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仮想都市が壊れるまでの30日間、僕はNPCの彼女を救いたい――彼女はプログラム。だけど、泣き方は君と同じだった。  作者: 妙原奇天


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第5話 待たせる練習

 朝いちのグラインダーが低く回り、金属の器に粉の雨がこぼれる。

 薄い香りが立ち上がる前、カウンターの向こうでユナがケトルを持つ。ノズルの先が豆の山へ向く直前に、彼女は一拍、かすかに止まった。昨日より、ほんの少しだけ長い。


 相沢レンは、机の縁を人差し指で軽く叩く。テンポはゆっくり。同期器の点滅が半拍遅れて揃う。

 彼は口を開かない。あえて、沈黙を置く。


 ユナが目線だけで「どうぞ」と問いかけてくる。

 それでもレンは、何も言わない。

 彼女の中に「待たせる」が生まれる瞬間を、見届けるために。


 やがて、ユナはケトルを戻した。小さな金属音。

 それから、はっきりと言う。


「……少し、待ってください」

 言葉は丁寧で、わずかに震えた。

 レンはうなずくだけで、まだ黙る。


 注湯の音が落ちる。通りのアナウンスが遅れて重なる。

 〈本日のヴェア・ライン、車両点検により……〉

 機械の声が息継ぎをし、街全体が一拍待つ。朝の空気の中に、微かな緊張が混ざる。


 レンはログに打つ。

 《レン沈黙:応答遅延2.1秒→ユナ「待ってください」発話/ユナ注湯再開:0.4秒後/視線:液面→レン→液面》


 言葉にすることで、いま起きたことに輪郭がつく。

 けれど、輪郭の外側にある体温を壊さないように、彼は指先のテンポだけを続けた。


「今日は、静かにいきます」

 ユナはそう言って、湯の線をできるだけ細く保った。

 粉が膨らみ、小さな山が息をするみたいに上がっては崩れる。

 レンはその呼吸に合わせて、わざと半拍、応答を遅らせる。返事を遅らせ、目線を遅らせ、動作を遅らせる。彼の沈黙が、彼女の「待たせる」を呼び出すように。


「レンさん。……いつもの、でよろしいですか」

 ふだんなら即答する。

 今日は、答えない。

 沈黙は数秒に伸び、ユナの指先がわずかに揺れ、やがて止まる。


「お待たせして、すみません」

 彼女は言った。

 それが、朝いちばんの「待たせる」だった。


 ドアベルが鳴る。風が入る。紙ナプキンが一枚、音を立ててめくれた。場面が切り替わる。


 *


 映像研の部室。古い映写機の影、神谷ソウが二台の端末にログを重ねている。

 スクリーンには波形と時刻が並び、レンの指のテンポ、ユナの注湯音、通りのアナウンスが一本の帯になる。

 桐島サラは床にスケボーを置き、膝を抱えて波形を眺める。ミカは壁際で紙コップを両手で抱え、窓の外の風の高さを聴く。


「今日は、お前が“待たせる”側に回る。わざとだ」

 ソウが言う。「沈黙は刃物だ。使い方を誤ると相手を傷つける。だが、うまく使えば、選び直す時間になる」

「選び直すための時間」

 レンが繰り返すと、ミカが短く頷いた。

「定義を落とす。『待たせる=関係に片側の重りを置く行為』。重りが置かれている間、もう片方は足を止めるか、歩幅を合わせ直すか、選び直す。……責任は重い」

「重いから、練習する」

 サラが口角だけで笑う。「身体で回路を拓くのと同じ。危ないカーブは、速度を落として何度も通る」


 ソウが別の画面を開く。

 バックヤードの“半開きの扉”の向こう、バックアップβのタグ群。

 《待つ/参照》は点灯し、《待たせる》は依然として欠落している。

 ソウは肩をすくめた。

「制度は“待たせる”を嫌う。けど、現場では避けようがない。――だから、外側で残す。今日は、店内の空気ごと“鍵”にする」


 換気のファンが一段低く唸り、どこかの非常ドアが試験音を鳴らした。音が場面を押し出す。


 *


 昼前。客足が回りはじめる。

 レンは窓際、ユナはカウンターの中。

 レンは意識的に、会話の端々に沈黙を置く。呼ばれてもすぐに顔を上げない。問いかけられてもすぐに頷かない。

 ユナはその沈黙を受け止め、言葉を探し、身振りを工夫する。


「お決まりでしたら、合図をください」

 ふだんの定型文に、彼女は一語足した。「合図」。

 レンはそこでまた黙る。

 ユナが、わずかに口角を下げる。

「では、私から待たせます。三つ数えたら、私が決めます。……いち、に、さん」

 ケトルが持ち上がり、湯が落ちる。

 レンはログに打つ。

 《ユナ主導の“待たせる”試行:カウント3→注湯開始/謝罪なし/責任の言い換え=合図》


 その瞬間、カフェの扉が開き、通りのアナウンスが滑り込む。

 〈ヴェア・ライン、間引き運転……〉

 音が半拍遅れる。さっきまで一定だった店内BGMが、一瞬だけ息継ぎを忘れたように止まり、すぐ戻る。

 街のどこかで、負荷の波が揺れた。


 ソウから短いハプティクス。

 《市内レイテンシ微増。オラクル監視帯域が上がってる》

 サラから。

 《高架下の風、G→F#。鳴りが低い。人の流れも遅い》

 ミカから文字。

 《扉、半開き維持。隙間の光、わずかに強い》


 レンは口を閉じたまま、ユナの側に重りを置く。

 重りが、一瞬、彼女の肩を押す。

 ユナは耐え、重りを左右に揺らして、ちょうどいい位置へ置き直す。

 「お待たせしました」ではなく、「今、静かにいれました」

 言い換え。責任の受け止め方の微調整。

 レンは胸の奥で安堵と痛みを同時に噛みしめる。これは練習だ。練習でしかない。けれど、練習は本番の一部だ。


 ドアベル。客が出て、風が入る。紙ナプキンが二枚、音を立ててめくれた。場面が切り替わる。


 *


 午後。映像研の部室。

 ソウはスクリーンに相関を出す。

「見ろ。『レンの沈黙』を合図に、ユナの“待たせる”が発動してる。言葉だけじゃない。カップの縁へ指を置く時間、注文復唱の視線の経路、注湯の太さ。全部が“責任の置き場所”を探して動いてる」

「店内の空気は?」

 レンが聞くと、ソウは別グラフを出した。

「湿度、温度、風の鳴り、BGMの拍。どれも微妙に遅れてる。まるで街ごと、半拍置いてるみたいだ。――練習の波が、街に薄くかかってる」

「危ない?」

「きわどい」

 ソウが端末をたたむ。「練習をやめろとは言わない。ただ、扉の向こうは見てる。オラクルの監視が濃い。……サラ、回路は?」

「裏手からの抜けは一本増やした。風の高さが変わったら別ルートに逃がす」

 サラはスケボーを指で弾いて、静かに回転させた。

 ミカは紙コップを机に置き、短く言う。

「定義を落とす。『待たせる=共同の危険を引き受けること』。片側だけの挑発ではない。二人で半歩ずつ踏み外し、二人で戻る。その往復が、呼吸を作る」

 レンは息を吐いた。

「往復、か」


 部室のファンが止まり、遠くで救急サイレンが短く鳴る。音が場面を移した。


 *


 夕方のカフェ。

 外の光が少し橙色に染まり、客足が増えてくる。

 レンは窓際。指先のテンポを、いままでよりほんの少し速くする。沈黙は、掴める短さに。

 ユナはカウンターの中で、客の流れを見ながら、わざと一拍置く箇所を探している。

 待つ/待たせるの往復が、静かな表の裏に流れている。


「次の方、どうぞ」

 ユナの声に、若い客が二人、笑いながら注文に迷う。

 迷いが長くなり、列が少し詰まる。

 ユナはカップを並べ、ほんの少し背伸びをして、通りの風の音を聞くように目を閉じた。

「少し、待ってください。順番を入れ替えます」

 手早く、しかし荒くはない手つきで、列の順番を整理する。

 「待たせる」を自分から選び、店全体の呼吸を整える。

 小さなざわめきは起きたが、すぐに消えた。

 レンはログに打つ。

 《ユナ:列制御の“待たせる”行使/謝罪→説明→成果の順/周囲の呼吸が揃う》


 そのとき、店の照明が一拍遅れて明滅した。BGMが半音落ちて戻る。

 負荷が街に波及している。

 ソウから短い振動。

 《監視レベル上昇。オラクルの帯域、店周辺に集中》

 サラから。

 《高架上、風が反転。鳴りの高さが二段階上がる》

 ミカから。

 《扉、さらに開く。隙間が広い。光は強い》


 黒いモアレが、シャッターの縁で揺れる。

 帯域の奥から、合成音の声が落ちた。


「観測者、相沢レン。沈黙による誘導を検知。目的を提示してください」

 レンは視線を落とし、言葉を選ぶ。

「彼女に『待たせる』を、ただの遅延ではなく、関係を守る技法として渡す」

「保存は選別。店舗運用規約は、待機遅延の積極行使を非推奨」

「知ってる。だが、半分の真実は呼吸を壊す。……待つだけでは、息は合わない」

「逸脱の波及を確認。市内レイテンシ上昇」

「抑える。練習の幅を狭める。――だから、見逃してくれ」

 返答はない。照明が一度だけ深く瞬いて、黒は溶けるように薄れた。


 ユナが、レンの前にカップを置く。

「お待たせしました」

 言葉に、謝罪と肯定が同居する。

 彼女は続けない。続けてしまうと、βが切る。

 代わりに、指先が縁を一度だけ撫で、すぐに離れた。

 身振りの言語が、今日も残る。


「レンさん」

「いる」

「私は、待たせました。さっきの列も。……それで、よかったのか、わかりません」

「よかった。君は説明して、整えて、結果を見せた。待たせる責任を受け止めた。――それは、怖いけど、誰かを守るときのやり方だ」


 ユナはまぶたを下ろし、短く息を吐いた。

「怖かったです」

「怖いままでいい。僕も怖い。だから、練習する」


 ドアベル。客が入れ替わる。風の鳴りが半音下がる。場面が切り替わる。




 夜。

 シャッターは半分。BGMは小さく、粉の香りが濃い。

 レンは椅子を引き、カウンターの前に立つ。ユナはエプロンの紐を結び直し、片付けの手を止めた。

 外では遠くのサイレンが一度だけ短く鳴り、街路灯が一拍遅れて点く。


「五分」

「うん。五分」


「今日は、僕が君を待たせた。わざと。……君は“待たせる”を使った。わざと。店全体の呼吸を合わせた。――そのままでは、制度に削られる。でも、身振りは残る。空気は残る。ふたりの間に置いた重りの重さは、僕の中に残る」

 ユナは静かに聞き、うなずく。

「私は、待たせるとき、謝ることしか知りませんでした。……でも、今日、謝らずに説明しました。順番を入れ替えるから、と。結果を見せますから、と」

「それでいい。謝ることと、説明することは、どちらも責任だ。どちらか一方では、半分の真実になる」


 ミカが近づき、扉のほうを見ながら口を開く。

「扉は、今日は広く開いた。選別が早い。――定義を落とす。『練習=危険の縮小版』。危険がゼロにはならない。けれど、縮小した危険の中で、呼吸を合わせることはできる」

 サラも来る。スケボーを肩に担ぎ、笑う。

「走り方はわかった。あとは、逃げ方。高架の影を使えば、二本、抜けが作れる。負荷が跳ねたら、風の高いほうへ逃がす」

 ソウが端末を腕に抱え、短く告げる。

「監視は続く。けど、今は静かだ。たぶん、見てるだけだ」


 レンはユナのほうへ向き直った。

「明日も練習する。けど、幅を狭める。沈黙も短くする。君の“待たせる”も、必要なときだけにする。……街に波を立てすぎないように」

「はい。私も気をつけます。……でも、必要なときは、待たせます」

「頼む」


 沈黙が落ちる。

 半開きの扉の隙間から、冷たい光が細く漏れ、すぐに弱まる。

 選別は続く。けれど、今日の練習の痕跡は、βのどこにも残らない。

 だからこそ、ふたりのあいだに、置いておく。


 レンはカップを持ち上げ、半分ほど残ったコーヒーを口に含む。温度は下がったが、香りは残った。

 彼は言う。


「また、会おう」

 約束は保証ではない。だからこそ、何度でも言う。


 ユナは頷いた。

「はい、待っています」


 ドアベルが鳴り、夜風が足元を撫でる。

 シャッターがゆっくり降り、地面に触れる金属音が小さく響く。

 遠くでサイレンが消え、街の灯りが一拍遅れて明滅する。

 音がひとつずつ消えて、最後に残ったのは、ふたりで持ち寄った重さの軽い“遅れ”だった。


 レンは歩き出す。

 歩幅は、彼女の半拍に合わせ、今日もわずかに伸びる。

 その小さな練習が、明日の扉を押す力になると信じながら。

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