6. 北の結界石(1)
召喚から二日後、私たちは急かされるように北の結界石の浄化に旅立つ事になった。
瘴気は南から侵食が広がっているのだから、普通に考えれば反対側の北の結界石は最後に回すべきだろう。しかし王侯貴族たちの住む王都に近い北の結界石が当然のようにはじめの目的地と設定されていた。そして、ルーカスたちが守る辺境伯領のある南の結界石は最後だというのが王からの勅命だ。瘴気で苦しむ辺境伯領を救うには、できるだけ早く全ての結界石を回るほかない。
この二日間、私は与えられた部屋から出る事なく過ごしていた。
怖かったのだ。罵られるのも、軽蔑の視線を向けられるのも。
突然放り込まれた異世界で、そんな心の準備、全くできていなかった。
(家にいた時は、いつもの事だったのに……)
グッと歯を食いしばり、私は支給された旅装で部屋を出た。
北の結界石へ向かう馬車の中は、空気が重く感じるような静寂で満たされていた。
『見てみて!これだけあればおやつ足りるか?』
『マイク、そんなお菓子で荷物を多くしてどうする』
『いいじゃん!聖女様にもあげるかんな!』
『わあ!ありがとうございます!』
ゲーム内での『瑞希』とみんなの楽しげな会話を思い出して、私は顔を上げることもできずに膝を抱えて俯いていた。こみ上げそうになる涙を、必死で止める。
(私のせいで、嫌な空気にさせてしまっている……)
ヴァルトもローグも、険しい表情で外の景色を見ていた。きっと本当は私を問い詰めたいのだろうけれど、結界石の浄化を優先して口を噤んでいるのかもしれない。リヒトとマイクはこちらを気にするそぶりを見せていたが、年長者たちの様子に口を噤んでいた。ルーカスの表情は、怖くてとても見ることなど出来なかった。
馬の嘶きと揺れとともに、息苦しい馬車の移動は終わりを告げた。
降り立った場所は、緑深い鬱蒼とした森の手前。そこはちょうど結界の境界なのだ。立ってみると分かる。ここから先は、人が住める場所ではないという事が。
森の奥からは、何かの唸り声も聞こえてくる。恐ろしい気配に逃げ出したくなる体を、私は必死で押しとどめた。
「ここからは魔獣の気配に怯えて馬が言う事を聞かなくなるため、徒歩での移動になります」
リヒトの合図とともに、一行は森の中へと分け入っていく。
森の木々は何百年の樹齢だろうかというほどに幹が太く、はるか樹上に葉が生い茂っている。そのため太陽の光は遮られ、森の中は薄暗かった。
しばらく歩いた頃だろうか。先頭を歩いていたルーカスが皆を止める。
「三匹ほど来たみたいだね」
気軽につぶやかれた声に、皆が即座に戦闘態勢に入った。グルグルという獣の唸り声が間近に聞こえる。私は初めて野生の獣から感じる恐怖に動くことができなかった。
目の前に、血のように赤い目を持った大きな獣が現れる。その獣は黒い瘴気を纏い、大きな牙のある口元から涎を垂れ流していた。
「ヒっ」
か細い悲鳴を上げることしかできない私の腕を、ルーカスの大きな手が引き寄せた。
「こっちへ」
「きゃっ」
「ボーッと突っ立ってんじゃねぇ」
ローグからの冷たい言葉に動けなくなっている私の横を、ヴァルトとリヒト、そしてマイクが剣を手に駆け抜け魔獣に向かう。ルーカスとローグはその場で杖を取り出し、詠唱とともに攻撃魔術を放った。
「グアァ!!」
火の魔術に貫かれよろけた三匹の魔獣を、ヴァルトとリヒト、マイクが剣で止めをさす。噴き出す血しぶきが、私の視界を赤く染めた。
獣の匂いに、こみ上げる吐き気。私は、この時やっと現実を突き付けられた気がした。彼らがいままで、何と戦ってきたのか。ゲ―ムで知った気になっていたけれど、魔獣と戦う事が、どれだけ恐ろしいことなのかをまざまざと思い知らされた。
「聖女様、大丈夫ですか?」
座り込んでしまった私に、リヒトが手を貸してくれる。私は助けてもらったお礼も言えていない事に気づいて口を開くが、それはルーカスの温度のない声に遮られた。
「あ、ありが……」
「聖女様のいた世界は、平和だったんだね」
責められているような言葉に、私は口をつぐんで顔を俯けることしかできなかった。
命の危機など感じたことのない、瘴気の苦労と無縁に暮らしていた女が、皆を救う手立てを知りながら隠し、戦闘の足手まといになっている上、守られている。それは、みんなにとってどれだけの苛立ちだろう。
途中リヒトが休憩を入れようかと聞いてくれたけれど、私は言葉少なに断った。少しでも早く浄化を終わらせれば、その分早く辺境伯領の南の結界石まで辿り着く。私には今、それしかできなかったから。