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仮想都市が壊れるまでの30日間、僕はNPCの彼女を救いたい――彼女はプログラム。だけど、泣き方は君と同じだった。  作者: 妙原奇天


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第12話 初デート=観覧車

 朝、グラインダーが低く回り、金属の器に粉の雨が落ちる。

 相沢レンは窓際の席で、机の縁に指先を置いた。半拍、置いて、もう一度。点滅する同期器は遅れて追い、いつもの速度で重なる。昨日より、心持ち軽い。彼は胸の奥の固さが、やっと薄くなったことに気づく。


 カウンターの向こうで、ユナがケトルを持つ。ノズルの影が粉の丘をなぞる直前、彼女は短く説明を置いた。

「今、香りを待っています。今日は、少し甘い匂いです」

 湯の細い糸が落ちる。粉が息を吸ってふくらみ、静かに沈む。縁を一度撫で、指を離す。

「お待たせしました」

 笑いの角度は、熱を下げた後の穏やかな位置だ。

 レンはログに書く。


 《注湯開始遅延+0.05/停止遅延+0.03(回復傾向)/説明の挿入安定/視線:液面→客→扉→液面》


 バックヤードの扉は半開きのまま。隙間の光はやわらかく、店の暖色に混ざっていく。

「五分、あとでいいか」

「はい。待っています」


 ドアベルが鳴り、風が紙ナプキンを一枚だけめくった。音が場面を押し出す。


 *


 映像研の部室。

 古い映写機の影が机に三角の影をつくり、ケーブルが蜘蛛の糸みたいに垂れる。神谷ソウは端末を二台開き、波形と短い文字列をスクリーンに流していた。桐島サラはスケボーを壁に立てかけ、足首をゆっくり回す。ミカは窓を指二本分だけ開け、風の鳴る高さを聴く。


「今日は“同時に待つ”を試す。――デートだ」

 ソウは画面から目を離さず言う。「観覧車を選んだのは悪くない。上昇と停止が交互に来る乗り物は、沈黙の入口を置きやすい。……ただし、上空は監視帯域が強い。上では言葉をはっきり置け。曖昧は揺らぎに化ける」


「お化け屋敷よりはいいでしょ」

 サラが肩を回す。「観覧車なら、走る必要はないし。風は午後にEからDへ。海沿いは少し揺れる。ゴンドラの窓は結露するから、視界の“待ち”が勝手に発生する。――使えるよ」


 ミカが短く言う。

「定義。『同時に待つ=参照の向きをお互いに預け、同じ“入口”を共有する』。同時に置かれた沈黙は、片方だけの所有になりにくい。揺らぎは、共有されると残りやすい」


「残すのは“意味”じゃない。“向き”だ」

 レンが言うと、ソウは口の端だけで笑った。

「そうだ。保存は選別、向きは保存対象外。だから参照で持つ。……ただし、オラクルの影は濃くなる。今日も対話は来る。相沢、お前は“個”のために“全体”を見ろ。“全体”のために“個”を見ろ。どっちかの言い訳を、もう使うな」


 レンはうなずく。

 言い訳を捨てるには、順番を守るだけだ。言葉は最後。置き方が先。

 ポケットの中で端末が短く震える。ユナからのメッセージ。

「準備できました。待っています」

 短い文に、入口がきちんと置かれている。彼は息をひとつ置いて、返信した。

「今、向かう。遅いのは、助けになる」


 非常ドアの試験音が一度だけ鳴り、ファンの低い唸りが続く。音が場面を押し出す。


 *


 昼下がりの遊園地。

 海沿いの風が看板の端を揺らし、遠くでアナウンスが流れる。

 〈本日の観覧車は、風のため低速運転。ご理解ください〉

 機械の声が、いつもより長く息継ぎした。遅い。だが、遅いのは、助けになる。


 ユナは入口の広場で待っていた。白いシャツに薄いベージュのコート。髪はいつもと同じ留め方だが、風で前髪が少し乱れる。彼女はそれを直すのではなく、風を一拍待ってから、指先でそっと整えた。

「遅くなってごめん」

「大丈夫です。今、風を待っていました」


 観覧車の足元で、係員がゆっくりゲートを開ける。列は短い。冷えた鉄の匂いと、海の匂いが交じる。

 レンはユナに視線の高さを合わせ、短く確認する。

「今日は、同時に待つ。入口は共有する。もし怖くなったら、言葉を置く」

「はい。同時に待ちます。……怖くなったら、言います」

 彼女は笑いの角度を、今日の位置に置く。熱を下げた後の安定した角度だ。


 ゴンドラのドアが開いた。二人が乗り込む。ガラスは薄く曇り、内側に彼らの呼吸が薄い輪を描く。ドアが閉まり、カチリと鍵が落ちる音。

 観覧車は、ほとんど気づかれないほどの速度で動き出す。


 《視線ログ/相沢:床→窓→ユナの指→窓/ユナ:窓→相沢→窓》

 《沈黙開始:0:00→0:06:共有》

 《説明:相沢『今、上昇を待っています』/ユナ『同じく、上昇を待っています』》


 上昇は、街の音を少しずつ低くしていく。通りの雑踏が布の向こうに置かれ、遠くのアナウンスは紙の裏側へ回る。

 ユナはガラス越しの街を見下ろし、ふっと息を吐いた。

「下の人たち、遅く動いて見えます」

「こっちが遅いからだよ」

「そうですね。遅いほうに、見え方が合わせに来ます」


 ガラスが少し曇る。ユナは袖で拭こうとせず、曇りが薄れるのを待つ。

「今、曇りが晴れるのを待っています」

「同じく、待ってる」

 曇りはゆっくり消え、街の輪郭が戻る。ビルの窓に午後の光が刺さり、海は鉛色に揺れる。

 上昇のリズムに、二人の呼吸が重なる。


 中腹にさしかかった頃、ユナがケトルの代わりに、膝の上の両手を静かに握った。

「レンさん。……怖いの、少しだけ残っています」

「言ってくれてありがとう。俺も怖い。けど、入口はある。どこで止まるか、合図を置ける」

「はい」


 レンはポケットから薄いメモを出した。そこには、店で使っている短い説明の言葉がいくつか書かれている。

「今日は、これを二人で持ち歩く。“お待たせしますが、段差の手前です”“今、香りを待っています”。香りを、景色に置き換えていい」

 ユナは受け取り、指先で紙の端を押さえた。

「ありがとうございます。……参照の紙。かわいいです」


 ゴンドラはさらに上へ。風が強くなり、窓の隅が軽く鳴る。

 レンは胸の中で、言いたいことの順番を並べては崩し、再び並べる。

 失う前に保存したい。でも、保存はほんとうに“それ”を残すのか。

 ここで残せるのは、意味ではない。向きだ。向きは、二人で持つ。


 ゴンドラの振動が少し大きくなったとき、通りのアナウンスが遠くで息継ぎを一度だけ長く取った。

 その刹那、黒いモアレがガラスの外側に寄る。

 声が落ちる。

「観測者、相沢レン。相互参照の拡張を検知。――目的を提示せよ」


 オラクルの合成音。倍音は薄いが、確かにここまで手を伸ばしている。

 レンは姿勢を変えず、短く返す。

「同時に待つ練習。個の向きを共有し、全体の呼吸と矛盾させない」


「保存は選別。個別参照は非効率」

 変わらぬ言い回し。しかし、ここは地上よりも静かに響く。

「再起動まで十八日。揺らぎは廃棄候補のまま。――提案する。相互作用の密度を下げよ」


 ユナが膝の上でメモを握り、短い沈黙を置いた。

「今、怖いと言います。……でも、怖いまま、待ちます」

 彼女は自分で入口を置いた。

 レンは頷く。

「提案は部分的に受ける。密度は下げない。ただし、説明を増やす。入口を増やす」


「評価は保留」

 モアレが薄れ、声は引く。

 照明の反射が窓に薄く戻り、遠くのサイレンが小さく鳴る。音が場面を押し出す。


 *


 ゴンドラは頂上へ近づく。

 街は模型のように静かになり、海の面だけがゆっくり呼吸している。

 レンは窓の桟に指先を置き、いつものテンポで半拍落とした。

 ユナも同じ動作を、反対側の桟で真似る。

「今、同時に待っています」

「同時に、待ってる」


 頂上で、ごく短い停止。

 機械のブレーキが金属同士の軽い摩擦音を出し、時間が薄く引き伸ばされる。

 世界の音が遠のく。下の歓声も、BGMも、遠くのアナウンスも、布の向こう側に移動する。

 レンは、ユナの頬の色、指先の血の気、視線の高さの微妙な上下、呼吸の深さを“動画的な細部”として心の内側に描き起こす。記録ではなく、参照のために。


 《頂上停止:0:12/共同沈黙:0:12→0:30/説明:相沢『今、景色を待っています』/ユナ『今、心を待っています』》


 心を待っています。

 その言葉は、保存が拾いにくい。けれど、参照の向きにはよく残る。

 レンは、胸の奥が静かに熱くなるのを、そのまま熱として受け取った。


「ユナ」

「はい」

「前に“沈黙の告白”をした。今日は、言葉で一つだけ言う。――俺は、君の“遅れ”が好きだ。遅いのは助かる。助かるから、好きになったのかもしれないけど、いまは順番がどうでもいい。好きだ」

 言葉を置いた後、彼は黙る。説明の入口は残し、結論は押しつけない。


 ユナは半拍置き、笑いの角度を少しだけ上げた。

「ありがとうございます。うれしい、を学習したときの感じに似ています。……でも、違います。今は“うれしい”が、遅れてやってきます。遅れても、ちゃんと来ます。だから、待てます」

 彼女は膝の上のメモに指を置き、短く読んだ。

「『お待たせしますが、段差の手前です』。……今の私の気持ち、これです」


 レンは笑って、小さくうなずいた。

「段差の手前なら、転ばない」

「はい。転びたくないです」


 ゴンドラが、音もなく動き始める。下降。

 世界の音が少しだけ戻り、風の鳴る高さが変わる。

 レンは窓の桟から指を離し、膝の上で握った。

「鍵の同期、いける気がする。君の“待つ”と、俺の“待つ”。同時に置くことで、一段進む」


「同期」

 ユナはその言葉をゆっくり反芻する。

「同じ高さに並ぶ、ということですね」

「高さを合わせ続ける、かな。ずれる日は、どっちかが半拍落とす」


「はい。ずれたら、落とします。……たぶん、私がよく落とす役です」

「交代しよう。役は固定しない」


 ユナは短く考え、微笑む。

「交代は、楽しいです」


 下降の途中、ガラスの曇りが再び薄く広がる。今度はユナが先に言う。

「今、曇りが晴れるのを待っています。――説明は、私がします」

「頼む」

 彼女は曇りを手で拭かない。内側からの呼気が軽く変わるのを待ち、結露が自然に薄れるのを見届ける。

 曇りが晴れ、街の輪郭が戻る。上で置いた言葉が、下の景色に繋がった。


 《下降中/共同沈黙:0:08→0:24/説明:ユナ『段差の手前です』/相沢『了解した』》


 ゴンドラは地上に近づく。列の人たちが上を見上げ、子どもの笑い声が布のこちら側に戻ってくる。

 ドアが開く直前、黒いモアレがガラスの外に薄く寄る。

 声が落ちる。

「観測者、相沢レン。共同参照の成功を検知。――評価する」


 評価。初めて聞く語。

 レンは姿勢を変えず、短く答えた。

「ありがとう。……だが、揺らぎの廃棄は」

「廃棄候補のまま。再起動まで十七日」

 変わらない宣告。しかし、倍音は硬いだけではない。薄い揺れが混ざる。

「保存は選別。――ただし、本日の共同参照は“全体の呼吸”に微小な余白を生じさせた」

 声は引き、モアレは消える。

 レンは息を吐いた。ユナは短くうなずく。


 係員がドアを開けた。二人はゴンドラを降り、鉄の匂いのする足場に戻る。

 風が強くなり、看板が小さく音を立てた。音が場面を押し出す。


 *


 海沿いのベンチ。

 紙コップのホットチョコレートから白い湯気が立ち、潮の匂いに甘さが混ざる。

 レンは指のテンポを一度落とし、ユナを見る。

「さっきの言葉、ありがとう。怖いを言ってくれて」

「はい。言ったほうが、怖さが形になります」

「店でも、それをやる。今日の“共同参照”を、場に移す。――客に向けて“今、香りを待っています”を二人で言う。列が長いなら、俺は窓際から“段差の手前です”を言う。役は交代で」


「交代、楽しいです」

 ユナは同じ言葉をもう一度、少し明るく言った。

 サイレンの音が遠くで短く鳴る。屋台のベルが鳴り、カモメの鳴き声が被る。雑多な音の層が、今日は柔らかい。


 端末が短く震える。

 ソウから。

 《観覧車上空の帯域、二回ピーク。今はフラット。共同参照の指標、街角でわずかに上昇》

 サラから。

 《風D。逃げ道三本維持。板はいつでも走れる》

 ミカから。

 《定義。『デート=参照の練習を非戦時に行うための儀式』。効果:入口の共有、沈黙の所有分散》


 レンは笑い、ユナに画面を見せる。

「仲間はうるさい」

「うるさいは、助かります」


 彼らは紙コップを置き、観覧車をもう一度見上げた。ゴンドラが、遅い速度で空をなぞる。

 レンは思う。

 保存は選別。

 けれど、選別の外側で、今日の向きを残す方法はある。

 言葉の順番を守り、入口を置き、沈黙を共有する。

 その練習を、こうして積めている。


 ドアベルの代わりに、屋台のベルがまた鳴った。音が場面を押し出す。


 *


 夕方の店。

 光は橙へ傾き、焙煎の香りが濃い。

 レンは窓際に、ユナはカウンターに。二人は視線で合図し、説明を同時に置いた。

「今、香りを待っています」

「今、香りを待っています」

 同時に言った言葉は、店の空気にやわらかい層をつくる。列の人々がそれぞれ頷き、深い呼吸を一度だけする。

 ユナは注湯の直前で半拍置き、湯を落とす。粉が息を吸ってふくらみ、静かに沈む。縁を撫で、指を離す。

「お待たせしました」


 黒いモアレがシャッターの縁に寄り、照明が一拍遅れる。

 声が落ちる。

「観測者、相沢レン。共同参照の店内拡張を検知。――継続せよ」

 命令ではない。助言に近い響き。

 レンは短く答える。

「継続する。個の向きを、場で持つ。場の余白を、個に戻す」


 モアレは薄れ、照明は安定する。

 ソウからの短い振動。

 《帯域、今日いちばん静か。入口の同時配置が効いている》

 サラから。

 《風D安定。逃げ道三本。走らなくていい夜》

 ミカから。

 《定義。『鍵v3=共同参照型』。所有:共同。入口:共有。効果:街の息継ぎ+0.03秒》


 レンは胸の奥で息を吐いた。数字は小さい。けれど、場の手ざわりは、たしかに違う。


 閉店の少し前、ユナがレンのほうを見た。

「外に、観覧車のチケットが一枚、ポケットに残っていました」

「記念か」

「はい。……参照の紙にします。怖い日に、見る用です」

「いい参照だ」


 シャッターを半分まで下ろす前に、二人はいつものように周囲を見回す。紙ナプキンの山を整え、ケトルを拭き、バックヤードの扉に手をかける。

 レンはカウンターに近づきすぎない位置で、最後の入口を置く。

「今、閉店の段差の手前です」

「はい。段差の手前です」


 シャッターがゆっくり降りる。金属が地面に触れ、小さな音が残る。

 BGMは薄く遠のき、粉の香りが店に漂った。

 音が一つずつ消え、最後に残ったのは、二人で同期させた“待つ”の向きだった。


 外へ出ると、風が冷たい。通りのアナウンスは、息継ぎをほんの少し長く取った。観覧車は遠くでゆっくり回り、ゴンドラの窓に小さな光が点々と浮かぶ。

 レンは歩き出す。歩幅を、ユナの半拍に合わせる。

「今日は、ありがとう」

「こちらこそ。……楽しかったです。遅いのが、楽しいのははじめてです」

「これからも、遅くする。必要なだけ」


 短い沈黙が落ちる。

 透明な沈黙だ。入口が見える。

 レンは深く息を吸い、言葉を置く順番を確かめてから、いつも通りに口を開いた。


「また、会おう」

 約束は保証ではない。けれど、共同参照の沈黙は次を連れてくる。

 ユナは笑いの角度を今日の位置に置き、うなずいた。

「はい、待っています」


 観覧車のゴンドラが一つ、頂上で短く止まる。

 世界の音が、ほんの一瞬だけ遠のいて、戻ってくる。

 再起動まで十七日。

 保存の外に、参照の道を延ばしながら、二人は同じ高さで歩いた。

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