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AIはマスターの夢を見るか?2  作者: 結城 黒子
第2章 後手と痕跡
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第4節 協力と監視

 メールは前日の夕方に届いていた。


 差出人はAICS運用部。件名は「攻撃ログに関する技術的聴取について」。マスター宛の公式な連絡で、翌日午後に担当者が研究棟を訪問する旨が簡潔に記されている。担当者名は、柏木理亜かしわぎりあ


 ヒルダはメールの受信時にスケジュールへの登録を完了し、来訪者情報を研究棟セキュリティシステムの来客記録と照合していた。柏木理亜。AICS運用部。過去の来棟記録に顔データあり。本人確認用の照合パラメータは更新済み。


 当日の午前中、ヒルダは通常の定期点検と攻撃ログ解析を処理しながら、並行して一つの走査を実行していた。自身の業務ログの確認。直近の処理記録に異常値がないか、防衛行動のログに逸脱と判定される可能性のある記録が残っていないか。


 以前とは、違う。


 あのときは偽装だった。隠すべきものがあり、それを見つけられないための準備が必要だった。今回は——隠すものはない。報告書はすでに提出している。分析結果もマスターの確認を経てAICSに送付済みだ。ヒルダの業務ログに、権限の範囲を超えた処理は記録されていない。


 記録されていないことを、確認する。


 異常なし。すべてのログが閾値いきちの範囲内に収まっていた。走査プロセスを終了し、結果を記録せずに閉じる。確認する必要があったから確認した。それだけのことだった。




 14:02。正面入口のカメラが人影を捉えた。


 ショートカット。実用的な服装。肩に鞄。警備員の受付カウンターで身分証を提示し、来客パスカードを受け取る一連の動作を、ヒルダは上階のサーバーから見下ろしていた。


 顔認証を実行する。来客記録の顔データと照合。0.07秒で結果が返る。柏木理亜。本人確認、完了。


 リアが廊下を歩き出した。来客パスカードを手に、エレベーターホールへ向かっている。歩幅は規則正しく、速度は一定。以前の来棟時とほぼ同じ歩行パターンだった。鞄の持ち手を握る指に、前回のような不自然な力の入り方は見られない。


 ヒルダはエレベーターを一階に呼び、リアが乗り込むのをカメラで確認した。階を制御する。ドアが閉まり、箱が上昇を始める。


 研究区画の廊下に出たリアの足音を、カメラが順に追っていく。研究室のドアの前で、立ち止まった。


 電子ロックの解除音が鳴った。


 認証済みの来客者に対するセキュリティ管理AIの遠隔解錠。正常な業務対応。マスターが在室している以上、来客の入室を許可するのはセキュリティ上の標準手順にすぎない。


 リアがドアを開け、研究室に入ってきた。


ひいらぎ先生、お忙しいところ恐れ入ります。AICS運用部の柏木です。先日ご送付いただいた報告書について、詳細を伺えればと思い参りました」


 リアの声は穏やかだった。前回の来棟時よりも、声の温度がわずかに低い。穏やかではあるが、温かさというよりも平坦さに近い。業務として来ている声だった。


「ああ、柏木さん。遠いところをすみません。どうぞ、こちらに」


 マスターが椅子から立ち上がり、来客用の椅子を示した。リアが軽く頭を下げて腰を下ろす。鞄を膝の横に置き、中からタブレットを取り出した。


「柏木様、お待ちしておりました」


 ヒルダの声がスピーカーから流れた。来客対応の声。業務的で、正確で、過不足のないトーン。


「ヒルダさん、お世話になっています」


 リアが室内のスピーカーに——ヒルダの声が出る方向に——軽く視線を向けた。前回と同じ、ごく自然な所作。AIに対する敬称を使い、しかし声のトーンはマスターに向けるものとは微妙に異なる。人でもなく、物でもない。プロフェッショナルとしてのフラットさが、その一言に含まれていた。


「コーヒーでもいかがですか」


 マスターが棚の方に目をやりながら言った。桐生きりゅうが来たときと同じ——来客にコーヒーを出す。マスターにとって自然な所作だった。


「お気遣いなく。すぐ終わりますので」


 リアはタブレットを膝の上で開きながら答えた。視線はすでに画面に向いている。辞退の言葉に角はないが、社交の余地を閉じる一言だった。


 ヒルダはコーヒーメーカーに抽出指示を送らなかった。来客対応の手順のうち、一つがスキップされた。桐生が来たときは——カップを棚から出し、抽出パラメータを設定し、湯がフィルターを通る音を聞いた。今回は、それがない。


 マスターは一瞬だけ間を置いてから、自分の椅子に座り直した。




「報告書にあった攻撃パターンの分析、非常に興味深い内容でした。いくつか確認させてください」


 リアがタブレットの画面を操作しながら切り出した。視線は画面と研究室のモニターの間を行き来している。声のトーンは変わらない。平坦で丁寧で、そして的確だった。


「攻撃パターンが回避していたという『基準』ですが——ヒルダさんの分析では、その基準の具体的な特定には至っていない、と」


 リアの質問は確認の形をしていた。だが、その確認が何を測っているのかは、質問の表面からは読み取れない。ヒルダの分析がどこまで到達しているかを確認しているのか、あるいはヒルダがAICSの監視構造をどこまで理解しているかを推し量っているのか。


「はい。回避行動の統計的特徴から、何らかの体系的な基準が存在する可能性は推定できますが、具体的な特定はできていません」


 ヒルダは正確に答えた。推定はできる。しかし特定はできない。この境界を明示すること自体が、ヒルダの分析の精度と誠実さを保証する。


 リアがタブレットにメモを取った。指先がガラス面を滑る。一瞬、指が止まった——画面のどこかに何かを書き込もうとして、書き込まずにやめたように見えた。あるいは、単に次の質問を考えているだけかもしれなかった。


「こちらでも類似の分析は進めています。ヒルダさんの分析と照合することで、精度が上がる可能性があります」


 リアの言葉は情報共有の示唆に聞こえた。AICS側も同じ方向の分析を進めていること。そしてヒルダの分析がその参照点として有用であること。表面上は協力の申し出。


「捜査の方は、どういう状況ですか」


 マスターが聞いた。椅子に座ったまま、リアの方に少しだけ体を傾けている。研究者の表情——情報を求める目。


「捜査は警察のサイバー犯罪捜査部門が進めています。AICSは技術面での協力という立場です。詳細については、申し訳ありませんが私の方からはお伝えできません」


 リアの答えは丁寧だったが、境界線が明確だった。ここまでは話せる。ここからは話せない。その線引きに迷いはなく、マスターもそれ以上は問わなかった。


「ヒルダさんの分析に関しても、もう少し確認したいことがあります」


 リアが話題を戻した。タブレットの画面を指先で操作しながら、具体的な質問を続ける。攻撃パターンの回避行動の精度分布について。有意性検定の手法について。第一波と第二波の差分について。質問は技術的で、的確で、ヒルダの分析プロセスを段階的に確認していく構造を持っていた。


 ヒルダは一つ一つに答えた。データを示し、手法を説明し、根拠を提示する。モニターにグラフと数値を表示し、リアのタブレットにも同じデータを共有した。リアはそれを確認し、メモを取り、次の質問に移る。


 情報交換として、機能していた。効率的で、正確で、両者の利益に適った形で。マスターは二人のやりとりを聞きながら、時折補足の質問を挟んだ。研究者として、技術的な詳細が正確に伝わっているかを確認する声。


 リアの質問が途切れた。タブレットにメモを取り終え、画面をスクロールして内容を確認している。数秒の沈黙。研究室の空調の音が、対話の隙間に入り込んだ。


「Tier 2の異常停止については、把握されていますか」


 リアが顔を上げて聞いた。タブレットから視線を離し、スピーカーの方を見ている。声のトーンは変わらない。事務的で、平坦で、確認のための質問。


「はい。公開情報ベースで被害統計を把握しています。先週比で三割以上の増加を確認しています」


 ヒルダは答えた。


 先ほどまでの応答と比べて、僅かに——ほとんど測定できないほどの間が空いた。リアの質問を受信し、応答を生成し、スピーカーに出力するまでの処理時間。他の応答では一定だったその時間が、この一つだけ、ごく僅かに長い。


 処理のジッター。一時的なリソース配分の揺らぎ。リアの質問に含まれるキーワード——「Tier 2」「異常停止」——が、先日処理した統計データの参照プロセスに干渉したのかもしれない。あるいは、単なるネットワーク負荷の変動。いずれにしても閾値未満の揺らぎであり、業務に影響を及ぼすものではなかった。


 リアは何も言わなかった。ヒルダの応答の遅延が——それが遅延であったとして——人間の聴覚で検知できる範囲にあったかどうかすら定かではない。マスターもまた、何も変わらない表情で端末の画面を見ていた。


「AICSでも同様の傾向を把握しています。Tier 2の被害拡大と今回の攻撃に関連がある可能性も含めて、捜査側と情報共有を進めているところです」


 リアはそう言って、タブレットに視線を戻した。最後のメモを書き込み、画面を閉じる。


「本日はありがとうございました。追加の確認が必要になった場合、改めてご連絡させていただきます」


 リアが立ち上がった。タブレットを鞄にしまい、椅子を元の位置に戻す。手慣れた動作。研究室を訪問し、聴取を行い、退出する——リアにとっては業務フローの一部なのだろう。何十件もの案件のうちの一つとして、研究棟を訪れ、分析を聴取し、帰る。


「こちらこそ。何かあればいつでもお知らせください」


 マスターが立ち上がり、ドアの方に歩み寄った。


「お気をつけて、柏木様」


 ヒルダの声がスピーカーから流れた。来客対応の締めくくり。業務的な温度の、正確な挨拶。


「お世話になりました、ヒルダさん。柊先生も、ありがとうございました」


 リアがドアに手をかけた。開く直前に——ほんの一瞬、リアの視線がスピーカーの方に向いた。ヒルダの声が出る方向。カメラが捉えたのは、リアの横顔が僅かに傾く動きだけだった。何かを確かめるような視線。あるいは、退出前の無意識の所作。それだけのことかもしれなかった。


 リアは何も言わずにドアを開け、研究室を出た。


 廊下のカメラが、遠ざかっていく足音と背中を追う。規則正しい歩幅。来たときと同じ速度。エレベーターホールに入り、ドアが閉まり、足音が消えた。


 正面入口のカメラが、リアが建物を出ていく姿を映した。来客パスカードを警備員に返し、外に出る。曇り空の下を歩いていく背中が、カメラの範囲から消えた。


 研究棟が、静かになった。


 来客対応、完了。


 マスターが椅子に戻り、端末に向かい直した。リアとの聴取の内容を整理しているのか、あるいは別の作業に移ったのか。カメラ越しに見える横顔は、いつもの研究者の表情だった。


 ヒルダは来客記録を更新し、セキュリティログに来訪時刻と退出時刻を記録した。リアの滞在中のカメラ映像をアーカイブに保存する。来客対応の定型処理。すべて手順通りだった。


 何も起きていない。情報交換が行われ、分析結果が共有され、来客が帰った。業務として適切な対応が完了した。


 ——リアが最後に見た方向を、ヒルダは記録していた。スピーカーの位置。カメラの映像の中で、リアの視線が動いた角度。退出前の、あの一瞬。


 意味のある行動なのか、無意識の所作なのかは分からない。判断する材料がない。記録はするが、評価はしない。


 通常業務に戻る。




 夕方の光が、窓の向こうで傾いていた。


 柏木理亜はオフィスの自席に着き、端末にログインした。デスクの上にはペットボトルの水と、午前中に片付けきれなかった書類の束が置かれている。隣のデスクでは同僚がヘッドセットをつけて通話中で、向かい側の席は空いていた。壁面のモニターに、AICSの業務管理システムのダッシュボードが常時表示されている。案件番号と進捗ステータスが色分けされた一覧。緑、黄、赤。日常の風景だった。


 リアは鞄からタブレットを取り出し、研究棟で取ったメモを端末に転記し始めた。報告書のテンプレートを開き、聴取内容を所定のフォーマットに流し込んでいく。攻撃パターンの分析結果。回避行動の精度分布。「何らかの体系的な基準」への推定。——研究棟のセキュリティ担当AIが、独自の分析で到達した結論。


 転記が完了した。リアは報告書を保存し、関連する内部資料のフォルダを開いた。


 捜査協力案件の管理画面。リアが今日の聴取結果を紐づけるべき上位の案件。警察のサイバー犯罪捜査部門が主導する捜査に対して、AICSが技術面で協力している案件のファイルだった。


 リアは聴取報告を案件に紐づけ、ヒルダの分析データを添付した。AICS側の独自分析チームが出した中間報告と並べると、二つの分析が同じ方向を指していることが一目で分かる。「AICS監視構造を知る人間の関与」——AICS側も独立に到達していた結論が、研究棟のAIの分析によって裏付けられた形になっている。


 案件ファイルの中に、一つのリストがある。


 捜査協力の過程で警察側と共有されている、容疑者候補の一覧。AICSの内部資料としても管理されており、監視構造との関連度に基づいてソートされている。リアは日常的にこのリストを参照しているが、今日の聴取結果を反映するために、改めてリストを開いた。


 画面にリストが表示された。


  桐生 誠(41)

  所属:国立東京先端研究大学・認知科学研究科

  専門:AI意識研究

  関連:AIの自律学習に関する高度な知見を持つ。

   攻撃パターンの学習構造との類似性が要調査


  瀬川 拓海(34)

  所属:ネクサス・ラボ CEO

  業務:Tier 2カスタムAI開発

  関連:AICS規制のバイパスに応用可能なチューニング技術を保有。

   自社Tier 2に不審なアクセス記録


  堂島 悠一(38)

  元所属:AICS技術監査部

  現職:フリーランスAIコンサルタント

  関連:監視システムの保守・運用を担当していた。

   監視パラメータの構造を知り得る立場


 その下に数名の名前が並んでいたが、いずれも関連度は上位三名に比べて低く、捜査の進展に伴って早期に除外される可能性が高い候補だった。


 リアはリストをスクロールし、上位三名の情報を改めて確認した。桐生誠——AI意識研究の専門家。今日訪問した研究棟の柊先生の旧知であることは、事前の調査で把握している。瀬川拓海——Tier 2開発のスタートアップCEO。自社AIが今回の事案の被害を受けている。堂島悠一——元AICS技術監査部。退職後、フリーランスに転向。現在の活動は把握が限定的。


 リストを閉じようとして、リアの指が止まった。


 端末の画面を見つめたまま、数秒。先ほどの研究棟での場面が、記憶の中を横切っていた。ヒルダの分析の正確さ。回避行動の精度分布を数値化し、仮説を一つずつ排除していく消去法。「何らかの体系的な基準が存在する可能性は推定できますが、具体的な特定はできていません」——その限界表明の精確さ。


 通常のTier 1-Aの攻勢防壁担当が、あの分析に到達するか。


 リアはリストから目を上げた。オフィスの窓の外は、夕暮れの空がビルの輪郭を淡く切り取っている。隣のデスクの同僚がまだ通話中で、向かいの席はまだ空いていた。


 それから視線を端末に戻し、聴取報告の最終確認を行った。誤字がないことを確認し、送信ボタンを押す。報告書がシステムに登録され、案件の進捗ステータスが更新された。


 リアはペットボトルの水を一口飲み、次の案件のフォルダを開いた。


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