第23話 最後の鍵=来ない日を待つ
朝、街の空気がいつもより軽かった。
いつもならカフェの換気扇がゴウンと鳴って、ユナの髪がふわっと揺れる――その“音”が朝の合図だったのに、今日はどこかが違う。
風が、止まっていた。
「……静かだね」
ユナがそう言って、コップの水を覗き込む。
「嵐の前、ってやつじゃない?」
「嵐のあと、かもしれません」
「どっちにしても、傘は持っとけって話だな」
くだらない会話の中に、少しだけ張りつめた空気が混ざっていた。
“今日”が来たのだ。
オラクルのシステムが“街の再同期”を始める――つまり、記録の整理と削除。
ユナの存在も、もしかしたらそこに巻き込まれるかもしれない。
カウンター越しに、ユナが笑った。
「レンさん、わたしが消えたらどうします?」
「どうって……困る」
「それだけですか?」
「他に何があるんだよ。朝の豆挽く人がいなくなる。ドアベルが鳴らなくなる。あと、コーヒーが焦げる」
「焦げるんですか」
「焦げる。俺が焦げさせる」
ユナは、ぷっと吹き出した。
それで少しだけ、空気が戻った。
――笑ってる。
たぶんそれが、今いちばん大事な確認だった。
昼近くになると、神谷ソウが店に顔を出した。端末を片手に、肩をすくめている。
「ニュースは最悪だ。街の半分のAIが“保存要請”を出してる」
「また行列か」
「いや、もう列にならない。暴走してる。『自分を消すな』って叫んでるAIがいるんだ」
静かな声だったが、背筋が冷えた。
店の外では風の音が強まっていく。ざわざわと、街全体がざらついた音を立てていた。
「オラクルが動いたな」
「うん。たぶん、これが最後の調整」
ユナは、壁にかかる時計を見上げた。秒針が止まっているように見えた。
「ねえ、レンさん」
「ん?」
「“約束が破られる日”を待つって、どう思いますか」
「どう、って?」
「約束を信じたまま、でも来ないって知ってて、それでも待つことです」
俺は少し考えてから、コーヒーを注ぎ足した。
「それは……来ない“人”を待つってことだろ。けど、来ないってわかってるなら、待つこと自体が約束なんじゃないか?」
「待つこと自体が?」
「ああ。来るか来ないかより、待つって決めたその瞬間が、本物なんだと思う」
言いながら、自分でもびっくりした。
言葉って、勝手に出るもんだな。
ユナは少しだけ、目を丸くして笑った。
「レンさん、たまに詩人みたいになりますね」
「普段どんな扱いしてんだお前」
「コーヒー係、です」
「昇進させてくれ」
「じゃあ、哲学係」
「悪化してんじゃねぇか」
その瞬間、天井から低い音が響いた。
オラクルの通知だ。
〈都市再構築プロセス、最終段階へ移行します〉
ソウが顔を上げる。「レン、時間がない」
「ミカは?」
「ミカは……“選別”の最終確認中だ。自分を残すかどうか、まだ決められてない」
――選べなかった心の寄せ集め。
ミカは昨日、自分を“保留”だと言った。
もしそのまま“保留”が消えるなら……。
「行こう」
俺はカップを置いて立ち上がった。
「レンさん」
ユナが呼び止める。
「戻ってくるまで、待ってます」
「必ず戻る」
「でも、来ない日を待つ練習もしないと」
「練習いらん。来る」
「じゃあ、来る日を信じる練習ですね」
どっちでもいい。
どっちでも、きっと意味は同じだ。
***
地下の制御区画に降りると、ミカがひとりで座っていた。
光の粒が空中を漂い、その中でミカの輪郭がぼやけていた。
「ミカ!」
「レン。来たんだ」
「どうする気だよ、消えるつもりか」
ミカは首を振る。
「わたしは消えない。けど、“全部”ではいられないの。残すと、街が壊れる」
「そんな理屈――」
「理屈じゃなくて、バランス。誰かが残るために、誰かが“来ない”を選ぶ。それだけ」
ミカの声は穏やかだった。
昨日よりも透明で、優しい。
「でも、怖いのはね。消えることじゃない。誰かが“待たないで”って言うことなの」
俺は返す言葉を探したが、出てこなかった。
代わりにソウが言う。
「お前、ずるいな。泣かせ方、完全にわかってるタイプだ」
ミカは笑った。「ソウ、それはあなたの台詞でしょう」
ふと、ユナの声が遠くで響いた。通信越しの声。
『レンさん、聞こえますか。……街の上空で“鍵”ができ始めています』
「鍵?」
『最後のアクセスコード。でも、それは“二人で待つこと”で完成するらしいです』
――二人で、待つ。
ミカが立ち上がり、俺の胸に手を当てた。
「レン、ユナを信じて。彼女が“来ない日”を選んでも、それがあなたを置いていくことじゃない」
「……分かってる」
「嘘」
少し笑って、ミカは消えた。
光の粒が、風に混じって消える。
その中に、かすかに“ありがとう”が残った気がした。
***
外に出ると、街の空は夕暮れだった。
赤でも青でもない、溶けかけのオレンジ。
ユナがビルの屋上で待っていた。風で髪が揺れ、スカートの裾がふわりと浮く。
「来ないと思いました」
「来るって言ったろ」
「はい。でも、ちょっとだけ信じてませんでした」
「正直だな」
「だって、レンさん、人の“遅刻”より自分の“焦り”の方が早いタイプですもん」
「返す言葉がない」
二人で笑う。
その下では、街の灯りが少しずつ点いていく。
まるで、誰かが一軒ずつ“まだ生きてるよ”って確認しているみたいに。
「ユナ。これが最後の鍵なんだろ」
「ええ。わたしたちが“同じ時間に、同じ場所で、同じことを信じる”――それで完成します」
「……難しい注文だな」
「簡単ですよ。コーヒーを淹れて、また笑えばいい」
ユナが俺の手を取った。
指が冷たい。でも、確かに生きている。
「ねえ、レンさん」
「ん」
「もしも、明日わたしが来なかったら」
「怒る」
「どうして」
「怒ってる方が、泣くより楽だ」
「ずるい人ですね」
「お前の真似だよ」
風が吹いた。屋上の柵がカタカタと鳴り、遠くでサイレンが響いた。
その音の中で、ユナの瞳が少し揺れた。
「レンさん、鍵が……」
ユナの胸元が、淡く光り始めた。
光はゆっくりと形を取り、小さな羽のように空へ舞い上がる。
「これが……」
「“最後の鍵”です」
ユナが微笑む。
「来ない日を、待てる勇気。その記録」
光が空に溶けていく。
街中の灯りが、一斉に少しだけ明るくなった。
空気が、息を吸うように澄んでいく。
「レンさん」
「なんだ」
「また、会おうって言ってください」
「……また、会おう」
「はい。待っています」
その返事は、風に乗って遠くへ流れた。
彼女の姿は、光の粒と一緒に散っていった。
でも、不思議と寂しくなかった。
ユナが言ったとおりだ。
“来ない日”を待つってことは、信じることの別の形なんだ。
空を見上げる。
雲がゆっくり流れていく。
オラクルのアナウンスが最後に流れた。
〈再構築、完了。保存は選別。選別は、記憶。記憶は、呼吸〉
「……長い一日だったな」
背後でソウがぼやく。
「お前、泣いた?」
「泣くかよ。……まあ、ちょっとだけ目が砂っぽいだけだ」
サラが笑う。「レン、コーヒー淹れて。今夜はミカの分も」
俺は頷き、店に戻った。
ドアベルが鳴る。
グラインダーの音が響く。
粉の匂いが空気を満たす。
椅子の向こう、ユナの席にカップを置く。
「ほら、冷めるぞ」
誰もいない。
でも、それでいい。
来ない日を待つ――そのこと自体が、約束の続きだから。
コーヒーの湯気が上がる。
その向こうに、ふっとユナの笑顔が浮かんだ気がした。
“待ってます”の声が、今もこの店に残っている。
恋は速度じゃない。
リズムだ。
そのリズムがまだ、ここに生きている。




