砂原の休息地
ある時、沙漠を行く者がいた。つばの広い革帽子を深く被り、大きな革袋と商売道具である弦楽器を外套の下に背負って、次の町を目指して沙漠を進んで行く、彼は名も無い旅の芸人。またもう一人、沙漠を行く者がいた。彼と出会い、彼の奔放な生き方に魅了され、彼と共に旅することを決めた少女。二人は町と町とを繋ぐ河、今は小さな窪みが点在する『道』に沿って歩いて行く。
「ねぇ、そろそろ休憩にしない……?」
後ろを歩く少女はそう旅芸人に呼びかけた。歩みを止めて振り返れば当然、そこには少女がいる。暑さで体力を奪われ、全身からは汗が吹き出て、頭からバケツ一杯の水を浴びたかのように水が滴る少女—シルヴェツァ—が。
「そうですねぇ、ですがこの辺りには」
「凶暴な生物が潜んでいる、でしょ。これで三回目だよ」
旅芸人が問いかけに答えようとしたところ、シルヴェツァは呆れ口調で旅人の次の言葉を言い当てる。その表情は言うまでもなく疲れ切っていて、天頂でギラギラと輝く太陽とは対照的だ。
「まさにその通りですが、もう少し歩けば、隊商が経由する中継拠点があるのです。同じ休憩をとるならば、そこでとった方がよいでしょう」
早く休みたいと言うばかりだったシルヴェツァだが、旅芸人がそう提案すると、安心したのかすんなりと受け入れたのだった。そうして、旅芸人とシルヴェツァは中継拠点に向けて歩み始めた。
〜
「……誰もいないじゃない」
シルヴェツァの、ため息のような呟きがこぼれる。というのも、中継拠点に着いた二人の目の前には、底が見えるほどに澄み切った水を湛える小さな湖と、それとは対照的に荒れ果てた野営の跡が広がっていたのだ。そこに人跡はあれど、人影はない。
「思った通りにいくのではない。旅とはそういうものですよ」
旅芸人は屈み込んで、中身がすっかりだった水袋に湖の水を汲み上げながらそう言った。その表情は何故か笑みに満ちている。
「貴方が隊商が通ると言うものだから。ああ、暑いだけでも嫌なのに、喉は渇くしお腹は空くし…乾燥地域の旅って最悪ね」
愚痴を垂れ流す間にも腹は鳴る。旅芸人はそれを見兼ねてか、シルヴェツァに手持ちの塩漬肉を渡そうとする。だが、シルヴェツァは冴えない表情でそれを受け取ることを拒み、代わりに旅芸人が満たしたばかりの水袋を奪い取った。
「そんなものを食べれば余計に喉が渇くわ……。それよりも水よ、水」
そう言って、水袋の水をがぶがぶと飲み干してしまう。袋が空になったのを確認すると、もう一杯と言わんばかりに水袋を旅芸人に突き出す。
「水を飲んでばかりでは倒れてしまいますよ」
軽く忠告をしながら水袋を受け取り、湖に向き直る旅芸人。再び屈み込んで水を汲み始める。するとしばらくもしないうちに異変が起きた。刹那の事であったが、湖に何かが突っ込んで盛大な水飛沫をあげたのだ。突然の事に旅芸人は驚き、すぐさま顔を上げた。旅芸人はまた驚き、そして呆れた。広がる静かな水面は荒れはすれど水は澄み切ったままであり、突っ込んだものが何かは容易に判断できる。そこにあるのは、つい先程まで隣にあったはずの人影……、そう、シルヴェツァは湖に突っ込んだのだ。
水面に浮かぶは少女シルヴェツァ。旅芸人は少し様子を見ていたが、ぴくりとも動かない。これには旅芸人もおかしいと感じて湖に入り、シルヴェツァの元へ向かう。湖は膝の少し上ほどまでを濡らす程度の深さ。突っ込んだ勢いで体のどこかを水底に打ちつけてはいないかと、旅芸人は心配しつつシルヴェツァを仰向けに返して抱き抱える。またびしょ濡れになったシルヴェツァは旅芸人に抱えられていると感じて、瞑っていた青い瞳を見開いて旅芸人の顔を見ようとするが、その瞳は途端に力無くして朧げになってしまう。
「……なんだか、全身がだるい」
湖に突っ込んでからの第一声。それは暑さから来る倦怠感を訴えるものだ。
「塩を摂らないからですよ」
口ではそう返すものの、旅芸人も困惑は隠しきれない。ひとまず水辺から引き上げ、野営跡が散らばる日陰に移動させた。それからシルヴェツァに塩を摂らせようと先程の塩漬肉を取り出すが、シルヴェツァは小さく顔を背け、肉を拒もうとする。
「口に含むだけで充分です。喉が渇けばまた水を飲めばいい」
旅芸人は水袋を傍らに置き、そう言い聞かせる。するとシルヴェツァは自分で手を伸ばして肉を受け取り、そのまま口に放り込む。そして何を思ったのか半ば強引に体を起こし、口の開いたままだった水袋を握りしめ、中身を周りに振り撒いた。突然の事に旅芸人は戸惑うが、即座に振り返って見ると、そこには大きな爬虫類のような生物が水を浴びて怯んでいた。
「これが、貴方が言ってた凶暴な生物……?」
異形を目の前に、シルヴェツァは思わず問いかける。
「そう……砂竜です。一匹程度ならまだしも、複数匹で来られると……」
旅芸人は立ち上がり、辺りを見渡す。辺りには、砂原に溶け込むように砂色の偏平な姿をした生物が複数匹、旅芸人らを囲むようにうごめいている。
「対処方法は?」
「彼らは執拗な性質です。まず見つからない事、次点に長時間同じ場所にいない事が一番の対処ですが……おかしいですね」
旅芸人の言葉に、気まずそうにするシルヴェツァ。だが続く言葉を受けて気まずさは消え失せる。
「本来なら水気を極端に嫌うため、オアシス等に居れば安全なのですが、今ここにいる。先程水を浴びせた時もそうです」
そう言い旅芸人は静かに口を閉じる。その代わりに腰に吊るしていた護身用の刀剣を抜き放つ。旅の御守りであるからか、刀身には文字のような不可解な紋様がつらつらと刻み込まれている。旅芸人がそれを乾いた大地に突き立てると、護身刀は軽く振動した後、ぱりぱりと放電を始めた。
「それは……術具?」
「時間稼ぎです。一定の距離まで近づいた者を少しかぶれる程度の軽い電撃で迎撃するだけで、長くは持ちません。早く脱出の準備を……」
旅芸人はシルヴェツァの荷物も抱え、脱出するように急かすが、当のシルヴェツァは旅芸人に寄り掛かるのが限界で、立つ事もままならない。それだけでなく砂竜達は電撃に怯むことなく接近してくるのだ。
事実を目の当たりにして、旅芸人はシルヴェツァを座らせ、寄り掛かれるように荷物を置いた。そして放電したままの護身刀を引き抜き対峙しようとするが、旅芸人が構えるよりも先に砂竜は飛び掛かっていた。破れかぶれに刀を突き出すが……。
……次の瞬間には、旅芸人は呆然としていた。何故なら、目の前にいたはずの砂竜が、忽然と姿を消していたからである。その代わりに目の前には、野獣のような外見の人間が現れていた。その人間は一人だけでなく、少なくとも旅芸人の視野には加えて三人ほどが、後ろに続いていた砂竜を仕留めていた。
「お手伝いご苦労様。さ、武器を仕舞いなよ、おにいさん」
旅芸人はその言葉でようやく我に返った。
「は、破竜種……?」