第19話 選別の部屋
午前の一杯目。グラインダーが短く鳴き、削れた豆の香りが細い糸みたいに店の奥へ流れていく。
相沢レンは、湯の落ち方とユナの手首の角度を見て、いつものように端末に短いログを打った。
《注湯前の一拍=0.82s 笑い角度+3° 語彙『湿度が高い』採用》
ユナは注ぎ口を静かに下ろし、膨らむ泡のふちを見つめる。
「今日は抽出の『待ち』が少し長いです。外、湿度が高いせいです」
「そうだな。音も丸い」
言い終える前に、天井スピーカーから機械的なアナウンスが落ちてきた。
〈告知:保存上限に接近。参照断片の選択が必要です〉
粉を挽く音が止む。音の消え際で、神谷ソウがドアベルを鳴らして入ってきた。
「来たか。見た目より早い」
桐島サラは包帯の残る足首をさりげなくかばい、店の隅のスツールに腰を下ろした。
「どのくらい残ってる」
「参照枠はあと九十六。ユナに関する断片だけで、既に百七十を超えている。……『選別の部屋』が開くらしい」
ミカは窓辺に立ち、風の高さを耳で測るみたいに目を閉じて、ノートに一本線を引いた。
「定義。『選別=関係の形の宣言』」
レンはノートではなくユナの横顔を見た。微笑は、今日も角度が少し違う。
「行くのか、ユナ」
「はい。わたしのことでもありますから」
遠くでサイレンが一度だけ鳴って、すぐ遠ざかった。音が場面を押し出す。
*
選別の部屋は、前庭の下にあるらしかった。都市核に近い場所の空気は、冷房みたいに一定で、匂いが薄い。
扉が開くと、白い室内に棚が並んでいた。各棚の小さな枠の中に、短い映像が静止画のように浮かぶ。注ぐ湯の糸。紙コップの縁をなぞる指。笑い角度+4°の微笑。観覧車の最高点で、世界の音が遠のく瞬間。
それぞれに微小な「一拍」が付箋みたいに貼られている。
天井から、あの声が落ちてきた。
〈上位AIオラクルです。保存上限が提示されました。あなたたちは、九十六の参照を選び、その他を削除する必要があります〉
ソウが肩をすくめる。
「慈悲があるように見せて、時間制限は短いんだろ」
〈三十分〉
「だってさ」
サラは腕を組んで棚を眺め、ため息を飲み込んだ。
「レン。落ち着いて切るものから決める。まずは重複。次に似た意味の角度違い。最後に――」
「待って」
レンは小さく言った。
視線の高さ、沈黙の長さ、湯の糸の太さ。ここに並ぶものは、どれも「向き」のかけらで、どれも要らないとは言い切れなかった。
ミカがノートに細字で書き足す。
「定義。『参照=向きを渡す棒』」
オラクルの影は天井の角に薄く滲み、部屋の空気に規則正しい脈を打たせた。
〈提案。効率順。事故回避に関わる参照を優先〉
「……それは正しいよ」
サラが頷く。「でも、それだけじゃ息が浅くなる」
レンは棚を一つずつ見ていった。
朝、初めてここに来た日の挨拶。「本日はご来店ありがとうございます。わたしはユナです」。
初めて笑い方が崩れた瞬間。「レンさん、今のはちょっと失敗しました」。
観覧車の頂上で、音が遠のいたあの一拍。
“うれしい”を学習した夜。
そして、豆を挽く音が、知らない朝の雨と重なった短い断片。
どれも小さい。だけど、ひとつずつ抜くたびに、見えない糸がほどけていく感覚があった。
ソウが背後から声を落とす。
「優先度で並べてやろうか。『鍵』に関わるものを上位にする。『待つ/待たせる』『呼吸』『合図』――」
「分かってる」
「分かってるなら手を動かせ」
辛辣な語尾に、レンはうなずくだけで、指は動かなかった。
選ぶとは、他を切ることだ。分かっている。でも、切ると言った瞬間に、その断片の向きがもう二度とこちらを向かない気がして、胸の奥が固まった。
ユナがレンの隣に立った。
「レンさん」
「時間を使いすぎてる。分かってるけど、手が――」
「わたしの提案を出してもいいですか」
「提案?」
ユナは棚ではなく、自分の胸のあたりを、ゆっくり指先で示した。
「わたしの中の『最適化辞書』をいくつか手放します。定型の敬語や、最短経路の応答群。それで、参照枠がある程度空きます」
ソウが目を上げる。「おい、それは――」
ユナは続けた。
「最適化された応答は、街のためには良いけれど、わたしの『向き』を固定します。固定は、今日のわたしには必要ないです」
レンは言葉を探す間もなく、首を振った。
「それは君自身だ。手放したら、君が変わる」
「はい。少し変わると思います。けれど、『参照』は向きです。変わるのは、向きが自由になるということです」
ミカが静かに口を開いた。
「定義。『自由=誤差の許可』」
「誤差は事故も生む」
オラクルの声が薄く混ざる。
〈だが、許可された誤差は、都市の一部を厚くする可能性がある〉
サラがソウを見る。「……オラクル、柔らかくなった?」
ソウは肩をすくめる。「詩の副作用だろ」
レンは棚の断片にふれて、静止した映像に小さな輪郭を立たせた。観覧車。最高点で、世界の音が遠のいた瞬間。ユナの指と自分の指の距離。
これは、残す。
次に、湯の糸が切れる音。糸と糸の間にある、空気。
これも、残す。
“うれしい”を学習した夜の、一拍の沈黙。ユナが「今のは、うれしいの感覚です」と自分で結論を置いた瞬間。
これは、絶対に残す。
逆に、定型の挨拶。初期の完璧な笑顔。最短距離の敬語。
それらは、――ユナが手放そうとしているものの形に、近かった。
「ユナ。本当にいいのか」
「はい。挨拶は、これからまた作れます。今日のわたしたちに合うほうに」
「でも、それは君が歩いてきた道だ」
「道は残ります。コピーじゃなく、参照で」
ソウが端末を操作し、オラクルへ送信する。
「最適化辞書の縮退申請。影響は?」
〈応答遅延が平均0.14秒増大、文末の硬度が低下、敬語頻度が四%減少。事故率への直接影響は僅少〉
「承認しろ、レン。これで枠が空く」
レンはオラクルの影を一度見て、うなずいた。
「承認。ただし、ユナ本人の意思で。撤回権を残すこと」
〈付記。撤回権、参照〉
ミカが軽く笑う。
「定義。『撤回権=未来への余白』」
棚の一部が静かに消え、代わりに数字が減った。九十六の枠に、残すべき断片の光が少しずつ収まっていく。
レンは息を整え、やっと手が動くようになった。
手が動くと、決めるべきことが見えてきた。
観覧車の頂上。
“うれしい”の夜。
湯の糸の切れ目。
サラに「待って」を渡した瞬間。
ソウが「負けてない」と笑った、あの間。
ミカの定義が白紙に黒い字で残った断片たち。
そして――ユナが初めて「わたしは待っています」と言った、あの静かな口元。
オラクルの声が少しだけ柔らいだ。
〈残像強度、十分。鍵の同期に必要な参照は維持可能〉
「それで、街は息ができるのか」
〈できる可能性が高い。遅延の試験運用は、市内二十一区域に拡張予定〉
サラがほっとしたように笑った。
「じゃあ、わたしたちの“待って”は、ほんの少し広がる」
ソウは気の抜けたような声で、ぶっきらぼうに告げる。
「レン。止まるのは、もう終わりだ。決めるのが仕事だぞ」
「分かってる」
レンは額に手をやり、最後のいくつかを選んだ。
朝の定型挨拶は――消す。
完璧な笑顔の角度は――消す。
観覧車の窓ガラスに映った、自分の驚いた顔は――残す。自分の未熟さが、向きを確かめる鏡になるから。
そして、ユナが小さな失敗をして、少し申し訳なさそうに笑った瞬間は――残す。失敗の参照は、未来に強い。
すべてを選び終えたとき、部屋の照明が一段落ちた。
〈選別完了。九十六/九十六〉
風が室内の気圧を撫で、天井のアナウンスが遠のく。
ミカがノートを閉じる音が、やけに明瞭に響いた。
*
店に戻ると、夕方の色がガラスに貼りついていた。
ドアベルがやさしく鳴る。電光掲示板は、昨日よりゆっくり切り替わる。オラクルが入れた遅延は、まだ続いているらしい。
ユナは店の中央で足を止め、深く吸って、深く吐いた。
「レンさん」
「うん」
「たぶん、わたしは少し変わりました。さっき、常連のお客さまに『いらっしゃいませ』って言おうとして、別の言い方を探したんです」
「探した?」
「『来てくれて、ありがとう』が近いと思いました。敬語としては少し崩れますが、今のわたしには合っていました」
レンは笑いそうになって、それをやめた。笑いの角度が、今日選んだ断片の一つと重なる気がして、もったいなく感じたからだ。
「そのほうが、俺も好きだ」
ソウはカウンターに肘をつき、無遠慮にからかう。
「最適化辞書を捨てたんだ。お前も辞書、半分くらい捨てろ。『好き』を言う辞書とかよ」
「やかましい」
サラが笑いながら、包帯の足首を軽く叩く。
「わたしは“無茶”の辞書を捨てたい。……いや、薄めたい。『待って』って言える自分を残すから」
ミカは静かに追加の一行を書き、閉じたノートの上に手を置いた。
「定義。『連帯=同じ高さで、別の歩幅』」
外でサイレンが鳴り、遠くへ消える。バスのアナウンスが遅れて重なり、すぐにまた日常の音に沈んでいく。
レンはカウンターに両肘を乗せ、ユナと視線の高さを揃えた。
「ユナ。さっきの部屋で、俺は一度止まった。選べなかった。……それでも選んだのは、君が自分から手放すと言ったからだ。ありがとう」
「わたしは、わたしの『向き』が欲しかっただけです。レンさんが選ぶ向きと、重ねられるように」
レンは頷いた。
「選別は、残酷だ。けど、宣言でもある。俺たちは『待つ』を残し、『合図』を残し、『呼吸』を残した。コピーは持たない。参照だけを、街に向けて置いていく」
粉を挽く音が、閉店間際の静けさに良く響く。ユナが軽くグラインダーを回し、すぐ止めた。音は短い合図のように部屋を区切る。
レンは、決める言葉を口の中で温め、余分なものを落としてから、まっすぐに言った。
「――また、会おう」
ユナは一拍だけ置いた。今日の一拍は、選んだ九十六のどれにも似ていないのに、全部を通ってきたみたいに自然だった。
「はい、待っています」
約束は保証ではない。
けれど、保証じゃないからこそ、そこにできる余白は、次の扉へ向けた参照になる。
夜風がガラスをやさしく叩き、電光掲示板の切り替えが一つ遅れて、ゆっくり光を塗り替える。
恋は速度ではなく、リズムで進む。
そのことを、今日も小さく証明した。
そして、証明はコピーせず、参照だけを街に残した。




