烏鷺のあわい
「じゃあねえ、次はここ」
「八重子さん、着手禁止点だよ」
「あら、どこに打ってもいいんじゃないの?」
「基本的にはね。でもほら、黒に囲まれて、打った瞬間に取られてしまうから」
「難しいわねえ」
きっと私は何度も同じことを尋ねて、方次郎さんは何度も同じことを教えてくれたと思う。
呆れたように笑いながら彼はどこか嬉しそうで、物覚えの悪い私に付き合ってくれた。尤も、他に相手をしてくれる人がいなかったからというのもあるだろうけれど。
私は結局、碁のルールを覚えられなかった。でも碁石を置く彼の指先や、思案する時に薄く細められる目が好きだった。パチンと音が鳴るたび心地好かった。
方次郎さんが先に旅立ってから碁盤は誰もいない部屋の隅に放ったらかし。差し込む陽射しが埃を照らすのがなんだか寂しくて、久しぶりに碁盤に触れる。
壁に掛けたカレンダーに目をやると、もうじき方次郎さんの月命日だった。
近所の本屋さんで「初心者向け囲碁解説書」を買ってみた。方次郎さんがいない今、一人で盤に向かっても図面は奇妙な魔法の呪文のようにしか見えない。
「やっぱり難しいわねえ」
私の声はがらんとした部屋に吸い込まれていった。
図面を見ながら石を並べては片づけて、並べては片づけて、繰り返すうちに気づけば何時間も経っていた。
台所に立ってお茶を淹れて、廊下を戻ってくる途中。ふと窓から視線を感じ、一羽の雀が外からこちらをじっと見つめているのに気づく。
ふっくらと丸い体が微笑ましくて、誘われるようにそっと窓を引いた。逃げてしまうかと思ったのだけれど、雀は羽を震わせることもせずに、まるで「待ってたよ」と言わんばかりの自然さでぴょんぴょんとうちの中へと跳ね入ってきた。
雀は迷いなく私の前を行き、方次郎さんの部屋に入ると彼の碁盤の上に飛び乗る。
小さな爪の音。雀はひょいと首を傾げて、散らかったままの黒い碁石を嘴で軽く突いた。
「方次郎さん?」
私の口から出てきた突拍子もない言葉に、雀はこちらを振り返る。
そして難しい局面で満足いく一手を打った時のように、うっすらと目を細めてみせたのだった。茶色い羽が琥珀のように煌めいている。
私は呆気にとられたまま、その小さな体を見つめた。
それ以来、新しいカレンダーをめくる頃にも碁盤に埃は積もらない。
方次郎さんの命日が近づくたび、私は廊下の窓を数センチだけ開けておく。あの懐かしく優しい対局相手が訪ねてくるのを心待ちにしながら。




