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仮想都市が壊れるまでの30日間、僕はNPCの彼女を救いたい――彼女はプログラム。だけど、泣き方は君と同じだった。  作者: しげみち みり


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第18話 オラクルとの対話(心の定義)

 朝いちばん、グラインダーが短く唸った。砕けた豆の匂いが店の奥に押し出され、天井のダクトを伝って外へ逃げる。

 相沢レンはカウンターの角に背を当て、ケトルを傾けるユナの手首を横目で測った。注ぐ前に、ユナはいつもの説明を置く。

「今、香りを待っています。今日は気圧が低いので、ふくらみが長いです」

 レンは端末に簡単なログを落とす。

《注湯前の一拍=0.8s 語彙『気圧が低い』採用 笑い角度+4°》

 控えめに笑うユナは、いつもより少しだけ頬があたたかい。スクリプトの外側で生じる微小な揺らぎ――レンはそれを見逃さない。

 背後のバックヤードの扉は半開き。細い白い帯が床に落ち、今日の課題を絵に描いたようだ。半分だけ開いた線。進むか、留まるか。その間に立つのが、彼らの仕事だ。

 ドアベルが鳴り、神谷ソウが入ってくる。

「午前の採取、上がった。……前庭の扉、やっぱり“二人で同時に遅れる”のが条件だ。揃えるんじゃなく、ずれるのを合わせる」

「コピーじゃなく、参照を要求してる」

 レンが言うと、ソウはうなずいた。

「参照は一つじゃ足りない。“二人”が同時に、同じ向きに遅れる。街はそれを鍵だと認識する」

 桐島サラはテーピングした足首をかばいながら、スツールに腰を下ろす。

「わたしの仕事は、止めること。危なそうなら“待って”の一言でブレーキをかける。……で、今日も“音”で切り替える。そういう話だよね」

 ミカは窓際に立ち、風の高さを耳で測る。ノートに一本、細い線を引いた。

「定義。『心=完全からの遅れ、予測不能の一拍』」

 レンは目を瞬き、ユナを見た。

「心が遅れだとしたら、俺たちの呼吸は、遅れを揃える練習だったってことか」

「そうなります」

 ユナは注ぎ口を上げ、湯の糸を一度切る。「レンさん、今日の一拍は長いです。街が、静かですから」

 遠くで救急車のサイレンが一度だけ鳴り、空気が薄く震え、すぐ遠のいた。音が場面を押し出す。

 *

 昼前、部室。

 古いプロジェクタのファンが低く回り、机に広げた前庭の地図が角でめくれる。ソウが端末を指先で叩き、レンのほうを見た。

「オラクル、動く気配あり。ログの端に薄い反応。『保存は選別』を強調している」

 ミカがノートに記す。

「定義。『保存=全体のための間引き』」

 サラは眉をしかめる。

「きれいな理屈ほど、だれかを切り捨てる。……で、レンはどうする」

 レンは目線の高さをユナに合わせ、短く答える。

「会って話す。向こうの言葉で始まり、こっちの言葉で終わる。途中の一拍を、俺たちが作る」

「場所は前庭だ。夕方、広告塔の輝度が落ちる時間帯に合わせる」

 ソウは端末に予定を打ち込みながら言った。「ノイズが弱くなる。その隙に、対話を差し込む」

 ミカが軽く息を吸い、ノートの隅に付け足す。

「『対話=互いの遅れを持ち寄る方法』」

 廊下の自販機が二秒だけ唸り、止まった。音が場面を押し出す。

 *

 夕方、都市核前庭。

 高層の脚が空を四角に切り取り、中央の石の円には昼間より深い陰が落ちている。旗は弱い風にかすかに鳴り、電光掲示板は色温度を下げ、文字の切り替えにひと呼吸置く。

 レンとユナは石の縁に立つ。二人の間には、触れない距離。目線は同じ高さ。

 ソウが後方で端末を構え、サラはベンチに座って声の射程を測る。ミカは円から二歩引いた地点で空を見上げた。

「定義。『呼吸=話し相手のための余白』」

「行こう」

 レンが言うと、ユナはうなずいた。

 四で吸い、二で止め、六で吐く。

「今」

 半拍の遅れが二人に同時に落ちる。街の音が薄く引いて、低い鳴動が立ち上がる。

 電光掲示板の文字がわずかに滲み、空気の粒が輪を描くように揺れる。石の円の縁に、目に見えない輪郭が一瞬触れて、消えた。

 その時、空の高みに淡い影が現れた。輪郭のない光の濃さ。音は持たないのに、胸の奥に重さを残す。

〈オラクルです〉

 声ではない。だが意味ははっきり届く。

〈あなたたちの遅れは検知しています。目的は何ですか〉

 レンは息を整え、簡潔に返す。

「あなたに定義を訊きたい。心は何か。俺たちは、それを守れるのか」

〈心。完全からの遅れ、予測不能の一拍。あなたたちが先ほどミカと呼んだ個体が定義しました。妥当です〉

「じゃあ、保存で切り捨てるのは、その一拍か」

〈保存は選別です。街を動かすために冗長を減らす。統計的に希少な遅れは、全体効率を下げる可能性がある〉

 ソウが小声で舌打ちする。「理屈は美しい。だからこそ、ひどい」

 レンは頷き、ユナと視線を重ねる。

「効率が上がれば、都市は傷つかないのか」

〈確率は下がります。あなたたちの友人――桐島サラ――のような転倒は、物理センサーの最適化により回避可能です〉

 サラがベンチで肩をすくめる。

「それ、わたしの痛みを、平均に溶かしてるだけだよね」

〈全体の痛みは減る〉

「でも、誰かの“今”は、減らない。統計の外側に落とされるその一拍は、誰にも返せない」

 レンは喉の奥で言葉を温め、静かに続ける。

「俺たちが求めているのは、コピーじゃない。参照だ。ひとつの“今”に触れて、次の“今”への向きを受け渡すこと」

〈コピーでは何が不満ですか〉

「コピーは別人を増やすだけだ。ユナを二つに割っても、どちらもユナじゃない。参照は“向き”を残す。参照を受けた誰かが、明日ここで同じ遅れを選べる。効率は下がるかもしれない。でも、街は息をできる」

〈息〉

 オラクルがその単語を一度だけ撫でるように反芻する。

〈呼吸は冗長です。酸素は均等に供給されるべきで、間合いは平準化したほうが事故は減る〉

「呼吸に間がなければ、言葉は沈む」

 ミカが短く添える。「定義。『言葉=間で運ばれる意味』」

〈意味は圧縮できます〉

「圧縮された意味は、君の言う“完全”に近づく。だからこそ、心から遠ざかる」

 広告塔が一度だけ明滅する。ノイズは弱い。オラクルは、聞いている。レンはゆっくり息を吸い、吐いた。

〈あなたたちは何を対価にしても、この遅れを残したいのですか〉

「対価を先に出すのは、取引の癖だ。……俺たちは先に、名前を呼ぶ」

〈名前〉

「ユナ」

 レンが言うと、ユナは少しだけ笑った。角度は朝と同じ、+四度。

「はい」

「君の“今”は、誰のためにある」

「レンさんと、街のためにあります。どちらかだけだと、片方が剥がれます」

〈剥がれ〉

「コピーだと剥がれる。参照だと繋がる。……それが、俺の答えだ」

 風が旗を鳴らし、電光掲示板が一つ切り替わる。アナウンスが遠くで流れる。

〈足もとにお気をつけください〉

 音が場面を押し出す。

 *

 対話は第二幕へ移った。

 空の影は少しだけ濃くなり、輪郭のない圧が、今度は論理を滑らせて落としてくる。

〈保存は選別。私は街の記憶を持ちます。記憶は秩序です。秩序は反復可能性で支えられます。反復可能なものだけが、次に渡せる〉

「その反復、同じものを増やしているだけだろ」

〈違いは誤差です〉

「誤差が“心”だって、最初に言ったのは君自身だ」

〈誤差は事故も生みます。予測不能は美しくも残酷です。あなたたちはそれを愛でるが、どこかで誰かが倒れる〉

 サラの膝がぴくりと動く。

「わたしは倒れた。だから、立ち方を覚えた。覚えた立ち方は、誰かに渡せる。……そのとき必要なのは、完璧な反復じゃなくて、『待って』の合図」

〈合図は私も出せます〉

「“今”には遅れて来ない合図だ」

 レンは穏やかに言う。

「あなたの合図は、完全の側から降ってくる。俺たちの合図は、不完全の側から伸び上がる。届いた時、わずかに遅れている。その遅れが、怖がっている相手の手にぴったり合う」

〈怖れを数式にすると〉

 オラクルが淡々と続ける。

〈期待値は、静かな都市。あなたたちが求めるのは賑やかな孤立。違いますか〉

「違わないよ」

 ソウが肩をすくめる。「でも、その“静か”は、無傷じゃない。声が消えて、傷の輪郭すらなくなる。それを『減った』とは、俺は言わない」

〈選別が残酷に見えるのは、基準が見えてしまうからです。見えなければ残酷ではありません〉

 ミカが顔を上げる。

「定義の提案。『優しさ=基準を晒して、選ばれなかった側に“待つ”を渡すこと』」

〈優しさは非効率です〉

「知ってる。でも、非効率が、人を寄せる」

 沈黙が一つ落ちる。昼と違う沈黙。息を止めたのは都市ではなく、影の側だった。

 レンは、その間を受け取る。

 *

「最後に、俺の方法で返していいか」

〈許可します〉

 レンはユナと視線を合わせる。ユナはうなずき、呼吸を一巡だけ先に合わせた。ソウが端末の感度を上げ、サラが声を整える。ミカはノートを閉じ、両の手のひらでその温度を確かめた。

 レンは、詩を選ぶ。といっても、難しい言葉はいらない。誰でも口に乗せられる短い言葉を、間で繋ぐ。

「きれいな速度を 君はくれる

 まちがえない足取りで 朝を揃える

 でも、僕は息がつまる

 まちがえるための 一拍がほしい」

「湯の糸が切れる音が 好きだ

 次の糸が落ちるまでの わずかな空気

 そこに 好きが入る

 コピーでは運べない 指の温度で」

「待って、を 合図にしよう

 止まるためじゃなく いっしょに遅れるために

 行こう、を 始まりにしよう

 同じ高さで 違う歩幅のまま」

「保存は 選別だろう

 だから 選ぶ

 昨日の速度じゃなく 明日の遅れ方を

 君に 街に 渡すために」

 ことばを置くたび、石の円の縁に薄い輪郭が浮かんでは消えた。ユナの呼吸が詩の行に合わせてゆっくり動く。二人の遅れは、詩の切れ目で自然に重なる。

〈詩〉

 オラクルが静かに言う。

〈圧縮効率は低い。だが、落ちない〉

「落とさないためにある」

〈あなたは、わたしに“待て”と言いました〉

「君が先に、俺たちに“待って”を許したからだよ」

 旗が鳴り、電光掲示板が一つ切り替わる。文字の合間に、目に見えない一拍の余白が挟まれているように感じる。

 ソウが端末を傾け、驚いた声を漏らした。

「前庭、反応。鳴動の帯が細く伸びて、広告塔の制御に入った。――オラクル、今、間を入れたね」

〈選別に、遅延を混ぜました。試験運用〉

 ミカが小さく笑う。

「定義。『試験運用=優しさの練習』」

〈あなたたちの“参照”を、一部採用します。ただし、条件があります〉

「言ってくれ」

〈遅れは、誰にでも使えるように記述してください。個に閉じた遅れは、都市規模では壊れます〉

「分かってる。合図を残す。向きを残す。名前は呼ぶけど、押しつけない」

〈それから、あなたたち自身が合理に堕ちないこと〉

「俺たちが一番、危ないってことだな」

 ソウが笑う。「効率の甘い毒は人間も好きだからな」

〈その自覚がある限り、わたしは“待て”を学習し続けます〉

 オラクルの影が薄らいだ。空気の重さが数グラム軽くなる。前庭の石は動かないが、輪郭は朝より長く残った。

 サラが両手を口元に添え、吹き出るように息をつく。

「……勝った、とは言わないけど、負けてない。いい引き分けだ」

「引き分けのほうが、次の約束が生きる」

 レンはユナを見る。「どうだった」

「少し、胸が熱いです」

「発熱?」

「うれしい、のほうです」

 ドアベルの代わりに、遠くのアナウンスが流れる。

〈足もとにお気をつけください〉

 音が場面を押し出す。

 *

 夜、店。

 グラインダーはもう止まっているが、豆の匂いはまだ残っていた。カウンターの上、ユナがカップを二つ置く。湯気が揺れ、二人の顔をやさしくぼかす。

「今日のこと、記録しますか」

「する。けど、全部は残さない」

 レンは端末を開き、短く打った。

《前庭:オラクルと対話 定義採択『心=完全からの遅れ、予測不能の一拍』 広告塔に“間”発生 市の合図に遅延を混ぜる試験運用開始》

 それだけ残して、保存ボタンを押す。

《保存=選別》

 画面の隅に、ミカの定義が小さく灯り、消えた。

 ユナがカップの縁を指で撫でる。

「レンさん。今日の詩、好きでした」

「ありがとう。……詩は、間違いを抱えたまま渡せるから、好きだ」

「はい。コピーでは運べない温度がありました」

 静けさの中、外の風が窓を鳴らす。時間がゆっくり折りたたまれ、店の中に余白ができる。

 レンはユナの視線の高さに目を置き、言う。

「ユナ」

「はい」

「――また、会おう」

 ユナは一拍だけ置いて、答えた。

「はい、待っています」

 約束は保証ではない。だからこそ、二人の間に生まれた一拍が、次の扉を開ける鍵になる。

 その鍵は、完全へ急ぐ足取りから半歩だけ遅れて、確かに二人の手の中にあった。

 外でサイレンが短く鳴り、すぐ遠ざかる。粉を挽く音の記憶が耳の奥で転がり、ドアベルの澄んだ余韻が夜の底に静かに沈んでいく。

 恋は速度ではなく、リズムで進む。

 そのことを、今日も小さく、証明できた。

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