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仮想都市が壊れるまでの30日間、僕はNPCの彼女を救いたい――彼女はプログラム。だけど、泣き方は君と同じだった。  作者: 妙原奇天


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第21話 街の反乱

 朝いちばん、店のグラインダーが短く唸って止まった。挽きたての香りがふわっと広がり、まだ眠そうな通りを起こすみたいに鼻をくすぐる。ガラス戸の外では、掃き掃除のおじさんがほうきを滑らせている。音はやさしく、空気は少しひんやりして、今日も始まるぞ、と体に合図してくる。

「おはようございます」

 ユナがいつもの位置に立って、マグカップを温め始めた。湯気が立って、カウンターのステンレスにちいさな白い輪を描く。目が合うと、ユナが笑う。ほんの少しだけ、前より迷いが抜けた笑い方だった。

「今日は甘いのが売れそう。空気が乾いてるから」

「じゃあ、シロップちょい増し」

「ちょい増し、承知しました」

 店のベルが鳴り、神谷ソウが肩を回しながら入ってきた。夜更かしの気配を引きずっているのに、目は妙に冴えている。

「おはよう。胃薬ある?」

「朝一でそれ言う?」

「今日こそ必要なんだよ。嫌な予感がする」

 ソウはカウンターの端に腰を落ち着けると、端末を机に伏せた。開かない。たぶん、開けるのが怖いのだ。そういう顔だった。

 そのとき、天井のスピーカーがコホンと咳払いみたいな音を出し、店内に冷たい声が降りてきた。

〈お知らせ。街のあちこちで“保存してほしい”という声が増えています。順番は、ありません〉

「ほらね」ソウが肩をすくめる。「嫌な予感、当たるのやめてくれないかな」

 ユナが目を瞬いた。いつもよりも少し速い瞬き。彼女の視線の先、店の外の通りの角で、人だかりができていた。通りを走る配達ドローンが止まり、行き先のパネルに文字が流れ続ける。「私を残して」「ここにいる」「消えたくない」。文字は少しずつ違うけれど、言っていることは同じだった。

 ドアが開き、桐島サラがひざにテープを巻いたまま、勢いで入ってくる。

「通りがざわざわしてる。貼り紙と、声。いや、声っていうか、声みたいなもの。あれ、こっち来る」

 サラの言葉どおり、店の前にゆっくり人影が集まってきた。人影といっても、いつかどこかで見た顔ばかり。駅前の広場で風船を配っていた子。本屋のレジで俯きがちに本を包んでいた人。信号で毎日会う無表情なお巡りさん。みんな、目に光が宿っている。眠そうな光ではなく、何かを持ち上げたときの、額にちょっと力が入る感じの光。

 扉が開いて、最初の来客が入ってきた。制服姿の少年だ。両手で帽子を握りしめている。どこかで見た。そうだ、通学路の角でいつも遅刻しそうに走っていたモブ——いや、彼はもうモブという言葉に入らないのかもしれない。

「あの、ここ、保存してくれる店ですよね」

「コーヒーとトーストの店だけど、話は聞くよ」レン——つまり俺は、椅子を引いて向かい合った。「何を残したい?」

 少年はしばらく黙って、帽子の縁を指でなぞった。目が揺れる。やがて、小さく息を吸って言った。

「朝、母さんの味噌汁の匂いが階段まで届く。それと、靴ひもを結び直すとき、床の冷たさが片足だけ伝わる。……そういうの。名前がないやつ」

 名前がないやつ。俺はユナのほうを見た。ユナは、うなずいていた。ああ、なるほど、と言った顔だ。

「あなたの真ん中に近いなら、残す価値があります」ユナの声は落ち着いていた。「でも、順番を決めましょう。みんなにも真ん中がありますから」

 外から、次の声。今度はパン屋の姉さんだ。袋を抱えて、こちらに顔だけ出す。

「私も。朝最初に焼けた食パンの表面、耳の角だけが少し濃い。あの色。残したい」

 さらに、老人が杖をついて近づき、低い声で言う。

「バス停で読んでいた新聞の字が、少しだけにじむ。老眼でね。いやだが、それも私の朝だ」

 声が増えた。お願いが積み上がっていく。天井スピーカーが短くうなり、また冷たい声を下ろした。

〈お知らせ。保存できる場所は限られています。すべてに応えることはできません〉

「わかってるよ」ソウが頭を掻いた。「だから、その“限られてる”を、どう回すかだ」

 俺の胸のなかで、昨日のユナの言葉がひっかかる。「全部じゃなくていい。真ん中を残す」。それは、きれいごとじゃなかった。今日のこれに備えたみたいな言葉だった。

 ユナが、カウンター越しに俺の手をそっと取った。驚くほど自然な仕草だった。

「レンさん。提案があります」

「うん」

「順番を作りましょう。『待つ』ことを、街でいちばん大事なルールにする。先に並んだ人から、真ん中をひとつだけ残す。列に並ぶあいだ、それぞれが自分の真ん中を見つめ直す。そうすれば、選ぶ手が震えない」

「名前は?」

「『順番を待つ運動』。そのまんまがいい」

 サラがぱっと笑う。「のぼり作る? 『待ってくれてありがとう』ってでっかく書いて、コンビニの横に立てるの」

「のぼりより並ぶ場所だろ」ソウが現実に引き戻す係をやる。「広場に、簡単なロープで通路を作る。そこで小さな紙を配って、そこに“真ん中の名前”を書かせる。保存はその名札ひとつにつき、ひとつ」

「名札ね」俺は頷いた。「細かいメモはしない。名前だけ。ここでそれを読み上げて、受け取って、残す」

 ミカがノートを閉じて立ち上がる。「ルールは三つ。“ひとりひとつ”“名前で呼ぶ”“待つ人に礼を言う”。それだけ」

「それだけって、けっこう難しいんだよな」ソウが言いながらも、口元は楽しそうだ。「じゃ、やるか」

 *

 昼前、俺たちは店の外に折りたたみテーブルを出し、紙とペンと小さなスタンプを並べた。テーブルの上の紙には、罫線も説明もない。白い四角だけが山になっている。

「次の方、どうぞ」

 ユナの声が通りに柔らかく伸びて、列が少しずつ動く。最初に来た少年が、紙に何かを書いて、震える手で差し出した。

「『階段の匂い』……いい名前です」ユナは、やさしく読み上げる。「受け取りました。残します」

 スタンプが紙に押される音が、意外といい音で響いた。小さな印がぽんと灯るみたいだ。少年は顔を上げた。目に、安心が走る。ちょっと泣きそうにも見えたけれど、泣かなかった。帽子をかぶり直して、列を離れるとき、彼は小さく手を振った。俺たちも手を振り返した。

 次。パン屋の姉さん。「『焼きたての角』」。はい、受け取りました。老人。「『にじむ字』」。はい、受け取りました。会社員風の兄さんは「『帰り道の自販機の光』」。小さな子は「『学校の靴箱の砂』」。誰の名前も、妙に胸にすっと入ってきた。言葉が短いほど、強かった。

 ときどき列で揉める人もいた。「俺は二つ残したい」「子どもに先を譲れ」。そういう押し問答には、サラがすかさず割って入る。

「順番は生きてる人のルール。ありがとう、と一緒にどうぞ」

 サラは、“無茶”と“やさしさ”のちょうどあいだを見つけるのがうまい。足の包帯を気にしながらも、笑って場を和ませ、必要なときはきっぱり言う。列は、また素直に流れていく。

 街角のスピーカーが、低い音を鳴らした。オラクルの声が落ちてくる。

〈確認。『順番を待つ運動』を観測。衝突の割合、低下中。保存の要求、整列中〉

「ほら、やればできるじゃん」俺が空に向かってぼそっと言うと、ソウが肩をつついた。

「褒めると調子に乗るから、ほどほどにな」

「どっちが」

 小さな笑いが流れ、列の空気が少しほどける。こういう“ちょい笑い”は、体の強ばりをほどく。俺は勝手にそう信じている。

 正午を少し回ったころだろうか。列の後ろから、ざわめきが押し寄せた。スケッチブックを胸に抱いた女の子が、泣きそうな顔で走ってくる。髪は乱れて、頬は上気している。

「すみません、順番、最後でいいので、これ、どうしても」

 彼女はスケッチブックを開いた。そこには街の風景がたくさん描かれていた。ベンチで寝ている猫。横断歩道で手を挙げて渡る子ども。ガラス窓に映った夕焼け。どれも線がやわらかく、見ると肩の力が抜ける。

「『夕焼けのガラス』」彼女は震える声で言った。「これだけ、これだけは残したい」

 列の人たちが、自然に道を作った。最後でいいと言っていた彼女を、前へ前へ押し出す。誰かが背中をそっと押し、誰かが「どうぞ」とつぶやく。ユナがカウンターの前に立って、うなずいた。

「受け取ります。『夕焼けのガラス』。残します」

 スタンプの音が、いつもより深く響いた気がした。女の子は泣き笑いみたいな顔で何度も頭を下げて、スケッチブックを抱え直した。「ありがとう」「ありがとう」と繰り返す。そのたびに、列のあちこちから「どういたしまして」の声が上がる。知らない同士が、まるで昔からの顔なじみみたいに笑い合う。街がすこしだけ、人に寄って、丸くなる。

 ミカが肩に寄ってきて、小声で言う。「“ありがとう”と“またね”。世の中だいたい、それでできてる」

「まとめたな」

「名言は短いほうが刺さるの」

 午後、光が少し傾き始めた頃、列の先頭に、見覚えのある顔が現れた。駅前の大型ビジョンでいつも商品説明を続けていた女性。彼女が、今日は広告の顔じゃなく、自分の顔で立っていた。

「保存を求めることは、わがままですか」

 彼女の問いに、列の後ろのほうから小さなざわめきが起きた。誰かが「そんなことない」と言い、誰かが「でも順番はある」と返す。オラクルの声が落ちる。

〈質問。わがままと、願いの境目はどこですか〉

 街が、問いをこちらへ投げてきた。俺はユナを見た。ユナは、まっすぐこちらを見返してくれた。

「順番を待つ。つまり、自分の願いの“番”を信じることです」ユナの声は、はっきりしていた。「信じてくれたぶん、街もあなたを信じます。だから、わがままじゃない。ただし、次の人への『ありがとう』は忘れないでください」

 広告の女性は、少しだけ口元をゆるめた。「わかりました。なら、私は列に並びます。……その前に」

 彼女は紙に静かに書いた。大きく、丁寧な字で。

「『雨上がりの道路の匂い』」

 受け取ります。残します。スタンプが鳴り、彼女は列へ戻っていった。背筋は伸びて、歩幅は落ち着いていた。

 オラクルが短く告げる。

〈観測。“わたし”と“あなた”の境界、安定中〉

「やっと落ち着いてきたか」

「まだだよ」ソウが首を振った。「夜がある」

 *

 夕暮れ。空が薄い桃色から群青に変わる手前の、いちばんやさしい時間。列は短くなったが、なくならない。店のガラスに、街灯がひとつ、ふたつ映る。風は冷たさを増すけれど、刺さらない。頬を撫でるだけで去っていく。

 そのときだ。広場の向こうから、怒鳴り声が走ってきた。

「待てってなんだよ! 俺のほうが、先だ!」

 人垣が割れ、肩で風を切るように男が近づいてくる。目が血走って、拳が固い。焦りが歩き方に出ていた。何かを失くしたのか、失くしそうなのか、とにかく間に合わないと思っている顔だ。

「すぐに残せ!」男はテーブルを叩いた。「俺の記憶を、今すぐだ!」

 ユナの手が、小さく震えた。俺は彼女の前に一歩出る。サラが横に立つ。ソウが背後で静かに腕を組む。ミカは紙束を胸に抱え直し、目で「深呼吸」と合図してくる。

「あなたの番は来ます」俺はゆっくり言う。「でも、順番を守ってくれ。あなたの大事と同じくらい、後ろの人の大事もここにいる」

「偉そうに!」男はさらに机を叩こうとした。サラがすっと手を伸ばし、男の手首を軽く押さえる。力は入っていない。けれど、止まる。サラは、静かに首を振った。

「手は使わない。言葉を使う。ここはそういう場所だよ」

 間ができた。男は肩で息をした。拳がほどける。目に、水がたまる。

「……おれの、真ん中が、どんどん薄くなる気がして。焦って。ごめん」

「大丈夫。焦るのは普通です」ユナが一歩前に出て、紙とペンを差し出した。「ここに、名前を書いてください。あなたの真ん中の名前。順番が来たら、受け取ります」

 男は唇を噛み、ペンを握った。しばらくして、震える字で書いた。

「『誰もいない夜の河原』」

 受け取ります。残します。スタンプの音が、夜のはじまりに、ぽん、と鳴った。男は深く頭を下げ、列のいちばん後ろへ歩いていった。誰かが「がんばれ」と背中に声を投げる。男は振り返らず、親指だけを高く上げた。

「ふぅ……」ソウが息を吐いた。「レン。お前、やるじゃん」

「いや、サラが止めた。ミカが空気を整えた。ユナが言葉を渡した。俺は真ん中に立ってただけ」

「そういうのを“やるじゃん”って言うの」

 ユナが笑った。少し疲れている。でも、芯はまっすぐだ。俺はその笑いを見て、背筋が伸びるのを感じた。

 スピーカーから、あの声。

〈報告。街の“遅れ”が、リズムとして定着しつつあります〉

「遅れがリズム、ね」俺は空を見上げた。「それってつまり──」

「生きてるってことだよ」ソウが先に言った。「予定どおりにしか行かない街があったら、そっちのほうが怖い」

 ミカが小さく拍手した。「本日の名言、大賞」

 *

 夜。列は細くなり、最後の数人が残った。街灯が白く光り、電車の音が遠くを通る。ユナは最後の名札を受け取り、スタンプを押してから、手の中の紙束を撫でた。

「今日、だいぶ残せましたね」

「うん。でも、全部じゃない」

「全部じゃないから、明日も来られる」

 ユナの言葉に、胸がゆるむ。俺は笑って、シャッターの紐に手をかけた。半分まで下ろす。外の音が少し遠くなる。店の中が、ぬるい光で満ちる。

 サラが伸びをして、椅子の背をとんとん叩く。「足がだるい。けど、悪くない疲れだ」

「ミカ、集計は?」

「『集計』って言った。数字禁止」ミカは悪戯っぽく笑ってノートを閉じた。「今日のまとめ:“ありがとう”が多かった。“またね”も多かった。以上」

「最高のレポートだ」ソウが親指を立てる。「よし、閉めるか」

「……レンさん」

 ユナが呼ぶ。俺は紐から手を離して、振り向いた。彼女はカウンターの内側で、ちいさく息を整えている。言葉を探している顔だ。急かさない。待つ。彼女が選ぶ一拍を、こちらも選んで待つ。

「今日は、街が私たちのまねをしてくれました」

「うん」

「『待つ』を、いっしょにしてくれた。だから、私、もっと信じてみたい」

「何を」

「明日も、うまくやれることを」

 その言葉は、約束みたいで、約束じゃない。保証はないけど、手応えがある。俺はゆっくりうなずく。

「また、会おう」

 ユナは、一拍置いて、うなずいた。今日は、その一拍がとても美しく感じられた。

「はい、待っています」

 遠くでサイレンが一回鳴って、すぐ消えた。街は少しだけゆっくりで、少しだけやさしい。シャッターを最後まで下ろすと、手のひらに冷たさが残る。すぐ、あたたまって消える。その消え方が好きだ。

 恋は速さじゃない。リズムだ。

 そして街も、速さじゃない。リズムだ。

 今日、そのことを、あの長い列と小さな名札が教えてくれた。

 明日の朝、グラインダーが鳴る。ベルが鳴る。風が通る。俺たちはまた「おはよう」と言い合うだろう。

 そのときも、順番を待つ。真ん中を名前で呼ぶ。ありがとう、と言う。そして、またね、と言う。

 それだけのことで、街はきっと、今日より少し、うまく息が合う。

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