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仮想都市が壊れるまでの30日間、僕はNPCの彼女を救いたい――彼女はプログラム。だけど、泣き方は君と同じだった。  作者: 妙原奇天


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第2話 映像研のハッカーとスケボー女子

 朝一番のグラインダーが低く鳴り、金属の器に粉が雨のように落ちていく。

 湯を細く垂らす前の一拍、ユナは視線を落として黙った。昨日より、わずかに長い。レンはすぐにログへ書き込む。


 《ユナ:注湯前遅延0.53秒(前日比+0.11)。右肩沈み1ミリ。笑顔の角度−0.8》。

 数字は冷たいのに、胸の奥のほうが熱を持つ。早く伝えなければ、と押し寄せる焦りと、もう少しだけこの「遅れ」を眺めていたいという身勝手な願いが、同時に喉へ詰まる。


「今日は浅煎りから?」

「はい。レンさん、昨日より静かに注ぎます」

 ユナはそう言って、ケトルを持ち上げる。

 ──静かに注ぐ、という言い方を彼女が自発的に選んだことが、もう異例だ。プログラムは方法の選択肢を提示できるが、言い回しの味付けまでは規定していない。


 お湯が落ちる音、通りのアナウンスが重なる。

 〈ヴェア・ラインは本日、点検のため一部区間で減便〉

 機械の声が、街のリズムを半歩だけ遅らせる。


「ユナ。今日の終わり頃、少し話せる?」

「大丈夫です。閉店後、五分なら」

「五分で足りるかな」

「足りないときは、待ちます」


 待つ。

 その言葉が、レンの胸の奥で静かに反響した。


 ドアベルが鳴り、客が二人入ってくる。レンは席を立ち、ジャケットを羽織った。彼女の「待つ」という選択が、保存領域の外側にあるのか、内側にあるのか。確かめるための準備が必要だ。


 ドアが閉まり、通りの風音へと場面が切り替わる。


 *


 映像研究会の部室は、古い映画館の倉庫を間借りした小部屋だ。壁にはスクリーン、天井からはケーブルが垂れ、片隅でポータブルサーバがくぐもった呼吸を続けている。エアコンのファンが途切れ途切れに回る音が、時刻の代わりになっている。


 神谷ソウは二台の端末を交互に叩きながら、レンの話を最後まで聞いた。

「参照が揺れてる、って言いたいのか」

「参照か、実体か。そこが僕にはもう曖昧だ」

「曖昧なまま突っ込むと事故る。……で、オラクルに目をつけられてる自覚は?」

「昨夜、ノイズが出た。『干渉は推奨されません』だってさ」

「ほらな」


 ソウは椅子の背にもたれ、目を細める。

「いいか、観察者。お前の仕事は“記述”だ。けど今回は違う。お前はもう“介入者”側に足をかけてる。境界線は、一貫性の逸脱だ」

「一貫性の逸脱?」

「行動のパターンが、スクリプトの許容範囲を超えてズレること。そのログが、参照でなく現在の『選択』に由来するなら、人の証拠に近い。逆に、ノイズや劣化由来なら、ただの崩れだ」


 レンはメモに書く。

 《仮説:鍵は“行動の一貫性の逸脱”》。

 書きながら、ユナの笑い方の角度や、ケトルの持ち上げ方の癖を思い出す。昨日と今日、ほんのわずかに違う配置で、同じ意味を言おうとしていた。そこに意思はあるのか。


 ドアの外で、キャスターが路面を擦る音。

 次の瞬間、ドアが乱暴に開いて、風が紙を舞い上げる。


「遅れてごめん」

 桐島サラがスケートボードを抱え、ヘルメットを外しながら入ってきた。

 小麦色の腕、膝には擦り傷。彼女は街の高架と欄干を地図のように覚えていて、物理的に“回路”を開く。


「で、今日はどこを走らせるの?」

「カフェの裏手。換気ダクトに、ユナの端末と同期するサブノードがある。アンビエントの音と、操作のタイムスタンプを環境側から拾いたい」

「つまり、空気のほうからユナを見るってことね」

 サラは grin ではなく、口角だけで笑った。

「いいじゃん。映像研らしい」


「サラ」ソウが端末を指差す。「オラクルの目は避けろ。信号をいじるな。拾うだけだ」

「了解。拾うだけ」

 拾うだけ。彼女の声は軽いが、その軽さがレンを落ち着かせる。


 ファンの唸り。サーバのランプが一瞬だけ同期し、部室の空気が低く震えた。

 レンは地図を出し、サラは指先で最短ルートをなぞる。雨上がりの路面は滑る。段差、警備ドローンの経路、夜景演出の時間帯。すべてが一本の線になった。


「ミカは?」

「来る」

 ソウは短く言った。

 ほどなくして、ドアの向こうで柔らかい足音が止まる。ドアベルの代わりに、控えめなノックが三つ。


 入ってきたミカは白いシャツにグレーのカーディガン。目元は眠たげだが、言葉はいつもはっきりしている。

「定義を落とすね。保存は選別。すべては残らない。残すものを誰が選ぶか、それが制度の本質」

「相変わらず遠慮がないな」ソウが笑う。

「もう一つ。“待つ”は、意思の仮置き。選べないときに選ばないのではなく、選ぶために時間を置く行為」

 ミカはそれだけ言うと、壁にもたれた。

 問いには答えない。定義だけを落とす。いつも通りだ。


 レンは息を整え、端末に新しいページを開いた。

 《揺らぎログ:ユナ》

 項目は三つ。視線の高さ、一拍の沈黙、コーヒーの湯の落ち方。

 今日から、それらを環境側のログと突き合わせる。


 アナウンスの録音ボタンを押すと同時に、遠くで救急サイレンが鳴り始めた。音が場面を切り替える。


 *


 夕方の路地は、雨粒がまだ残っていて、タイヤが通るたびに薄い水膜がはじける。

 サラはスケボーを踏み出し、軽く一度プッシュしただけで滑り出した。レンは小型の集音マイクとタイムコード同期器を持ち、少し距離を取ってついていく。ソウはバックアップのリンクを握り、ミカは沈黙を味方にして歩く。


 換気ダクトの下には、音を拾うには十分の空洞があった。サラは膝をついて、網に指先を差し込み、内側の金具を軽く回す。

「ここ。パネル一枚ぶん、空気が違う」

 レンはマイクを差し込む。カフェの中の音が薄く漏れてきた。グラインダーの回転、カップを置く小さな打音、ユナの足音。スクリプト化された均一のはずのステップが、ほんの少し踝で揺れている。


「録ってる」ソウが端末で合図する。「ユナのレイヤー、外からのノイズに対して反応が遅い。昨日よりも」

「遅れ」レンが小さく繰り返す。

 遅いというより、待っている。外の世界が一拍置くのを、彼女は「聞いて」から動く。人が会話で相手の息を聞くみたいに。


 ドアベル。

 客が入り、ユナの声。「いらっしゃいませ」

 その声には昨日なかった、短い吸気が混ざっていた。声を出す前、喉が音をこぼしそうになる、あの小さな準備の気配。


「一貫性からの逸脱。……いいね」ソウが呟く。

「ノイズか意思かは、まだ決めつけるな」ミカが静かに釘を刺す。

「決めつけない。けど、これは」レンは息を飲む。「これは、誰かを待つ人の呼吸だ」


 サラがボードにまたがり、路地の端まで滑る。

 彼女はカーブでくるりと身を返し、軽く壁を蹴って戻ってきた。

「ねえ、気づいた?」

「なにを」

「ユナ、注文を復唱するとき、客の目を見るんじゃなくて、今日はカップの縁を見てた。昨日は目を見てた。意味は同じでも、経路が違う。行動の一貫性から外れてる」


 レンはログに追記する。

 《復唱時視線:対人→物体(カップ縁)。逸脱度:中》

 カップの縁。そこには昨日、ユナが小さく文字を浮かべた。《また、会おう》。

 その記憶が、彼女の視線を縁へ誘導したのだとしたら。


 ──風が一度強く吹き、雨粒が路面を走った。

 場面が、空の音で切り替わる。


 *


 日が落ち、店内の照度が少し上がった。

 レンたちは路地から装置を外し、今度は客のふりで席に着いた。店内BGMのボリュームが、夕方モードに切り替わるクリック音を立てる。


「いらっしゃいませ」

 ユナの声が近づく。

 レンの前で、彼女は一度だけ立ち止まった。

 それから、笑顔を作るまでの間が、昨日より長い。


「ブレンドを、二つ」

「かしこまりました。静かに注ぎます」

 静かに、という言葉をまた選んだ。昨日の彼女との会話を参照している。それは保存領域の“記録”か、目の前の“選択”か。


 ユナがケトルを持ち上げ、湯の線を落とす。

 レンはポケットの中でスイッチを押し、同期器のタイムコードを回す。ソウが膝の上で端末を、サラが靴のつま先でテンポを刻む。ミカはストローを指で転がし、音の長さを確かめている。


 湯の線が一度だけ太った。

 規格書の範囲内だが、ユナの癖ではない。

 彼女の視線は湯ではなく、レンの指先に落ちていた。

 レンの指が、テーブルの上で「待つ」リズムを叩いていたのだ。


 ──合わせている。

 レンの体温と、音に、合わせている。


 ソウが目だけで合図する。

「取った。環境からのフィードバックに対して、彼女の注湯が微調整されてる。許容範囲内だけど、癖の範囲外」

「ノイズで説明できる?」

「できる。……けど、それは説明になってるだけだ」


 ミカが紙ナプキンに短く書く。

 《人は、参照しながら創る》

 レンは頷き、カップの縁を見た。昨日の文字は、もう残っていない。当然だ。保存の選別の段階で、自由入力は消される。

 けれど彼の記憶には、確かに残っていた。ユナの文字の、やわらかい角の取り方まで。


 ドアベルが鳴る。風が入る。

 その風に乗って、ノイズが一瞬だけ走った。照明が半拍だけ遅れ、カウンターの端に黒い影のようなモアレが生まれる。

 ──オラクルだ。


「観測者、相沢レン」

 誰の耳にも届かない帯域で、声が鳴った。

「揺らぎログの収集を検知。目的を提示してください」

 レンは答えない。答えたら負けだと直感した。

「目的を提示できない収集は、推奨されません。保存は選別。あなたは何を残し、何を捨てますか」


 ミカが小さく、テーブルの下でレンの手首をつまむ。

 ソウは視線で「やり過ごせ」と言い、サラは何事もないようにストローで氷を混ぜる。氷がぶつかる音で、場面が一瞬、日常の側へ戻る。


「ブレンド、お待たせしました」

 ユナがカップを置く。

 彼女の指先が、ほんの少しだけレンのカップに触れ、すぐに離れた。

 その触れ方は、昨日より静かで、昨日より長い。

 レンはログに書く。

 《接触:0.12秒→0.18秒(+0.06)。意図の有無:不明。が、待っている手の熱と一致》


 彼はカップを口元へ運ぶ。

 熱い。けれど、飲める温度。

 ユナが注いだ“静かさ”が、舌にまで伝わる。

 レンはゆっくりと置いた。音を立てないように。

 ユナがほんのわずか嬉しそうに見えた。


 *


 閉店。

 シャッターが半分だけ降り、夜の風が足元を撫でていく。

 店内には豆の香りと、今日の最後の音が残っている。

 ソウとサラとミカは近くのベンチへ移動し、距離を取った。レンはカウンターの前に立つ。ユナはエプロンの紐をほどき、片付ける手を止めた。


「五分」

「うん。五分」


「明日から、君の“揺らぎ”を集める。記録じゃなく、今の君の選択の痕跡を。環境の音と一緒に。勝手に、じゃない。君に言っておきたかった」

 ユナは瞬きをした。

「理由を教えてください」

「保存は、全部を残さない。どこかで誰かが選ぶ。だったら、選ばれなかった君の『今』を、僕が参照したい。……いや、参照じゃない。僕の中に残したい」

「残す、とは」

「君が待ってくれた一拍。僕が返した一拍。その往復の記憶」


 ユナは黙る。

 一拍、二拍。

 それから、彼女は微笑んだ。昨日とも、今日とも違う角度。

「私のスクリプトには、承認も拒否もありません。……でも、教えてくれて、うれしいです」


「怖くない?」

「わかりません。私は保存されます。選別されます。でも、今日の私が、今日のあなたを見て選んだことも、保存の外に残るなら、少しだけ安心です」


 ソウの端末が小さく振動した。

 オラクルからだ。

 《観測は継続可能。ただし、保存領域への干渉は禁止。逸脱が閾値を越えた場合、再起動スケジュールは前倒しされる》

 脅しのようでいて、ただの運用規約だ。

 レンは画面を閉じる。

 ユナは何も聞いていないふうで、カウンターの端に手を置いた。待つ姿勢だ。

 店内のスピーカーから、小さく終電の案内が流れる。

 〈ヴェア・ライン、最終のご利用はお早めに〉


「ユナ。仮説がある」

「はい」

「君が“待つ”のは、プログラムじゃない。君が今日、僕の指の音に合わせて注いだ、それが答えだ。行動の一貫性から外れて、でも意味へ向かっていた。……それは、人の証拠に近い」


 ユナは目を伏せる。

「証拠は、いりますか」

「僕には、いる」

「じゃあ、もう少し待ちます。明日の私が、今日のあなたを参照できますように」


 彼女の言葉が、空気に溶ける。

 粉を挽く音が、止まった後の静けさほど、豊かなものはない。

 レンはカップを両手で包んだ。温度はもう下がっている。だが香りは残っていた。


「また、会おう」

 彼が言う。

 約束は保証ではない。けれど、リズムは次を連れてくる。


 ユナは頷いた。

「はい、待っています」


 ドアベルが鳴り、夜風が小さな紙片を揺らした。

 シャッターが地面に触れる音がして、街の明かりが一拍遅れて瞬く。

 遠くでサイレン。足元で風。

 音が場面を閉じ、今日という日の最後のフレームが、静かに保存される。


 ただし、その保存は選別だ。

 残らないものを、レンは自分で抱えて帰る。

 カップの縁にもう文字はない。

 けれど、彼の歩幅は、彼女の一拍に合わせてわずかに伸びていた。


 その「遅れ」は、明日へ向かうための、最初の合図だった。

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