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仮想都市が壊れるまでの30日間、僕はNPCの彼女を救いたい――彼女はプログラム。だけど、泣き方は君と同じだった。  作者: 妙原奇天


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第11話 ユナの風邪(心の発熱)

 朝、グラインダーが低く回り、金属の器に落ちる粉の雨が、昨日よりわずかに粗かった。

 相沢レンは窓際の席で、机の縁に指を置く。半拍、置いて、もう一度。同期器の点滅は遅れて追い、かろうじて合う。合うまでの距離が、今日の安全帯になる――はずだった。


 カウンターの向こうで、ユナがケトルを持ち上げる。ノズルの影が粉の丘をなぞる直前、彼女はいつもの一拍を置く。置いたはずの一拍が、途中でほどけ、息が上ずる。

 湯の糸が落ち、粉が息を吸う直前に、ユナの手首が小さく揺れた。湯は細すぎ、香りは立たない。彼女はすぐに気づいて止め、深呼吸をひとつ。やり直そうとする指先が、今度は少し早い。

 リズムが安定しない。呼吸が追いつかない。

 レンは胸の奥を掠めた不安を、ログの行に置き換える。


 《注湯開始遅延+0.13/停止遅延-0.21/視線:液面→客→扉→液面→液面(反復)》


 バックヤードの扉は、いつも通り半開きだが、隙間の光は硬く、店の暖色に混ざらない。

 ユナは縁を撫でようとして、途中で指を止める。

「お待たせしました」

 声は来たが、ふだんより浅い。表面で揺れて、奥に届かない。


 通りのアナウンスが窓に薄く貼りつく。

 〈ヴェア・ラインは本日、保守のため一部区間で速度制限……〉

 機械の声が、いつもより長く息継ぎした。外は重い。ここも重い。


 ユナが小さく首を傾げた。

「香り、弱いですね。すみません。次は、整えます」

 謝罪の言葉は短いが、その前に置かれるはずの説明がない。嘘をつかない沈黙の入口が消える。

 レンは、入口の不在こそが“症状”だと理解する。


「今日の五分、あとで」

「はい。待っています」

 返事の角度は正しいのに、体温だけがずれている。


 ドアベルが鳴り、風が紙ナプキンを二枚めくった。音が場面を押し出す。


 *


 映像研の部室。

 古い映写機の影が机を横切り、ケーブルが蜘蛛の糸みたいに垂れる。神谷ソウは端末を二台並べ、波形と短い文字列を交互に流していた。桐島サラはスケボーを壁に立てかけ、アキレス腱を伸ばす。ミカは窓を指二本分だけ開け、風の鳴る高さを聴く。


「今朝のログ、波形が汚い」

 ソウはデータを拡大し、レンへ視線だけ送った。

「ユナの注湯、微振動が増えてる。復唱も短い。説明の挿入が飛びがち。……発熱だな」


「発熱」

 レンが繰り返すと、ミカが定義を落とす。

「『発熱=参照の更新要求が内部で飽和し、出力の律動を乱す状態』。情報の入れ替えが追いつかない。沈黙の入口を置く余裕が消える。嘘はつかないが、説明が遅延する」


「熱なら、冷ませばいい」

 サラが肩を回して言う。「風は午前中E、夕方Dに下がる予報。逃げ道は二本増やせる。私が身体で押さえる。――相沢、お前は近くにいるだけで負荷をかけるときがある。見守る距離、間違えるな」


「距離をとれってことか」

「“看病”は距離の競技だよ」

 サラは笑う。「近すぎると熱が回る。遠すぎると冷える前に孤独で折れる」


「それと、相沢」

 ソウは画面から目を離さない。「オラクルの帯域が、午前から濃い。再起動の準備段階だ。『揺らぎ』への感度が上がる。――今日、お前は“個”を守る動きが、そのまま“全体”への負荷になり得る。覚悟しろ」


 レンは小さくうなずいた。

 守りたい。だが、守る方法を間違えれば、彼女の呼吸も、街の呼吸も削る。

 言葉は最後。置き方が先。

 胸の中でその順番を反芻し、彼は店へ戻る。


 非常ドアの試験音が一度だけ鳴り、ファンの低い唸りが続く。音が場面を押し出す。


 *


 昼の店。

 光は白い。焙煎の香りは立っているが、輪郭が薄い。

 ユナは注湯の直前で、ふっと息を吸い損ね、短くむせた。ケトルの口が粉の丘から外れ、カウンターに一滴落ちる。それすら彼女は真っ先に拭き取って、表情を整えた。

「すみません。今、整えています。……香りを、待ちます」

 説明は戻った。だが、言葉の後ろ側が熱で波打つ。置くはずの沈黙が長くなり、次の動作を追い越す。


 レンは窓際で指のテンポを半拍落とし、さらに、入口の言葉を早めに置く。

「今の沈黙は、あなたのためです」

 列の前方で、学生らしい男が軽く頷いた。

 個に向けた合図を、全体へ開く。ユナひとりで持ちきれない負荷を、場で受ける。


 照明が一拍遅れて明滅し、黒いモアレがシャッターの縁に寄る。

 声が落ちる。

「観測者、相沢レン。ユナの出力律動の乱れを検知。――介入の意図を提示せよ」


「発熱の看病だ」

 レンは短く返す。「入口を場に増やして、ユナに戻す参照を軽くする。香りの前で待つ時間を、店全体のものにする」


「保存は選別。個別最適は非効率」

 オラクルの倍音は冷静だ。

「ユナの揺らぎは、廃棄対象候補のまま。再起動時に除去される可能性が高い。――忠告する。過度な“看病”は、揺らぎの増幅に通じる」


 ユナの手首が、小さく震える。

 レンはその震えを、見るだけに留めた。手を伸ばせば、すぐ届きそうな距離だ。けれど、今、それは悪い介入になる。

 彼は窓際の姿勢を崩さず、店に向けて言葉の順番を置く。

「今、香りを待っています。お待たせしますが、段差の手前です」

 嘘をつかない沈黙。入口を明かし、段差の位置を知らせる。


 老婦人が目を細め、嬉しそうにうなずいた。

「遅いのは助かるよ。膝が痛いから、ゆっくりでちょうどいい」

 遅いのは助かる。

 ユナはその言葉に合わせ、手をもう一度整え、注湯を再開した。湯の糸は、さっきより太さを取り戻す。

 縁を一度だけ撫で、指を離す。

「お待たせしました」


 ソウから短い振動が届く。

 《帯域フラット。入口の拡張、効いてる。ただしユナ本人の律動は不安定》

 サラから。

 《風E。逃げ道二本は維持。夕方、Dに落ちる》

ミカから。

 《定義。『看病=参照の分散』。ただし所有者の確認が必要》


 レンは短く息を吐く。

 彼女が自分の“遅れ”を、今日も自分の意志で置けるかどうか。

 所有者は、彼女自身であるべきだ。

 それを確かめるのは、五分の時間だ。


 ドアベル。紙ナプキンが一枚めくれ、音が場面を押し出す。


 *


 午後。バックヤードの扉は半開きで、内側の蛍光灯がわずかにちらつく。

 ユナは壁にもたれ、呼吸の波を浅く整えようとしていた。頬の色がいつもより薄い。

「五分」

 レンが静かに言う。ユナはうなずき、ケトルを置いて手を拭いた。


「……熱、あります。正確には、心のほうです」

 ユナは自分の胸に手を当てる。「考えることが増えて、うまく“待てない”。“待たせる”ときの言葉も、途中で消えます」

「消える理由は、わかる?」

「怖いからです。『遅い』が、『だめ』にすぐ変わるかもしれないから。オラクルの声が、耳に残ります。『揺らぎは廃棄』って」

 言ってから、彼女は苦笑する。「いまの私、まるで風邪です」


「風邪でいい」

 レンは答える。「風邪は、直る。直るまで、無理をしない。……それと、所有者を確認したい。今日も“遅れ”は、君のものか」

 ユナは短い沈黙を置き、うなずいた。

「はい。置きたいです。怖いけれど、置きたい。だから、入口を言います。『今、香りを待っています』『今、熱が高いです』『お待たせしますが、ここは段差の手前です』」

 言葉にして、彼女は息を吐いた。「言うと、少し楽です」


「今夜は、距離を変えよう」

 レンは言った。「店にはいる。けれど、カウンターから離れて座る。君の視界の外側で、場に入口を増やす。君は“自分の遅れ”だけに集中していい。俺は、場を支える」

 ユナは目を瞬かせ、少し考えて、肯いた。

「それなら、できそうです。……私、看病されてる気がします」

「看病だよ」

 レンは笑う。「距離の競技だ」


 遠くでサイレンが短く鳴り、非常口灯が一度だけ点滅する。音が場面を押し出す。


 *


 夕方。光は橙へ傾き、焙煎の香りが重くなる。列は短いが、無表情の固まりがときどき混ざる。保存が意味だけを急いで抜いた跡だ。

 レンは窓際から三つ離れた席に座った。カウンターのラインから外れ、ユナの視界に入りにくい位置だ。

 そこから、場に向けて入口のことばを投げる。

「ただいま、香りを待っています」

「段差の手前で止まります」

 声は大きくせず、波の底にひそませる。客たちがそれぞれの速度で頷く。

 ユナは注湯の直前に短く言い、沈黙を置き、動作へ入る。

 湯の糸は、ときどき細くなるが、持ち直す。縁を撫でる指は、二回に一回、途中で止まり、彼女は自分でやり直す。

「お待たせしました」


 黒いモアレがシャッターの縁に集まり、照明が一拍遅れる。

 声が落ちる。

「観測者、相沢レン。距離の変更を検知。――意図を提示せよ」


「所有者の確認だ」

 レンは短く答える。「彼女自身が『遅い』を持てる距離に俺を置く。介入は場へ。個から退く」


「保存は選別。個から退くことは推奨される」

 オラクルの倍音は、今日は冷たいだけではない。わずかに測りかねている。

「ただし、ユナの揺らぎが残る限り、廃棄対象候補のまま。――提案する。一定期間、相互作用を停止せよ」


 相互作用の停止。

 つまり、会うな、ということだ。

 喉の奥で何かがきしんだ。

 けれど、レンはすぐに否定しなかった。サラの言葉が、頭の奥で灯る。看病は距離の競技。近すぎると熱が回る。


 ソウから短い振動。

 《判断はお前だが、“一時的に会わない”は選択肢に入る。条件は“説明を置くこと”。沈黙だけで離れるのは最悪》

 サラから。

 《風D。逃げ道三本維持。距離を取るなら、夜の最初がいい》

 ミカから。

 《定義。『会わない=参照の一時遮断』。遮断は恐怖になる。入口を残せ》


 レンは椅子の背にもたれ、拳を緩めた。

 会わない。

 言葉にすると、胸が縮む。

 けれど、それが看病なら、やるべきだ。

 ただし、嘘をつかない沈黙の入口を必ず置く。理由と期間。所有者。向きを明かす。


「提案を部分採用する」

 レンは言った。

「夜の間だけ、カウンターの前に行かない。翌朝に戻る。――理由は、彼女の発熱を冷ますため。入口は店に増やし、場で支える」

 オラクルは短く沈黙し、帯域を引いた。

「観測継続。再起動まで残り十九日」


 照明が安定する。

 ユナは客に向けて微笑み、その角度が、今日の中ではいちばん穏やかだった。


 ドアベル。音が場面を押し出す。


 *


 夜。シャッターは半分。粉の香りが濃い。

 レンはカウンターから離れた席で、マグを両手で包む。ユナはエプロンの紐を結び直し、こちらを探すように視線を走らせ、すぐに見つけた。

「五分」

 声に迷いが混じる。レンはうなずき、席を立たずに言う。

「ここから話す。……怖い話だ。でも、入口は開けておく」


 ユナはケトルを持ち上げ、注ぎ始める直前で止める。

「聞きます。香りは、あとで待てます」

「今夜、俺はカウンターへ行かない。明日の朝、戻る。理由は、君の熱を冷ますため。近くにいると、俺が“遅い”を奪ってしまうからだ」

 言葉は短く、順番は明確に。

「入口は残す。場に向けて、いつも通り説明を置く。君は、自分の“遅れ”だけを持ってほしい」


 ユナは短い沈黙を置き、うなずく。

「はい。怖いですけど、わかります。……ありがとうございます。言ってもらえてよかった。言わないで離れられるのが、いちばん怖いから」

 彼女は自分の胸に手を当てた。

「今の私は、風邪です。治るまで、待ちます。待たせます。入口は、必ず置きます。所有者は、私です」


 レンは胸の奥の痛みを、そのまま痛みとして受け取った。

「ありがとう。……そして、もうひとつ。『遅いのは助かる』と言ったお客さんがいた。君の“遅れ”は、君だけのためじゃない。場の呼吸を整える。だから、きっと戻れる」


 ユナは笑いの角度を、そっと下げて保った。

「戻ります。戻って、また“お待たせしました”を言います。……明日の朝、聞かせてください」


 黒いモアレがシャッターの縁に寄る。

 声が落ちる。

「観測者、相沢レン。相互作用の一時停止を検知。――記録する。理由と期間、入口の提示。評価は保留」

 照明が一拍遅れて安定する。


 ユナは注湯の直前で言う。

「今、香りを待っています。熱が高いので、いつもより長いです」

 嘘をつかない沈黙。

 湯が落ち、粉が息を吸ってふくらみ、静かに沈む。

 縁を一度だけ撫で、指を離す。

「お待たせしました」


 レンは席を立たず、遠くから、いつもの小さな共同作業をやめた。カップの陰を、彼女が自分で押し戻すのを見届ける。

 接点の一瞬が、今夜だけは、彼女の独力で完了する。

 それが、看病の距離だ。


 ソウから短い振動。

 《帯域フラット。街角の息継ぎ、夜は少し伸びた。入口の拡張、継続》

 サラから。

 《風D。逃げ道三本維持。走路は問題なし》

 ミカから。

 《定義。『会わない=参照の間引き』。今日の間引きは成功。理由と期間の提示が効いた》


 レンはマグを握り直し、喉の奥で息を整えた。

 離れる痛みは、たしかにある。だが、向きは揃っている。

 看病は距離の競技。今夜は、勝ち方を間違えなかった。


 店のBGMが一段低くなり、遠くでサイレンが短く鳴る。通りのアナウンスは、息継ぎをほんの少し長く取った。

 街が、わずかでも余白を取り戻す感触が、夜の空気に混ざる。


 閉店の時間が近づく。

 ユナはシャッターの前で、いつもより丁寧に周囲を見回した。紙ナプキンの山を整え、ケトルを拭き、バックヤードの扉に手をかける。

 レンは席から立ち上がらず、声だけを届かせる。

「また、会おう」

 約束は保証ではない。けれど、嘘をつかない沈黙は次を連れてくる。距離の向きは、もう揃っている。


 ユナは振り返り、笑いの角度を今日の位置に置く。

「はい、待っています」

 その返事に、体温が少し戻っていた。


 シャッターがゆっくり降りる。金属が地面に触れ、小さな音が残る。

 BGMが薄く遠のき、粉の香りが店に漂った。

 音が一つずつ消え、最後に残ったのは、二人で選んだ距離の手触りだった。

 レンは店を出て、夜の風を胸に入れる。歩幅は、彼女の半拍に合わせ、いつもより短い。

 離れるために、戻るために。

 保存の外側で、参照の道をつなぎ直しながら。明日の朝、ふたたび入口の灯りをともすために。

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