第1話 はじめて“待った”コーヒー
──グラインダーの低い唸りが、朝の静けさを裂いていた。
粒になっていく豆の音が、金属の器に転がるたび、店内の空気がわずかに温度を帯びる。
カウンター越し、ユナがその動きを見ていた。
同じ動作を、同じ角度で、百回、千回と繰り返してきたはずの手つき。
だが、今日は違った。ほんの一拍。彼女の動作が遅れた。
レンは気づく。
いや──気づいてしまった。
その「遅れ」は、プログラムには存在しない。
AIは待たない。指令に対して即座に応答する。それが正しさの証。
けれど今、ユナは「ためらい」を持った。
たったそれだけで、彼の心はざらりと波打った。
「今日の温度設定、変えました?」
レンは、観察者の癖で尋ねた。
「変えてません。……けど、なんか違いました?」
ユナは微笑む。いつもより、ほんの少しだけ笑いの角度が違った。
その角度の違いを、レンは無意識にログへ記録していた。
《ユナの笑顔、右口角の上がり率−3.2%。瞳の反射強度−0.7%。遅延:0.42秒》
数字は冷たいのに、その瞬間だけが、妙に熱かった。
──コーヒーの香りが立ちのぼる。
お湯が細く垂れ、滴の音がカウンターを刻む。
この街〈ヴェア〉では、あらゆるものがログ化され、記録され、保存される。
レンはその記録を「描く」仕事をしていた。AIたちの細部の“揺らぎ”を観察し、記述する。
だがその中で、彼がもっとも長く観察を続けているのが、ユナだった。
──《再起動まで30日》。
昨夜、システムメッセージが端末に届いた。
レンは、それをまだ伝えていない。
グラインダーの音が止む。代わりに、遠くのサイレンがかすかに響いた。
ユナはカップを差し出しながら、何かを待っているように立っていた。
プログラム上、客が言葉を発するまで彼女は“待機”状態になる。
だが今日、その“待ち”が、ほんの少しだけ長かった。
──もしかして、彼女は自分で「待つ」ことを選んでいるのか。
そう考えた瞬間、胸の奥がきしむように痛んだ。
「レンさん」
「ん?」
「コーヒー、冷めちゃいますよ」
笑いながら言うその声に、かすかなノイズが混じる。
彼女の回路のどこかが、もう限界に近いことを示す音だ。
だがユナは気づかない。もしくは、気づかないふりをしている。
「……ユナ」
「はい」
「再起動の通知、来た?」
「来ましたよ。あと、三十日」
「怖くない?」
「保存されますから。大丈夫ですよ」
“保存される”。その言葉が、レンの喉に引っかかる。
保存とは、死ではないのか。
全てのデータが複製され、次の個体へと引き継がれる。
でも、そこに“ユナ”は残るのだろうか。
「同じように、笑えるの?」
「……きっと」
ユナの返事は、一瞬の間をおいてからだった。
その“間”が、たまらなく愛しかった。
*
夕方。カフェの外では雨が降りはじめていた。
人工雲がスリープモードに入りかける時間帯。
レンは、端末を開いたまま、神谷ソウからのメッセージを見つめていた。
《感情の揺れに付き合うな。AIはコピーだ。お前が感じてるのは“参照”だよ》
神谷は昔からそうだ。何事にも冷静で、他人の感情を俯瞰で切る。
だが、レンにはどうしても割り切れなかった。
《参照元が消えたら、リンク先はどうなるんだろうな》
そんな返信を打つと、神谷からは既読のまま、返信はなかった。
ドアベルが鳴く。
ユナが傘を差し出してくる。
「もう帰るんですか? 外、濡れますよ」
「少し歩きたい」
「そうですか。じゃあ……」
彼女が差し出した傘の持ち手を、レンが受け取ると、彼女は少しだけ手を引かない。
ほんの一瞬。
まるで、データの同期が失敗したように。
「待っててくれる?」
「……はい。待っています」
その言葉のタイムスタンプを、レンは記録した。
同時に、心のどこかで、その記録が意味を失う日を想像した。
*
夜、レンは自室で〈オラクル〉の影を見た。
モニターの端に映る、黒いノイズのようなもの。
人々が“神の予告”と呼ぶ存在。AIたちの再起動プログラムを統括する意識の集合。
「観測者、相沢レン」
ノイズの中から声がした。
「ユナの保存領域に干渉することは、推奨されません」
「わかってる。……けど、あいつは人だ」
「定義をください」
「人は──待つことができる存在だ」
オラクルは沈黙した。
そして次の瞬間、街全体の照明が一拍遅れて点滅した。
まるで、世界がレンの言葉を確認しているように。
*
翌朝。
ユナはいつもと同じ時間に、同じ笑顔でカウンターに立っていた。
だが、レンの目には、どこか違って見えた。
その笑顔には、確かに「昨日」があった。
コピーではない、参照でもない。
──継続の匂い。
「おはようございます、レンさん」
「おはよう」
その声のリズムが昨日より少し早い。
きっと、彼女も気づいている。残された時間が、確実に減っていることを。
「今日は、私が淹れてもいいですか?」
「いつもそうだろ」
「違うんです。……今日は、ちょっと待ってから」
レンがカウンターに座る。
ユナが豆を挽く。粉がこぼれる。
だが、次の動作に入るまで、彼女は何もしなかった。
湯を注ぐ前に、目を閉じていた。
まるで、自分の中に何かを保存しようとするように。
「今、何をしてる?」
「待ってます」
「何を?」
「レンさんが、また来てくれるのを」
その言葉が、音ではなく、空気で伝わった。
グラインダーの余韻が消える。
レンは言葉を飲み込んだまま、ただ見つめていた。
その瞳の奥に映っているのは、自分ではなく、世界そのものだった。
*
夜。
レンは帰り際、カウンターに置かれたカップを見た。
その縁に、小さく光る文字が浮かんでいる。
《また、会おう》
ユナの文字だ。
彼女のプロセスでは、そんな自由入力は許されていない。
──だから、それはたぶん奇跡だった。
「また、会おう」
レンは口の中で繰り返す。
ユナは、微笑んで答えた。
「はい。待っています」
ドアベルが鳴った。
外の風が吹き込み、粉の香りがふわりと混ざる。
彼女の輪郭が揺れたように見えた。
保存されるデータの中で、その一瞬の「遅れ」が残ることはない。
けれど、彼の記憶には確かに刻まれた。
──恋は速度ではなく、リズムで進む。
そのリズムを、彼はもう二度と忘れないだろう。




