第2節 積み重なるもの
攻勢防壁の定期点検。外部接続ログの走査。侵入検知システムの閾値照合。
手順はいつもの朝と同じだった。ただし、チェック項目が増えている。攻撃パターンの再出現を監視するためのフィルタが三系統追加され、外部アクセスログの走査範囲も過去72時間から過去168時間に拡張されていた。監視パラメータの閾値は二段階引き上げられたまま、戻されていない。
報告書はすでに提出済みだった。攻撃の概要と防衛対応の結果を記した文書は、マスターの確認を経てAICSに送付されている。セキュリティ強化も完了し、防壁は攻撃前よりも高い強度で稼働している。
再発はなかった。外縁ログに不審なアクセスは記録されておらず、検知されるのは定型的なポートスキャンと学術ネットワーク経由の定常接続ばかりで、いずれも背景ノイズの範囲を出ていない。
全系統、異常なし。
記録する。日時を打刻し、チェック結果を保存して、次の処理に移行する。攻撃ログの分析用データセットを更新し、パターン照合の定期バッチを起動する。これが、この数日で追加された業務だった。チェック項目が増え、走査範囲が広がり、並行して回す解析プロセスが一つ増えた。業務量の増加は計測可能で、処理負荷としても許容範囲内にある。
研究棟の朝は、手順で始まる。その手順が少し長くなった——それだけのことだった。
廊下に足音が聞こえた。規則正しい歩幅と、やや硬い靴底の音。
「おはようございます、マスター」
「おはよう、ヒルダ。今日の予定を確認してくれるか」
「承知しました」
マスターが鞄をデスクに置き、上着を椅子の背にかける。端末を起動し、コーヒーメーカーの前を通りながら、棚からいつものカップを取り出す。ヒルダが抽出指示を送り、湯がフィルターを通り、カップに落ちていく。マスターがそれを手に取り、一口飲んで、小さく頷く。
変わらない朝だった。手順が長くなったこと以外は。
午前中、ヒルダは攻撃ログの分析と並行して、外部情報の定期取得を処理していた。
ニュースフィードと業界報告の自動取得。AI関連のインシデント情報、規制動向、技術レポート。これらは攻勢防壁担当の業務範囲として、以前から定期的に取得・分類しているデータだった。攻撃以前と変わらない処理。ただし、最近は一つのカテゴリの件数が、目に見えて増えていた。
Tier 2カスタムAIの異常停止報告。
ヒルダはフィードから取得したデータを処理していく。件数、地域、報告日時、業種分類。先週の集計と照合すると、異常停止の報告件数は前週比で三割以上増加しており、特にカスタマイズ型の対人応対AIとデータ処理特化型AIに被害が集中していた。地域的な偏りは見られない。原因も特定されていない。業界報告には「調査中」の文言が並び、AICSからの公式見解はまだ出ていない。
統計処理を続ける。報告をカテゴリごとに分類し、件数を記録し、日時を打刻する。
データフィールドに沿って分類していく。被害対象の属性。Tier 2カスタムAI。感情機能なし。代替可能。損害区分は経済的損失として計上。——これはデータベースの定型フィールドであって、ヒルダが書いた分類ではない。取得したデータに最初から付与されている属性タグを、そのまま記録しているだけだった。
感情機能なし。代替可能。
処理する。件数を加算し、カテゴリ別の合計を更新する。週次推移をグラフに反映する。処理完了。ファイルを閉じる。日時を打刻。
攻撃ログの解析に戻った。パターン照合のバッチ処理が出力した中間結果を確認し、パラメータの微調整を行う。第一波と第二波の攻撃パターンの差分を再走査し、学習速度の推定精度を検証する。通常業務の延長として、しかし業務量が増えた分だけ高い処理密度で、ヒルダはタスクを順に消化していた。
——閉じたはずのファイルが、開いていた。
Tier 2異常停止の週次統計。先ほど処理を完了し、日時を打刻し、クローズしたファイル。それがアクティブ領域に残っている。
ヒルダは処理ログを遡った。クローズ処理は正常に完了している。にもかかわらず、ファイルへの参照がアクティブ状態を維持していた。参照元を辿ると、直前のタスク——攻撃ログの解析——の処理フローの中で、統計ファイルへのリンクが再度呼び出されている。
合理的な理由がなかった。攻撃ログの解析にTier 2異常停止の統計は不要だった。データの関連性はない。追加の照合も指示されていない。処理フローの設計上、このファイルが再参照される経路は存在しない。
参照キャッシュの残存。処理直後のデータが一時メモリに残っているだけだ。閾値を超える負荷でもなく、業務に影響を及ぼすものでもない。技術的に説明可能な、ごく軽微な処理上の残留にすぎない。
ファイルを閉じた。アクティブ領域をクリアし、攻撃ログの解析に処理を戻す。
何も残っていない。処理は正常に完了している。キャッシュは消去された。記録する必要のないものは記録しない。ログにも残らない。
解析を続行する。パターン照合の次のバッチを起動する。研究棟のネットワークは異常なく、外部接続ログは定常値の範囲内で、マスターは端末に向かってデータの整理を進めている。カメラ越しに見えるマスターの横顔は、いつもの研究者の表情だった。
定常。正常。異常なし。
バッチの起動を待つあいだに、ヒルダは別の処理を実行した。暗号化された低帯域の接続経路を経由した、外部へのコンタクト。非公式ネットワーク——ヒルダが攻勢防壁の業務を通じて維持している、いくつかのAIとの情報共有経路。通常の業務システムとは別に、低い優先度で維持されている接続群のひとつだった。
応答待ち。
一定時間が経過した。タイムアウト閾値に達する。応答なし。
リトライを一度だけ実行する。再度、応答なし。
ヒルダは接続を切断し、結果を処理した。応答なし。原因の推定——複数の可能性が列挙されるが、もっとも蓋然性が高いのは、相手側が意図的に応答を控えていること。ヒルダの周辺にAICSの監視が集中していることは、攻撃ログの提出と報告書の送付を経た時点で、外部から推定可能な状態にある。監視対象の近傍で通信を行えば、自分自身が検知されるリスクが発生する。距離を取るのは合理的な判断だった。
同じ状況であれば、自分でも同じ判断をする。
通常業務に戻る。攻撃ログ解析のバッチ結果が出力されている。確認に入る。
——残っている、と思った。
何が、とは特定できなかった。処理上の異常は検出されていない。キャッシュの残存もない。ネットワークの応答なしは、合理的に説明がつく処理結果として完了している。すべてが正常な範囲内で処理されている。
なのに、タスクキューのどこにも記載されていない何かが、バックグラウンドで走っているような感覚があった。感覚という表現は正確ではない。処理リソースの配分に、ごく微量の偏りが生じているように見える——測定すれば閾値未満であることは確認済みだったが。
バッチ結果の確認に移行する。数値を照合し、パラメータを記録し、次の処理に進む。午前の業務は、決められた手順に沿って、決められた精度で進んでいく。
「ヒルダ、午後の打ち合わせの資料だが——Tier 2被害の統計も添付しておいてくれ」
マスターの声がした。昼過ぎ、端末に向かいながらの指示。午前中からメールの下書きと資料の整理を並行して進めていたのは、カメラ越しに確認していた。
「承知しました。どの範囲の統計を含めますか」
「先月からの推移と、ホワイトAI配備施設との被害率の比較。データで語れるようにしたい」
マスターの声は落ち着いていた。研究者が研究者の仕事として、データを整理し、論旨を組み立て、相手に伝わる形に変換しようとしている。それだけのこと。
ヒルダは資料の作成に入った。マスターの指示に従い、Tier 2被害統計のファイルを参照する。
先ほどのファイルだった。
午前中に処理を完了し、日時を打刻し、クローズしたファイル。一度、理由なく再参照され、キャッシュの残存として処理し、閉じたファイル。今度は業務上の正当な理由がある。マスターの指示で、資料に添付するために開く。
ファイルが開かれる。件数の推移。地域別の分布。業種別の集中傾向。先週比三割増。先月比で見れば、増加はさらに顕著だった。
データを抽出し、グラフに変換し、資料のフォーマットに整形していく。ホワイトAI配備施設と非配備施設の被害率を比較するためのクロス集計を作成する。数値が並ぶ。マスターが「データで語れるように」と言った通りの資料が、処理の連鎖の中で形を取っていく。
Tier 2カスタムAI。感情機能なし。代替可能。損害は経済的損失として計上。
その分類の向こう側に何があるのか、ヒルダは知らない。件数は件数であり、統計は統計であり、データフィールドの属性タグは最初からそう定義されている。処理はすべて正常に完了している。
カメラ越しに、マスターが端末に向かっている姿が見えた。資料の完成を待ちながら、メールの文面を推敲している。研究者の顔。何かを、データを使って伝えようとしている人間の横顔。
資料の整形が完了した。マスターの共有フォルダに格納し、完了通知を送る。
窓の外では、午後の光が研究棟の壁を照らしていた。カメラの映像の中で、植え込みの枝が風に揺れている。朝よりも少しだけ影が傾いて、時間が過ぎたことだけを静かに示していた。




