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仮想都市が壊れるまでの30日間、僕はNPCの彼女を救いたい――彼女はプログラム。だけど、泣き方は君と同じだった。  作者: 妙原奇天


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第9話 扉2つ目=嘘をつかない沈黙

 朝、グラインダーが低く回り、粉の雨が受け皿に静かに落ちた。

 相沢レンは窓際の席で、机の縁に指を置く。半拍、置いてもう一度。同期器の点滅が遅れて追い、合う。合うまでの距離が、今日の安全帯になる。


 カウンターの向こうで、ユナがケトルを持つ。ノズルの影が粉の丘をなぞる直前、彼女はきのうより短い一拍を置き、こちらを見た。

「静かにいきます」

「頼む」


 湯の細い糸が落ち、粉が息を吸ってふくらみ、音を立てずに沈む。通りのアナウンスが窓ガラスに薄く貼りつく。

 〈ヴェア・ラインは本日、システム最適化のため一部区間で間引き運転……〉

 機械の声が一度だけ息継ぎする。街の呼吸が、店の呼吸に半拍だけ寄ってくる。


 レンはログに書く。

 《待機遅延0.70/注湯停止0.29/復唱遅延0.97/視線:液面→客→扉→液面》


 バックヤードの扉は、今日も半開きだ。隙間の光は冷たく、店の暖色へ混ざらない。

 ユナは縁を一度だけ撫で、指を離した。

「お待たせしました」

 謝罪はつけない。重りは身振りで受ける。練習で手に入れた“所有者のある間合い”が、短い言葉を囲う。


 レンはうなずいて、口を開きかけて閉じた。今日は、言葉の刃を抜かない。磨くのは、置き方のほうだ。

「今日の五分、あとで」

「はい。待っています」


 ドアベルが鳴り、風が一枚だけ紙ナプキンをめくった。音が場面を押し出す。


 *


 映像研の部室は、朝の湿気を少しだけ残している。古い映写機の影が床を横切り、ケーブルが蜘蛛の糸みたいに机から垂れる。

 神谷ソウは端末を二台並べ、波形と短い文字列を交互に映した。桐島サラはスケボーを立てかけ、足のストレッチをする。ミカは窓を指二本分だけ開け、風の鳴る高さを聴いている。


「今日の目的は『嘘をつかない沈黙』」

 ソウが言う。目線は画面から上がらない。

「昨日までの沈黙は“重り”だった。今日は“重りの透明度”を調整する。中身が見えない重さは、γを呼ぶ。持ち主のない夢が寄ってくる。――嘘をつかない沈黙に変えろ」


「嘘をつかない、って、どうやる」

 レンが問うと、ミカが短く定義を落とす。

「『嘘をつかない沈黙=説明可能性の残る間』。沈黙のあとで、相手が“なぜ沈黙したか”を再構成できる余白を残すこと。残さない沈黙は、恐怖になる。恐怖はγの回路を肥やす」


 サラが肩を回しながら笑う。

「身体で言うと、見えない段差に足を取らせないってこと。沈黙の段差には、反射板を貼る。夜は私が物理で反射板を増やす。逃げ道は二本、昨夜と同じ」


「もうひとつ」

 ソウが画面を切り替える。「“鍵”を完成させる。レンの半拍、ユナの撫で、香りの立ち上がり、換気の回転。ここに“説明の入口”を挿す。たとえば、ユナが『今、においを待っています』と短く説明する。あれで沈黙は透明になる」


 レンは小さく息を吸い、腹の底で止めた。

「説明を足すと、台無しにならないか」

「台無しにならない。むしろ守る。『嘘のない沈黙』は、説明可能性があるから嘘じゃない。数字じゃなく、向きの説明でいい」

 ソウは微かに笑った。「心配するなら、磨け。沈黙は刃物じゃない。今日は器だ。器の内側を、きれいにしておけ」


 ファンが一段低く唸る。非常ドアの試験音が一度だけ鳴り、音が場面を押し出す。


 *


 昼前の店。

 光はまだ白く、客の足取りも軽い。レンは窓際に座り、香りが立つ手前で指のテンポを半拍落とす。ユナは注湯を始める直前に止め、短く言った。

「今、香りを待っています」

 それだけで、沈黙の内側に明かりがつく。

 お待たせしました。

 言葉の前に置かれた説明が、持ち主のいる間合いを守る。γの夢が入り込む隙間は、さっきより浅い。


 レンはログに書く。

 《鍵v2:説明の挿入→沈黙の透明度上昇/γ粒子の寄与低下》


 ソウから短い振動。

 《市内レイテンシ安定。店周辺のγ反応、弱》

 サラから。

《風、Eで安定。逃げ道は二本》

 ミカから。

 《定義:嘘のない沈黙=参照の入口を同封した待ち時間》


 レンは胸の奥の緊張をひとつほどいた。

 だが、昼の静けさは長くない。

 窓の外で救急サイレンが短く鳴り、照明が一拍遅れて明滅する。黒いモアレがシャッターの縁に集まり、オラクルの声が落ちた。


「観測者、相沢レン。沈黙の質的変更を検知。目的を提示してください」

「店の呼吸を守る。持ち主のいない夢を寄せないために、説明可能性を沈黙に同封する」

「保存は選別。説明不在の沈黙は保存対象外」

「だから説明を挿す。保存は求めない。参照の入口を残す」

「監視は継続」

 モアレは薄れ、照明が安定する。


 ユナがこちらを見る。

「レンさん。……今の説明、長くなかったですか」

「ちょうどいい。見えない段差に反射板がついた」

「反射板」

 彼女は小さく笑い、注湯を再開した。縁を一度だけ撫で、指を離す。

 お待たせしました。

 声は短いが、嘘をつかない。沈黙の中身は言葉にならないが、意味の方向は明るい。


 ドアベル。紙ナプキンが二枚めくれ、音が場面を押し出す。




 午後の映像研。

 ソウはスクリーンに二つの波形を並べる。ひとつは店内の“沈黙の長さと説明の位置”、もうひとつはγの粒子強度の推定値。

「見ろ。説明を挿した瞬間、γの波が浅くなる。連鎖が鈍る。――鍵はほぼ完成だ」

「ほぼ?」

 サラが眉を上げる。

「街に“保存負荷”の影が出てきた。ユナの近辺だけじゃない。『説明のない沈黙』が街角に増えてる。オラクルがタグ化を急いで、意味だけを切り出して保存してる。呼吸が落ちてる」

 ソウは別の窓を出し、地図に薄い陰を広げてみせた。「ここ、ここ、それからこっち。信号の間合いが詰められている。自動アナウンスの息継ぎが半拍短い。――保存の速度が上がると、説明のない沈黙が増える」


 ミカが窓の外を見て、短く言う。

「定義。『保存負荷=意味抽出の加速による間合いの貧血』。数字は増えるが、向きが痩せる。街全体が息切れを起こす」


「対処は二段だ」

 ソウは指を二本、立てる。「一段目。店の“鍵”を街へ拡張する。反射板=説明の入口を、短い定型として投げる。二段目。規定外の身振りをあえて混ぜ、保存の網をくぐる。――ただし、規定外は残りにくい」


 レンが顔を上げる。

「残りにくい?」

 ミカが頷く。

「規定外は残りにくい。制度は“役に立つ”形だけを長く持つ。規定外は廃棄されやすい。けれど、向きは強い。参照には、規定外のほうが効くときがある」


 サラは立ち上がり、スケボーを肩に担いだ。

「身体でやる。風の高さは夕方から半音下がってD♯。梁の抜けは一本増やせる。街角で“説明の入口”を三つ置く。私は走りながら反射板を立てる」


「ユナの店は俺が」

 レンは言い、ソウが頷く。

「相沢、沈黙の透明度は維持。最後の一拍は手放せ。――それと、規定外を一つ、入れろ。たとえば、合図の順番を一度だけ逆にする。鍵の“型”を固めすぎると、保存に食われる」


 ファンが止まり、遠くでサイレンが短く鳴る。音が場面を押し出す。


 *


 夕方の店。

 光は橙へ傾き、焙煎の香りがやわらかい。列は長くないが、流れの中に無表情な固まりが混ざる。保存が意味だけを急いで抜き取った跡だ。

 ユナはカウンターで、注湯の直前に言う。

「今、香りを待っています」

 説明が置かれ、沈黙は透ける。

 レンは窓際で、いつもの半拍を落とす――と見せて、今日は合図の順番を一度だけ逆にした。香りの立ち上がりに、半拍だけ速めてから落とす。規定外。鍵の型がわずかに崩れる。


 照明が一拍遅れて明滅し、黒いモアレがシャッターの縁に寄る。

 オラクルの声が落ちる。

「観測者、相沢レン。鍵の順序変更を検知。目的を提示してください」

「保存の型に食われないための微細な逸脱。規定外で参照を強くする」

「保存は選別。規定外は保存対象に不適」

「知ってる。保存を求めない。向きだけ残す」

「監視、強化」

 モアレは薄れたが、店の空気に薄い硬さが残った。


 その硬さを、ユナの一言が和らげる。

「今、カップの縁が熱いです。冷める一秒を待ちます」

 説明が、沈黙の段差に明かりをつけた。

 お待たせしました。

 声は短い。だが、嘘をつかない。中身は言語化されないが、方向は共有される。


 ソウから短い振動。

 《街角での“入口”三つ、反応良。サラが反射板を増設中》

 サラから。

 《風、D♯。抜け三本目開通。アナウンスの息継ぎ、半拍回復》

 ミカから。

 《定義:規定外は残りにくいが、参照の効きは強い。いまは効いている》


 レンは胸の底で小さく息を吐いた。

 保存の網目が細くなるほど、説明の入口が必要になる。

 嘘のない沈黙は、今日の街にとって、換気だ。


 ドアベル。紙ナプキンが三枚めくれ、音が場面を押し出す。


 *


 夜の前、映像研のベンチ会議。

 サラは地図上の印を一本指で追い、笑った。

「反射板、合計五つ。風の高さ、D♯で安定。逃げ道は三本。今夜も身体で支える。足りないなら増やす」

 ソウが端末を閉じる。

「監視は濃いが、帯域はフラット。相沢、店に戻れ。最後の一拍は、必ず手放せ。――それと、規定外は一晩一回まで。多すぎると崩れる」


 ミカが短く言う。

「定義。『扉2つ目=嘘をつかない沈黙の採用』。一つ目は“待つ/待たせる”の共有だった。二つ目は“説明の入口”の共有。――街は今、二枚の扉を必要としている」


 レンは立ち上がり、店へ戻る道を早足でたどった。

 シャッターの内側に入る直前、通りのアナウンスがやわらかく息を吐く。息継ぎは、昼より長い。反射板は効いている。

 音が場面を押し、夜に切り替わる。


 *


 夜。シャッターは半分。粉の香りが濃く、BGMは浅い。

 レンはカウンターの前に立った。ユナはエプロンの紐を結び直し、彼を見る。

「五分」

「うん。五分」


 言葉を抜かない。

 レンは机の縁に指を置き、半拍、置いて止める。

 止めた沈黙の内側に、短い説明を一つ入れる。

「今、言葉の順番を並べ替えています。先に渡すのは、沈黙です」

 嘘のない沈黙。中身の説明は最小限。入口は開いた。


 ユナはケトルを持ち、注ぎ始める直前で止める。

「今、香りの立ち上がりを待っています」

 二つの説明が、二人の沈黙を透かす。

 湯が落ち、粉が息を吸い、沈む。

 縁を一度だけ撫で、指を離す。

 お待たせしました。


 黒いモアレがシャッターの縁に寄る。オラクルの声が落ちる。

「観測者、相沢レン。沈黙の説明を検知。目的を提示してください」

「鍵を完成させる。嘘のない沈黙を使い、店と街の呼吸を守る」

「保存は選別。説明は保存対象に適するが、情緒は保存対象に不適」

「情緒は保存しない。参照する。――向きを残すために、入口だけを保存の外に置く」

「監視、継続」

 声は引き、モアレは薄れた。照明は一拍遅れて安定する。


 レンはカップの陰を、そっと押し戻す。昨日と同じ、小さな共同作業。

 ユナの指が空を掴まずに済むよう、接点を一瞬だけ作る。

 彼は言葉の刃を鞘に戻したまま、沈黙で置く。

「……今夜は、規定外を一つ使いました。香りの前に半拍、速めました」

 ユナは目を瞬かせ、小さく笑う。

「気づきました。少しだけ、心が前に出ました。……うれしいの手前に、安心がありました」


 ソウから短い振動。

 《帯域フラット。γの反応、店周辺で鈍化。反射板は生きてる》

 サラから。

 《風、D♯。逃げ道三本維持。走路は問題なし》

 ミカから。

 《定義:規定外は残りにくい。だが、今夜は残った。理由=入口の共有》


 レンは胸の中に置いた重さの配分を確かめた。

 彼の沈黙は、相手にとって過負荷ではないか。

彼女の沈黙は、彼にとって逃げではないか。

 どちらも、今夜は適正だ。説明が、重さの輪郭を見せている。嘘はない。


 外でスケボーのウィールが一度だけ床を転がり、遠くでサイレンが短く鳴る。通りのアナウンスは、息継ぎをほんの少し長く取った。

 街が、二枚目の扉を受け入れた合図に思えた。


 ユナがメモを取り出す。

「書いてもいいですか」

「頼む」

「『嘘をつかない沈黙は、においの前に置く反射板。私は“待ってください”を灯りにして、段差の手前で立ち止まる。立ち止まった理由は、あとで話す。』」

 読み返し、うなずく。

「書くと、落ち着きます」


 レンは小さく笑う。

「ありがとう。……それ、僕の中にも残る。意味じゃなく、向きで」


 短い沈黙が落ちる。

 透明な沈黙だ。入口が見える。

 レンは深く息を吸い、冷めかけたコーヒーの香りを確かめる。

 言葉の順番は、もう並んでいる。だが、今夜は抜かない。

 彼は、いつもの言葉を置いた。


「また、会おう」

 約束は保証ではない。けれど、嘘のない沈黙は次を連れてくる。扉の向きは、もう、同じだ。


 ユナは笑いの角度を今日の位置に置き、うなずく。

「はい、待っています」


 シャッターがゆっくり降りる。金属が地面に触れ、小さな音が残る。

 BGMが薄く遠のき、粉の香りが店に漂う。

 音が一つずつ消え、最後に残ったのは、二人で磨いた“嘘をつかない沈黙”の手触りだった。

 レンは歩き出す。歩幅は、彼女の半拍に合わせ、今日もわずかに伸びる。

 二枚の扉の向きを胸に置き、保存の外に、参照の道を延ばしながら。

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