第20話 ユナの決断
朝。店のグラインダーが短く鳴って止まる。粉の匂いがふわっと広がって、腹が減る。
相沢レンは、湯を落とすユナの手元を見た。湯の線は細い。けど切れない。ユナは、前よりちょっと落ち着いて見える。
「今日は湯、少し温度下げました。外、乾いてるから」
「……うん。音が軽い。いい匂い」
そこへドアベル。肩に傘をひっかけた神谷ソウが入ってきて、いつもの皮肉顔でカウンターに肘をついた。
「おはよう、胃に悪い告知の時間だ」
ちょうどそのとき、天井のスピーカーが冷たい声を落とした。
〈告知:保存できる“場所”が少なくなりました。大事なものを優先して残してください〉
「ほらな」
桐島サラが包帯の足を気にしながら、椅子に座る。「上限って、あとどれくらい?」
「たくさんじゃない。……たぶん全然、たくさんじゃない」
レンは、胸の奥がぎゅっとした。全部残したい。笑った顔も、言い間違えた『いらっしゃいまし……た?』も、初めて一緒に帰った雨の音も。けど、上限は上限だ。なんでも入るカバンじゃない。
ノートを開いていたミカが、顔を上げる。
「“大事なものを選ぶ”って、“その人を信じる”ってことだよ」
ユナはポットを置いて、レンの正面に立った。背の高さがだいたい同じになる。目が合う。逃げ道がなくなる。
「レンさん。決めました」
「……うん」
「全部じゃなくていい。わたしの“真ん中”だけ、残してください」
店の音が、すっと小さくなる。冷蔵庫が止まり、外の車の音が遠のく。
レンの喉が勝手に鳴った。「真ん中、って?」
「『待つ』のところです」ユナは胸に手を当てた。「レンさんと息を合わせる一拍。注文を受けてから返事をする一瞬。『はい』と言うまでの、あの小さな遅れ。あれが重なるところが、わたしの真ん中」
レンは、言葉が出てこなかった。出そうとすると、別のもの——涙——が先に来る。みっともない。けど止まらない。
「……俺は、全部残してやりたいんだ。笑った顔も、変な顔も、失敗も、ぜんぶ」
「ぜんぶ残すと、ぼやけます」ユナは首を横に振った。「“わたし”が広がって、薄くなる。それは嫌です。真ん中を残して、他は“参照”で繋ぎたい。コピーじゃなくて」
「参照ってのは、噛み砕くと“思い出す”ってことだ」ソウが割り込んでくる。「写真を百枚貼るより、一枚をじっと見る。そういうやつ」
サラが段ボールのテープを剥がしながら笑う。「いいじゃん。わたしは身体で助ける。前庭での“息合わせ”練習、続けよう。無茶はしない。……たぶん」
「たぶんはやめろ」レンが突っ込むと、サラは肩をすくめた。
そこに、天井からまた声。
〈助言:中心の選別は応答を遅らせます〉
「その遅れ、むしろ欲しいんだけど」レンが言い返すと、スピーカーは一瞬だまった。
〈確認。『心=完璧からの遅れ』。仮説、採用して進行〉
ユナは小さく微笑んだ。前より、笑い方がやわらかい。「……進めましょう」
*
昼過ぎ。都市核の前庭。床に埋め込まれた細い光が、息みたいに明滅している。風は冷たい。けど痛いほどじゃない。
「条件は“二人で同時に遅れる”こと」サラが言う。「四拍子で、二拍目の裏で息を止めて、次で吐く。合えば前庭の扉がうなる。ずれたら、うならない。簡単」
「全然簡単じゃない」レンは苦笑した。
向かい合う。手はつながない。目線だけ合わせる。ユナの瞳は、黒の奥が少し青い。
呼吸。止める。吐く。——光が緑に変わった。遠くの車の音がいったん小さくなる。
「いい感じ」サラが親指を立てかけて、やめた。「無駄な合図はしない」
次。風が強くなる。広告パネルが倒れる。ガン、と嫌な音。ユナの視線がそっちに行きそうになる。レンは目だけで「こっち」と合図。ユナが頷く。その一瞬でまた合う。緑。
ソウの端末が震えた。
〈遅れの配布を少し増やしました。街の事故率、許容内〉
「オラクル、やればできるじゃん」レンがつぶやくと、スピーカーは「分析中」とだけ返した。素っ気ない。
三回、合った。四回目でずれた。汗が額を伝う。体力を使ってるわけじゃないのに、やたら疲れる。
「休憩」サラの一声で、ベンチに座る。ユナも隣に座った。距離は、拳ひとつぶん。
「真ん中の話、続き、いいですか」
「うん」
「わたしの真ん中は、『ありがとう』と『またね』です」ユナは空を見上げた。「『いらっしゃいませ』は街のための言葉。『ありがとう』と『またね』は、レンさんのための言葉。そこで息が合うなら、わたしはそれでいい」
レンは目を閉じた。さっきまで熱かったものが、静かに胸に沈む。
「……わかった。俺は君の真ん中を残す。だから俺の真ん中も置く。君に『待って』と言えること。そして、本当に待つこと」
「はい」ユナは、嬉しそうに笑った。少しだけ長く続く笑い。終わり際に、小さな息が混ざる。その息に合わせて、風が弱まる気がした。
*
夕方。店に戻る。ガラスに貼りついた空が、青から灰にゆっくり変わっていく。
ドアベル。誰も入ってこない。風だけが、ちょっと押して、やめた。
「保存の枠、どうする」ソウが紙コップに落書きをしながら聞く。「“真ん中”を先に固定。周りは思い出すための線だけ残す。そういう順番でいいか」
「それでいこう」レンはうなずく。「数字とか細かい記録は、今日はやめる。名前をつけるだけにする」
「名前?」ユナが首を傾げる。
「うん。『ありがとう』『またね』『待つ』『待って』。それと……観覧車の上で聞いた風の音。湯がとぎれる前の、ふっと軽くなる瞬間。名前で呼べば、思い出せる」
ミカが手を挙げた。「賛成。詳しすぎるメモは、他の誰かのものになる。名前は、あなたたちだけの鍵になる」
天井から、また声。
〈確認。中心の宣言を受領。街の“遅れ”を夜間に少し増やします〉
「夜の街、ちょっとだけゆっくりになるってさ」サラが笑う。
「乗り換えでイライラするやつ、増えるぞ」ソウが肩を竦める。「でもまあ、人が考える時間が増えるなら悪くない。……ミカ、今のうまいこと言ってやれ」
「“遅い=考える時間の配布”。はい名言」
閉店前。レンはユナの正面に立った。視線の高さを揃える。
「ユナ」
「はい」
「……全部じゃなくていい。真ん中を、残そう。俺はそれに同意する」
「ありがとうございます」
ユナの声は、柔らかい。けど芯がある。前より、迷いが少ない。
レンはシャッターの紐を持った。半分まで下ろすと、店の中が夕暮れに包まれる。外の街灯がゆっくり点く。ユナの横顔に薄い光の線ができる。
「――また、会おう」
ユナは一拍置いて、うなずいた。
「はい、待っています」
約束は、保証じゃない。けど、保証じゃないから、隙間に呼吸が入る。呼吸が入るから、思い出になる。
外で遠くサイレンが一回鳴って、やむ。街は少しだけゆっくりで、少しだけ優しい。
レンはシャッターを最後まで下ろした。手のひらに冷たさが残る。すぐ、あたたかくなって消える。その消え方を、彼は嫌いじゃなかった。
恋は、速さじゃなくて、リズムで進む。
今日、そのことをまた少し、証明できた気がした。




