8. 北の結界石(3)
やがてたどり着いた結界石は、とても荘厳な佇まいで私たちを迎えた。
鬱蒼とした森の中にぽっかりと開けた空間の中央。そこだけ太陽の光が頭上から祝福のように降り注ぎ、大人の身長の三倍ほどもある巨大な結界石を照らしていた。
「すごい……」
その神々しい佇まいに、私は自然と呟いていた。
「これがルダニア王国の結界を支える結界石だよ。はるか古の神の時代の聖遺物だ。これほどの大きさの結界石は、もう二度と現れないだろうね」
ルーカスが目を細めて静かに結界石に触れる。
「聖女様、浄化をお願い出来るかな?」
翡翠の瞳がすいと私に向けられ、私はびくりと肩を震わせた。急いで結界石に近づき彼の隣に並ぶ。
遠目に見た結界石は黒色の磨かれた大理石なような印象だったけれど、間近に見るとそれが間違いだったのが分かる。水晶のような柱の中に、濁った黒色の靄が渦巻いているのだ。
「これ……」
「結界石は大地の自然の魔力を集めて結界を発動させる。だから、瘴気に覆われたこの台地では段々と結界石にも瘴気が蓄積されてしまうんだ。完全に瘴気に侵されれば、結界石は砕け散るだろうね。だから、浄化の出来る聖女が必要とされる」
君は知っているかもしれないけどね、とルーカスは肩をすくめる。
「浄化の間は結界石の周囲の結界が一時的に停止する。その間に魔獣に襲われて君を死なせる訳にはいかないから、俺たちが護衛する。聖女様は浄化に集中してね」
「はい……」
私はぎゅっと胸の前で両手を握りしめると、結界石に向き合った。そして、謁見の間で浄化を行った時のように体の中の魔力を両手に集め、結界石に流し込んだ。
(!すごい勢いで魔力が吸われていく……!)
巨大な結界石の浄化は、小さな石の浄化とは全く違った。体中の魔力が吸い取られてすぐに魔力が枯渇しそうな恐怖に襲われる。貧血のように、ふらりと視界が歪んで倒れそうになる。
「魔獣だ!」
その時、マイクの声が響いてきた。そちらに目を向ければ、巨大なイノシシのような形の黒い魔獣が赤い目を血走らせてこちらへ突進してくるのが見えた。マイクとヴァルトが抑えようとするも、勢いに押され剣を弾かれる。
「どいて!」
ローグの声が響き、魔獣に氷の矢が放たれた。その一本が魔獣の目を貫き、その歩みを止めさせる。一瞬弛緩した空気が流れるが、魔獣が最後の足掻きのように暴れ出した。
「避けろ!」
「グッ!」
暴れる魔獣の突進で、マイクが弾き飛ばされ木に叩きつけられる。マイクの腕から流れ出る血に、私は血の気が引いて頭が真っ白になってしまう。
(どうして⁈北の地の浄化では、誰も怪我なんてしていなかったのに)
手を震わせ動揺から浄化を中断させてしまった私に、鋭い声がかけられる。
「君のところまで魔獣は近づけさせないから浄化を続けるんだ!浄化が長引くほど魔獣が集まる!」
ルーカスの言葉に、私は絶望感に襲われた。
(私の、せいだ。きっと私の浄化が遅いから、マイク君が怪我をしてしまったんだ。『瑞希』だったら、こんなことにはならなかったのに……!)
私は泣きそうになりながら、体中の魔力を結界石に叩きつける。魔力枯渇の恐怖を、罪悪感が上回る。自分のせいで誰かを傷つけてしまうことが恐ろしかった。
(私はどうなってもいいから、早く!早く、浄化を終わらせて……!)
いるのかも分からない神にがむしゃらに祈りながら、光の魔力を流し続けた。冷汗が流れ、身体が震える。立っているのも辛くなった頃、カッと結界石が強い光を放った。
「!」
眩しさにつぶった目を開けると、そこには先ほどとは見違えるほどに美しい輝きを湛える結界石が目に入って来た。
「終わっ、た……」
ほっとした私は立っていられずにその場に座り込む。浄化の終わった結界石は、まるで水晶のように透き通った美しさで煌めいていた。周りに神聖な空気が満たされ、結界が張り直されたのが感覚で分かる。
「お疲れ様、聖女様。大丈夫?」
手を差し出そうとするルーカスに、私は必死の形相で頼み込む。
「私なんかはいいので、早く、マイク君を!」
私の懇願に、ルーカスは一瞬目を見開いた気がした。しかしすぐにそれはいつもの飄々とした笑顔に隠れる。
「じゃあ、先にマイクを治療しちゃおうか」
マイクの側に膝をついたルーカスは、すばやく傷の様子を診ると小さく呪文を唱え、傷を癒した。とても簡単な事のように行われたが、治癒魔術は非常に高度な魔法であり、ここまで素早く行えるのはきっと世界中を探しても彼だけだろう。
「おお、すげー!サンキューな、先生」
痛みのなくなった腕をブンブンと振って、マイクが元気にルーカスに礼を言う。
「どういたしまして。でもマイク、君は風魔法が使えるんだからああいう時は魔法を使って衝撃を殺さないと」
「魔術は難しいからとっさに出すのは難しいんだよ。剣の方が早いしー」
「まったく、何のために教えてると思ってるの」
頭が痛そうにするルーカスに、魔獣に止めをさしたヴァルトとローグも合流する。
「……これほどの治癒魔術は王宮魔術師でも出来ないだろう。攻撃魔法もできるようだが、どこでそれほどの魔術を習得した?」
じっとルーカスを疑うように見るヴァルトに、ルーカスはへらりと笑った。
「王都で名高い騎士団長様に褒めてもらえるなんて光栄だなー。攻撃魔法は苦手だけど、治癒だけは得意なんだよね」
「……ふん」
おどけるようなルーカスの言葉に、ヴァルトは鼻をならして話は終わったとばかりに離れていく。