、そして確かにララの中に大きくなっていくのは、想い出と、そしてヘスへの想い。
出てきて。そして私の代わりに……ヘス君の最後を見届けて。
ララが心の中でそう強く思った瞬間、魔術書が大きく光放ち、血が逆流してく感覚に襲われる。
時が、戻る。
そして心が、戻る。
「……御免なさい」
ララが小さく囁いた。
「ごめんね、ヘス……ッ! 思い出した。思い出したよ全部! ごめんねッ! ……ヘスッ!!」
ララの泣き、叫ぶ声が辺りに響いた。
記憶が戻った。そして、一つの命が消えた。
その事実に、ララは只泣いた。
ーーだが、現実は無情にもララ達を絶望の底へ追いやる。
「フフフ……」
「……ッ!」
ララの声をかき消す威力を持った冷たい笑い声。
咄嗟に身構える一同の目の前に現れたのは、漆黒の美女。
「少しビックリしましたけど、ヘス君の命は無駄に散り、貴方達は『最後の切り札』を無駄に切ってしまったというわけですよね」
「最初の魔女……ッ!」
ランドルマンとヘス君はーー
乳白色の異空間に現れた魔女の姿に、皆は戦慄し、絶望した。
だが、ララだけは違った。
ヘスを失った悲しみ、そして怒り。
ヘスへの想いを小さな身体にぎゅっと押し込み、涙に濡れた瞳でしっかりと最初の魔女の姿を見つめながら、ララはゆっくりと立ち上がった。