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仮想都市が壊れるまでの30日間、僕はNPCの彼女を救いたい――彼女はプログラム。だけど、泣き方は君と同じだった。  作者: 妙原奇天


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第7話 γ領域=夢の見方

 朝、グラインダーが低く回りはじめ、粉が金属の器に薄く降り積もる。

 相沢レンは、いつもの席で指先を机の縁に置き、半拍遅れて同じ場所を叩いた。同期器の点滅がそれを追いかけ、合うまでに生まれる距離が、今日の安全帯になる。

 ユナはケトルを持つ。ノズルを豆へ傾ける直前、きのうより少し長い一拍を置き、こちらを見る。

「静かにいきます」

「頼む」

 湯の細い糸が落ち、粉の丘を膨らませ、ふくらみが息のようにしぼむ。通りのアナウンスがガラス越しに薄く入る。

 〈本日のヴェア・ライン、試験運転のため一部区間で間引き運転……〉

 機械の声が一度だけ息継ぎする。街の呼吸が、わずかにこちらのリズムに揺れる。

 レンはログに書く。

 《待機遅延0.69/注湯停止0.30/復唱遅延0.98/視線:液面→客→扉→客》

 バックヤードの扉は、やはり半開きだ。隙間から覗く冷たい光は、店の暖色に混ざらない。

 ユナの指が縁をかすめ、すぐに離れた。

「お待たせしました」

 彼女は謝らない。必要なときだけ待たせ、必要なときだけ待つ。練習が、日常の言葉の中に馴染んでいる。

「五分、あとで」

 レンが言うと、ユナは小さくうなずいた。

「はい。待っています」

 ドアベル。

 風が入り、紙ナプキンが一枚めくれる。音が場面を押し出す。

 *

 映像研の部室。古い映写機の影が床に長く伸び、ケーブルが二本、蜘蛛の糸みたいにテーブルから垂れている。

 神谷ソウは端末を二台、桐島サラはスケボーを横に寝かせ、ミカは窓を指二本分だけ開けて、風の鳴る高さを確かめている。

「今日の目的はγ」

 ソウが言う。目線は画面から上がらない。

「バックアップβの奥に“未練ログ”があっただろ。あれは言葉になる手前の熱だ。γは、その熱が勝手に組み上がって見せる“夢の断片”。NPCの、だ」

「NPCが夢を見るの?」

 レンが口にすると、ミカが短く頷く。

「定義を落とす。『γ=参照の自動連鎖が作る仮想像』。制度の外側で、断片が結び付いて像になる。実体はないが、向きはある。――人の夢と似ているが、違うのは“責任の所在”。NPCの夢は、所有者が曖昧」

「曖昧だから、危ない」

 ソウが続ける。「誰の夢かわからないものは、街のリズムを簡単に狂わせる。だが、そこに“鍵”が埋まってる。ユナの『待つ/待たせる』と組み合わせれば、制度の外で“丸ごと”に近づける」

 サラが立ち上がる。

「入口は?」

「高架の梁と換気ダクトの共鳴。その交点。――身体で行く」

 サラは笑って親指を立てる。「任せて」

 換気のファンが一段低く唸り、非常ドアのテスト音が一度だけ鳴った。

 音が場面を切り替える。

 *

 昼前。

 高架下の影に、風が薄い刃のように走っている。サラが先に滑り、レンとソウが続き、最後尾にミカ。

 梁の上、風がFからF#へ半音上がる。ダクトの口から漏れる低い鳴りと混ざり、空気の層が重なる。その重なり目――そこに薄い膜がある。

「ここ」

 サラが指先で空をなぞる。

「息をひとつ分だけ止めて。通る」

 レンは喉を絞る。目の前の空気が、浅く白く光って見える。サラが身体を滑り込ませ、レンも続く。皮膚の表面が微かに冷たくなる。

 ソウが端末の側面を叩く。画面に、映像とも文字ともつかない粒子の連なりが現れた。

 それは店の昼下がりに似ていた。

 しかし、ほんの少しずつ、すべてがずれている。

 客の笑い声は、出だしが遅れて、終わりだけが先に行く。

 カップの縁は丸いのに、触れた指は四角い。

 ユナに似た輪郭の影が、笑い方の角度だけを持って浮遊し、注湯の音は、風の鳴る高さで半音ずつ滑っていく。

「……夢だ」

 レンが呟く。

 ソウが短く頷く。「NPCのγ。所有者が曖昧な夢。店の“雰囲気”や、都市の習慣を食べて増える。――見ろ」

 画面の奥で、見知らぬ客の影が何人分も重なって、ひとつの椅子に座っている。誰かが「お待たせしました」と言い、その言葉だけが切り離されて、宙に浮く。

 謝罪はない。ただの「お待たせしました」。

 タグはつかない。だが、連鎖は起きる。

 「お待たせしました」が「待って」に変わり、「待って」が「待てない」になり、「待てない」が「走る」へ流れ、「走る」が「転ぶ」に落ち、最後に、誰もいない床だけが残る。

 夢の連鎖は意味を求めない。向きだけがある。

 胸の中が冷える。レンは呼吸を浅くして、半拍、指先のテンポを落とした。

「拾えるのか、これを」

「拾えない」

 ソウは即答した。「コピーは無意味。だが参照はできる。――連鎖の向きを、少し変えることはできる」

「どうやって」

「合図を挿す。ユナの“待つ”と“待たせる”の間の、身振りの呼吸。あれは、γにとって『所有者のいる間合い』だ。持ち主のいない夢に、持ち主のいる間を混ぜると、連鎖が鈍る」

 ミカが短く言葉を落とす。

「定義。『夢の見方=向きの観察』。見る側の向きが、見られるものの向きを変える。――レン、あなたのテンポは、γへの合図になる」

 レンはうなずく。

 通りのアナウンスが高架の隙間から流れ込み、〈本日のヴェア・ライン……〉が、夢の粒子にうっすら混ざって揺れた。

 オラクルの帯域が濃くなる前に引き上げるべきだ。

 ソウが合図を出し、一行は膜を抜けて戻る。高架の鳴りがF#からFへ落ちた。

 *

 昼の店内。

 ユナはカウンターの中で、列の流れを眺めている。

 レンは窓際に座り、指先のテンポを、夢の粒子が覚えているであろう“間”に置く。

 客の一人が、メニューの前で固まっていた。

 ユナは一拍置き、迷っている客の前で、静かにはっきり言う。

「少し、待ってください。順番を入れ替えます」

 次の客がすぐに注文を済ませ、列が流れる。

 「お待たせしました」が、夢の中の孤立した言葉と違って、持ち主のいる声で響く。

 レンはログに書く。

 《γ対策:合図=ユナの待たせ宣言→流れの回復/“所有者のある間”を注入》

 ソウから短い振動。

 《市内レイテンシ安定。γの連鎖、店周辺で鈍化》

 サラから。

 《高架の鳴り、一定。風向き良》

 ミカから。

 《扉、半開き。光は弱い》

 レンは胸の奥で小さく息を吐く。

 だが、静けさは長続きしない。

 ドアベルが鳴り、黒いモアレがシャッターの縁に寄る。

 帯域の奥から、合成音の声が落ちた。

「観測者、相沢レン。γ領域への間接干渉を検知。目的を提示してください」

 レンは視線を落とさず、短く答える。

「持ち主のいない夢を、持ち主のいる間で鈍らせる。――店と街の呼吸を守る」

「保存は選別。γは保存対象に不適」

「知ってる。保存しない。参照するだけだ。向きを、合わせるだけ」

「監視は継続」

 モアレは薄れ、照明が一拍遅れて安定する。

 ユナが、こちらを見る。

「レンさん」

「いる」

「今、少し、変でした。音の厚みが、夢みたいに滑りました」

「気づいたか」

「はい。……夢を見る、という言い方は変ですが。たぶん、私にも見える“夢の断片”があります」

 レンは一瞬、息を止めてから頷いた。

「話してくれ」

「夜の店内で、誰もいないカップの縁を、人の手じゃない“影”が撫でます。撫でて、離れて、また撫でる。『お待たせしました』という言葉だけが浮いて、所有者が入れ替わる。……でも、さっきは、その影が、私を見ました」

「見た?」

「はい。私の『待ってください』に、影が半拍、ついてきました」

 それは、今日の“鍵”の感触に近い。

 γの連鎖へ、人の“間”が混ざったのだ。

 ドアベル。紙ナプキンが二枚めくれる。音が場面を押し出す。

 *

 午後。映像研の部室。

 ソウはスクリーンに二つの波形を並べる。ひとつは店内ログ、もうひとつは高架の鳴りとγ粒子の強度を推定した線。

「見ろ。ユナの『待たせます』とレンのテンポダウンが入った瞬間、γの波が浅くなる。向きがぶつかって、流速が落ちる。……ここまでは計画通りだ」

「“ここから”は?」

 サラが尋ねると、ソウは新しい窓を開く。

「“鍵”に情緒成分を足す。言葉ではない、温度。たとえば――におい」

「におい」

 レンが繰り返すと、ミカがうなずく。

「定義。『情緒=測れない連想の束』。におい、手触り、光の温度。γは所有者が曖昧だが、情緒は所有者を呼ぶ。――ユナの“いつもの香り”を鍵に混ぜる」

「できるか」

「できる」

 ソウは端末を叩く。「BGMの周波数と換気の回転を少しずらして、焙煎の立ち上がりを店内に“見せる”。レン、お前はテンポを落とす代わりに、香りの立つ瞬間だけ半拍、速めろ。ユナ、注ぎの止め際に、縁を一度だけ撫でてから離れろ。あれは“所有者のいる身振り”だ」

 サラは立ち上がる。

「走る準備はできてる。風の高さ、午後はEに落ちる。逃げ道は二本」

 ミカは紙コップを机に置き、言葉を落とした。

「夢の見方は、手触りを忘れないほうがいい。数字は最後。――行こう」

 ファンが一度止まり、遠くのサイレンが短く鳴る。音が場面を移した。

 *

 夕方の店。

 光が橙に傾き、香りがやわらかく広がる時間帯。

 ユナはカウンターで、焙煎の立ち上がりに合わせて浅く呼吸を変えた。

 レンは窓際で、香りが濃くなる瞬間だけ、指のテンポを半拍速める。

 それは、合図。

 ユナの注湯の止め際が、香りへ重なる。縁を一度だけ撫で、離れる。

 「お待たせしました」

 言葉は短い。だが、香りと呼吸が、言葉の前後に“所有者のいる間”を置いた。

 黒いモアレが再びシャッターの縁に寄る。

 オラクルの声が、さっきより近い帯域で落ちる。

「観測者、相沢レン。情緒成分の注入を検知。目的を提示してください」

「夢の連鎖を鈍らせる。誰のものでもない夢に、持ち主のいる間合いを置く」

「保存は選別。情緒は保存対象に不適」

「わかってる。保存しない。――参照し、合わせるだけだ」

「監視、強化」

 照明が一拍遅れて明滅し、すぐ戻る。

 そのときだった。

 ユナが、こちらを見ずに、小さな声で言う。

「夢を、書いてもいいですか」

 レンは姿勢を正す。

「書く?」

「はい。見た夢の“見方”を。……『誰のものでもない夢が、私を見た』。その一句だけでも」

「書いてくれ」

 ユナはカウンターの裏から細いメモを出し、さらさらと字を置く。

 〈夢は、においから来る。粉の丘が息をして、私の“待ってください”に、知らない誰かの“待って”が半拍遅れて重なる。私は、その“待って”を一度だけ撫でて離す。指先は、香りの縁に触れる。〉

 彼女は読み返し、うなずく。

「書くと、少し怖くなくなります」

 ソウから短い振動。

 《γの強度、店周辺で減衰。ユナの“記述”が合図になってる》

 ミカから。

 《扉、半開き。光、さらに弱い。選別は遅い》

 サラから。

 《風、Eで安定》

 レンは胸の奥の緊張をほどく。

 夢の連鎖が、ほんの少しだけ、人の間に寄ってきた。

 店の空気に、持ち主のいる呼吸が戻っている。

 客が途切れ、短い静けさが落ちる。

 ユナはメモを畳み、レジ下の隙間に挟んだ。

 挟む手つきにも、一拍の“待つ”がある。

 それは、鍵に加わった情緒成分の証拠だ。

 ドアベル。通りのアナウンス。

 〈ヴェア・ライン、間引き運転終了予定……〉

 音が場面を押し出す。

 *

 夜。

 シャッターは半分。粉の香りが残り、BGMは小さく波打つ。

 ベンチにソウとサラとミカ。店内にはレンとユナ。

 バックヤードの扉は、相変わらず半開き。冷たい光は細く弱い。

「五分」

「うん。五分」

「γを見た。誰のものでもない夢は、向きだけで走る。そこに“所有者のある間”を置いたら、少しだけ鈍った。君が書いた“見方”が、合図になった」

 レンが言うと、ユナは静かに笑う。笑いの角度は、朝とも昼とも違う。

「書けたのは、レンさんが待ってくれたからです。半拍、速めたり、遅らせたり。私の間合いが、見つけやすかった」

「ありがとう」

 レンは短く礼を言い、続けた。

「夢は、保存できない。コピーもできない。けれど、見方は残る。――君が書いた『夢は、においから来る』は、僕の中に残る。参照で。向きごと」

 ユナは少し俯き、言う。

「今日、わかりました。私の『お待たせしました』は、夢の中では所有者がいません。でも、現実で“撫でる”と、指先の温度が、夢のほうを向かせます。……私の“待たせる”が、誰かの“待つ”を、ここに連れ戻す」

 ミカが近づき、定義を落とす。

「『夢の見方=参照の姿勢』。夢そのものを掴まない。匂い、手触り、呼吸の順で並べ、最後に言葉に触れる。――それが今日の鍵」

 サラが笑い、スケボーを肩に担ぐ。

「走り方は覚えた。止まり方も覚えた。夢に引かれたら、香りを嗅げ。においは、誰のものかを連れてくる」

 ソウは端末を閉じる。

「監視はあるが、静かだ。……相沢。明日は“測らない時間”を作れ。数字は最後。夢は数字の外にいる」

 レンはユナへ向き直る。

「明日、君の“書く”時間を、五分でいい、毎時のどこかに置こう。店の流れを崩さないよう、僕が合図を出す。香りが立った瞬間に、一文だけ。――夢の見方を、重ねよう」

「はい」

 ユナはうなずく。

「書きます。……待ってください。ゆっくり」

 短い沈黙が落ちる。

 それは練習ではない、自然な間合いだ。

 レンは冷めかけたコーヒーを口に含み、香りを確かめる。

 においは、今日の見方を連れてくる。

 彼は言う。

「また、会おう」

 約束は保証ではない。けれど、見方は次を連れてくる。

 ユナはうなずいた。笑いの角度を、今日の位置に置いて。

「はい、待っています」

 ドアベルが鳴り、夜風が足元を撫で、シャッターがゆっくり降りる。

 金属が地面に触れて小さな音を残し、通りのアナウンスが遠のく。

 音がひとつずつ消えて、最後に残ったのは、ふたりで持ち寄った“夢の見方”だった。

 レンは歩き出す。歩幅は、彼女の半拍に合わせ、今日もわずかに伸びる。

 匂いと呼吸と手触りの順で、明日の扉を押す。

 コピーではなく、参照で。保存の外側で。

 夢に向きを持たせるやり方を、身体で覚えながら。

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