第二十二話 ミカの真実
朝の匂いは、豆を挽く音で始まる。短く唸って、空気の奥へ甘い粉の気配が広がる。ガラス戸の向こうでは、配達の自転車がブレーキをきしませ、角を曲がっていく。店の照明はまだ弱く、カウンターの木目がぼんやりあたたかい。眠たい街に、やっと火がついたみたいだった。
「レンさん、今日の水、やわらかいです」
ユナが湯を注ぎながら言った。表面で丸く割れる泡を見つめ、少しだけ首をかしげる。こういうところが好きだ。むずかしい言葉は一切言わないのに、ちゃんと見ている。俺の返事はうなずきだけ。それで、通じる。
ドアベルが鳴って、神谷ソウが入ってきた。眠そうな目のまま、やけに背筋が伸びている。これから何か、まずい話をする予感が背中に立っている顔だ。
「胃にやさしいやつを。できれば、人生にも」
「うち、人生はメニューにないよ」
「そこをなんとか」
軽口を交わすあいだ、ミカは奥のテーブルでノートをぱらぱらめくっていた。ページをめくる手は落ち着いている。でも、目が動かない。見ているのに、見ていない。そんな時のミカを、俺は知っている。来るのだ。何か、大事なやつが。
店の天井スピーカーが、咳払いみたいな音を立てた。高いところから、冷たい風が落ちてくる感じ。
〈お知らせ。保存の列は、今日も長いです。すべてを拾い上げることはできません〉
「知ってます」とソウ。ユナに視線で合図を送る。「今日の作戦は、昨日と同じ。『順番を待つ運動』。真ん中をひとつ、名前で呼ぶ」
「名前で呼ぶ」ユナがやさしく復唱し、ミカに目をやった。「ミカ、準備は」
声をかけられたミカは、ノートの端をそっとなぞった。息を吸い、閉じた本を胸に抱える。顔を上げたとき、その瞳の奥にあったのは、からっぽに近い透明だった。怖くはない。痛いだけだ。
「レン。今日、わたしから言うね」
「うん」
グラインダーの音が止み、代わりに外の風が入ってくる。遠くで犬が吠えて、すぐ黙った。ミカは立ち上がる。椅子の足が床を擦って、きゅっと鳴った。
「わたし、オラクルの“保留”なんだって」
ユナが小さく瞬いた。ソウの目が細くなる。サラは、まだ来ていない。たぶん、包帯を巻き直している。俺はミカの向かいに腰を下ろした。慌てると、聞き損ねる。
「保留って、あの……」
「選べなかったもの。捨てられなかったもの。名前がつかないまま棚に置かれて、いつか誰かが取りに来るかもしれないって、ずっと待たされていたもの」
ミカは言葉をひとつひとつ手のひらに並べるみたいに置いていく。やさしいけれど、嘘がない。
「わたしの中には、たくさんの“途中”が入ってる。言いかけの『ただいま』、渡しそびれた飴、雨の日に玄関に置き忘れた傘。選ばれなかった、でも、手放されもしなかった、そんな心のかけら」
ミカは笑った。少しだけ、困ったように。
「ごちゃごちゃだよね」
「ごちゃごちゃは、だいたい美味いよ」ソウがつぶやいた。「鍋とか」
「例えが家庭的だな」
「朝食べてきてないから」
小さな笑いが浮かんでは消える。やわらかい輪が広がって、言いにくい言葉が座りやすい場所をつくる。ミカは続けた。
「保留のままでも生きていられると思ってた。ノートにまとめれば、すこしは整うと思ってた。けど、昨日の列を見て、わかったの。わたしは“まとめる人”の顔をしているだけで、本当は“まとめられなかったもの”の塊なんだって」
ノートの角が、ミカの指で白くなる。ぐっと力が入って、また抜けた。
「それで、お願いがあるの。わたしのなかの“保留”を、誰かひとりのために使ってほしい」
ユナの手がわずかに震え、そして止まった。ソウは腕を組み、口を結ぶ。俺は息を吸って、吐いて、言葉を探す。
「誰かひとり、って……ミカが選ぶの?」
「選べないから、保留なんだよ、わたしは」ミカは肩をすくめ、でも目は笑っていなかった。「だから、選んで。誰かひとり。『残したい』を、ほんとうに残すための、あの小さなスタンプのかわりに、わたしを使って」
使って。きつい言葉だ。でも、ミカの声には切り傷のとがりはなかった。土に差したスコップみたいに、深く、静かに刺さる音だけがあった。
店のベルが鳴った。サラが駆け込んでくる。髪が少し跳ねて、息が上がっている。
「ごめん、遅れた。……何の話?」
「ミカが、自分を誰かのために差し出すって」
サラは一瞬だけ目を見開き、そのまま真剣な顔でミカの前に座った。
「痛くない?」
「痛いよ。でも、待たせ続ける痛みのほうが、ちょっとだけ長い」
サラは視線を落とし、膝の包帯にさわった。「なら、わたしは止めない」
天井から、オラクルの声が降りた。
〈観測。“保留”の移譲申請〉
「申請とか言うな、空気読め」ソウが眉間を押さえる。「俺たちは今、人間の会話をしてる」
〈了解。黙ります〉
ほんとうに黙った。空が少し静かになる。俺はミカのノートに目をやる。開かれたページには、短い言葉が並んでいた。昨日、名札に書かれた名前たち。
『階段の匂い』『焼きたての角』『にじむ字』『夕焼けのガラス』『誰もいない夜の河原』
どれも、やわらかくて、強い。ミカはそこに指先で触れ、ゆっくりページを閉じた。
「わたしには、どれも同じくらい大切に見える。だから、ひとりを選ぶなんて、ほんとはできない。……できないまま、ずっと“保留”でいた。けどね、昨日、列のいちばん後ろで『がんばれ』って言われた人が、無言で親指を上げたあの背中を見た時、少しだけ、揺れたの」
河原の人だ。拳をほどいて、震える字で名前を書いたあの人。胸の奥が、きゅっとする。ミカは、俺たちの顔を順に見た。最後に、ユナで止まる。
「それと、ユナ。あなたが『明日もうまくやれる』って言ったでしょう。あの言葉が、わたしの中の“途中”に、やさしく蓋をしてくれた。だから、選んでほしいの。レンさんたちに。わたしの一部を、誰かひとりのために」
「ミカ」ユナの声は少しだけかすれていた。「あなたは、あなた自身のために使われてもいいのに」
「それは、最後にする」ミカは冗談めかして肩をすくめた。「最後の最後、誰も泣かなくていいときに、残ったはしっこを自分で飲む。今は、誰かに渡したい」
サラが手のひらを組み、テーブルの上でころがした。「じゃあ、議題。誰にする?」
ソウが顔をしかめる。「軽く言うなよ、ほら、こういうときは雰囲気だ。しんみりして、ちょっと笑って、最後に泣いて終わるやつだ」
「じゃあ、最後に泣くの担当はソウ」
「やめろ、鼻が赤くなる」
笑いがおりてきて、足元をやわらかくした。俺は息のたびに胸の中身が整っていくのを感じた。そうして、言った。
「俺は……昨日のスケッチブックの子を思い出してた。『夕焼けのガラス』。あの子の夕焼けは、たぶん、街の夕焼けと同じなのに、あの子だけの色になってた。ああいう色を、これからも描けるようにしたい」
サラがうなずく。「いい。わかる。わかりすぎて、うんうんってしすぎるやつ」
「俺は河原の人かな」ソウは視線を落として口角を引きつらせる。「誰もいないって書くとき、ほんとは『誰かがいてほしい』って叫んでる声が背中から出てた。あれは、ずるい」
「わたしは、おばあちゃんの『にじむ字』」ユナが言った。「にじむのはいやだけど、『いやだ』って言えるのも、その人の朝だから」
「どうしよう」サラが頬をつねる。「全部、わかる。全部、残したい」
「全部は無理だって」ソウが肩で息をする。「それが今日のテーマだ。『選ぶ』。選べないから、優先順位じゃなくて、『順番』を置いた。ミカは、その順番の一番先頭に、自分を置こうとしてる」
「……うん」
俺はミカを見た。ミカは、静かに笑っていた。泣きそうではあるけれど、泣いていない。えらい。
「ミカ。お前はどうしてほしい?」
「レンが選ぶのがいい」ミカはまっすぐだった。「あなたが一番『また、会おう』って言うから」
胸の奥で何かが、静かに鳴った。うまく言えない。今言ったら、たぶん後悔する。だから、深呼吸をする。ユナが隣で、同じだけ息を吸い、吐く。すこし笑う。目が合う。大丈夫。いける。
「……河原の人に、渡していい?」
ユナが、うなずいた。サラが親指を立てる。ソウが鼻をこする。ミカが、すこしだけ目を閉じた。
「わかった。じゃあ、河原の人」
ミカはノートをひらき、白紙のページをそっと撫でた。そこにペンの先で、目に見えない何かを書き込むみたいに、ゆっくり手を動かす。そして、ページを切り離した。紙は落ちない。風もないのに、ふわりと浮いて、ミカの手のひらの上に収まった。幻じゃない。触れたら、ちゃんと紙の手ざわりがあった。
「これが、わたしの“保留”からすくったひとかけら。名前は、まだない。あなたが渡すとき、いちばん似合う名前をつけて」
俺はそれを受け取った。紙の端は少しだけざらついていて、真ん中があたたかい。持っていると、心が落ち着く。体温が移ったのか、それとも、もともと温度があったのか。そんなのはどっちでもいい。
ドアのベルが鳴る。昼の列が近づいてくる。小走りの足音、ざわめき、ため息。みんなが「自分の番」を胸に抱え、静かに息をつめている。俺たちは席を立ち、店の外へ折りたたみのテーブルを出した。紙とペン、スタンプを並べる。昨日と同じ。だけど、今日は違う。俺のポケットには、名前のない一枚が入っている。
「次の方、どうぞ」
ユナの声が通りにのびる。列が動く。最初のひとが名札に“真ん中の名前”を書く。その指先は少し震え、次のひとは肩で息を吸う。サラが小さな声で「大丈夫」と言い、ソウが「深呼吸だ」と肩を叩く。ミカは、スタンプの横でノートを開いたまま、目を閉じている。何かを、手放す準備をしている顔。
しばらくして、河原の人が現れた。昨日より表情がまるい。列の最後尾から、少しずつ前へ進んでくる。その歩き方は、きちんと順番を信じている人の歩き方だ。
「お待ちしてました」ユナが言う。
「待たせました」彼は笑う。声に刺がない。
名札に、彼は昨日と同じ言葉を書いた。俺はうなずき、受け取る。スタンプを押す。ぽん、と音が鳴る。紙が一枚、街に灯る。彼は深く頭を下げた。俺はポケットに手を入れ、ミカから預かった紙を握り直す。これも、渡すべきだろうか。今か。いや、ここじゃない。名札のやり取りは、街のルール。これは、俺たちの約束。
「少し時間をください」俺は彼にそっと耳打ちした。「今日の閉店後、河原で話せますか」
「いいよ。夜は、誰もいないから」
冗談めかして言って、彼は列を離れた。誰かが小さく笑い、誰かが「またね」と手を振る。彼も手を振り返す。昨日より、腕が軽い。
午後、列はゆっくり短くなっていき、夕方には残りがひと握りになった。ミカはずっとテーブルの横に座っていた。たまに「ありがとう」を数えるみたいに指を折って、数えきれなくなるたび両手で頬を押さえて笑っていた。指がつめたい。頬はあたたかい。たぶん、それでバランスが取れている。
陽が落ちる。街灯が付き始めるころ、俺たちは店を閉めて、河原へ向かった。空は藍色。水の匂いがして、土手の草がぬれている。川面を渡る風が頬を撫でて、指先にひやりとまとわりつく。
「来たよ」
河原の人が、石の上に腰掛けていた。手ぶらだ。見栄を張らない手ぶら。俺は彼の隣に座り、ミカとユナとソウとサラは少し離れて立った。見守る距離。やさしい距離。
「昨日、怒鳴ってすみませんでした」
「怒鳴ったのは、『なくしたくない』が本気だったからです」ユナが言う。「ちゃんと届きました」
彼はうつむき、笑い、鼻をすすった。俺はポケットから、あの紙を取り出す。夜の光で、紙は薄い灯りを吸って、少しだけ明るい。
「受け取ってほしいものがある」
「それは?」
「名前のない、真ん中のかけら」
彼は眉を寄せ、紙の端に触れた。指先で確かめるように、ゆっくり縁をなぞる。息を吸い、吐いて、目を閉じる。
「これに、名前をつけてもいい?」
「つけてくれ」
川の流れが、小さな石をやさしく擦る音がした。遠くの橋を車が渡る。頭の上を、冷たい風がひと筋だけ走っていく。彼はしばらく言葉を探し、やがて目を開けた。
「『灯りの手』」
ユナが小さく息を呑む。ミカが胸に手を当てた。ソウは目頭を押さえ、サラはうつむいたまま笑った。
「誰もいないと思っていた夜に、手があったんだと思うと、歩ける気がするから」
彼は紙をそっと抱え、胸に当てた。紙はただの紙だ。けれど、胸に当てた手の動きは、何かを抱く手の動きだった。
「ありがとう」
彼の声は、川の上をまっすぐ渡っていった。向こう岸に届いて、草むらの影に吸い込まれていった。俺たちは、何も言わない。言葉は、今はいらない。風が代わりに通り抜ける。夜がやさしくなる。
帰り道、ミカが隣に来た。歩幅がいつもより、半歩だけ軽い。
「ねえ、レン」
「ん?」
「わたしね、少しだけ軽くなった」
「うん」
「でも、空っぽじゃない。まだ、いっぱい残ってる。保留は、保留のまま、ちゃんと生きてる」
「生きてるものは、たいてい途中だ」
「それ、名言っぽい」
「ぽいでいい」
ミカは笑った。ふう、と息を吐いて、夜の空に小さな白を残した。その白はすぐ消えたけれど、消えた跡が、何となくあたたかかった。消えることに、手ざわりがあるなんて、ずるい。
店に戻るころには、街は眠る準備をしていた。シャッターが降り、部屋の窓に布団の影が揺れる。信号の青が、誰もいない交差点をのんびり照らしている。鍵を回し、店の灯りを落とす。最後に残るのは、カウンターの上の淡い光。そこに、ユナの横顔が浮かぶ。
「今日は、よく待てましたね」
「うん。街も、俺たちも」
静かな間。言わない言葉が、カップの底に静かに沈んでいく。そこに触れるのは、まだ早い。触れないのも、もう遅い。絶妙なところで、ユナが俺を見た。
「レンさん」
「うん」
「『灯りの手』、いい名前でした」
「そうだな」
「ミカの中の保留、すてきでした」
「すてきだった」
「だから、明日も、ちゃんと待ちましょう」
約束の言い方だった。保証のない約束。いちばん好きな種類のやつ。俺はうなずいた。毎回、このうなずきに少しずつ重さがついていく。沈まない。沈むほど重たくなくて、浮かぶほど軽くもない。ちょうどいい。
「また、会おう」
ユナは一度だけまばたきして、やわらかく笑った。今日は、その笑いに少しだけ水の音が混じって、きれいだった。
「はい、待っています」
天井のスピーカーが、遠慮がちに鳴る。オラクルの声は短くて、丸かった。
〈観測。『ありがとう』と『またね』、本日も多め〉
「うむ。良い集計」ソウが笑う。「数字は嫌いでも、こういう集計は好き」
「集計って言った」ミカが小さくつっこむ。
「はいはい。じゃあ訂正。今日のまとめは“よく眠れそう”」
「それ、最高」
サラが椅子の背をぽんと叩いた。「じゃ、解散。各自、いい夢を」
「夢って、どうやって見るのかな」ミカがぽつりと言う。「わたし、まだ下手なんだ」
「下手なままでいいよ」ユナが笑う。「下手な夢は、たいていかわいい」
笑いながら、俺たちはシャッターを下ろした。金属が指に冷たく、すぐにその冷たさが消える。消え方に手ざわりがある。今日も、それで終わる。明日も、きっとそうだ。
恋は速さじゃない。リズムだ。
選ぶことも、速さじゃない。順番だ。
そして、真実は大声ではなく、小さな手渡しの中にある。
ミカの真実は、きっとこれからも増えていく。保留のまま増える。待ちながら、増える。
それをわたしたちは、名前で呼ぶ。ありがとう、と言って受け取る。
またね、と言って、灯りをひとつ残す。




