51. 夢みたいな日(1)
再び目が覚めた時、真っ先に私を優しく見つめる翡翠の瞳が視界に入って、私はまだ夢の中にいるのだろうかと思ってしまった。ぼんやりと目を瞬かせた私の頬に、大きな手が優しく触れる。
「おはよう、ミズキ。良かった、熱は下がったみたいだね」
ルーカスのどこまでも優しい声と手の感触に、私はハッと意識を戻す。そして、あの後毒の影響で熱が残っていたせいか泣きつかれてルーカスの腕の中で眠ってしまった事を思い出して顔が熱くなる。
だって、夢みたいだったのだ。ルーカスが、生きると言ってくれたことが嬉しくて。ホッとして、涙が止まらなくなってしまって……。女性の扱いに慣れているはずのルーカスが、何故かとても慌てたように一生懸命に私をなだめようとしてくれたのも、本当に、夢みたいで。何より信じられないのがーー私を、好きだと言ってくれたこと。なんで、私なんかを好きになってくれたのか分からない。それなのに、そんな私に彼は誓約魔法を使ってまでその想いが本当だと示してくれた。
「ルーカスさん…」
「うん、なあに?」
これ以上ないほど、愛おしげな声。優しいルーカスの表情が、あれが夢でないのだと教えてくれた。特に用事もないのに呼びかけてしまって慌ててフルフルと頭を振ると、彼はとても嬉しそうに相好を崩した。
「はは、嬉しいな。ミズキが俺の名前を呼んでくれるだけで、なんでこんなに嬉しいんだろう」
ゲームのスチルでも、こんなに幸せそうな笑顔を浮かべるルーカスを見たことはなかった。心から、本当に嬉しそうに笑うルーカスの表情は、きらきらと光を纏っているかのようできゅっと胸が締め付けられた。
「ミズキ、お腹は空いてない?さっき侍女の子がスープを持ってくると言っていたよ。食べられそう?」
「は、はい」
こくりと頷いた私を、ルーカスが優しく抱き起してくれる。その時、忘れていた脇腹の痛みに小さく眉を寄せてしまった。商人のベルンさんを助けた時に魔獣に激突された時の怪我だけれど、ずっとじくじくした痛みが続いていたのだ。気づかれないようにすぐに表情を取り繕ったのに、ルーカスは見逃したりしなかった。
「どこが痛いの?」
真剣な表情で聞いて来るルーカスに、私は慌てて首を振る。
「あの、少し痣が残っているだけですから、大丈夫…」
「見せて」
「で、も…」
大きな青あざの残る脇腹を見せる事をためらっている私に、真剣な表情のルーカスが迫る。
「ミズキ、お願いだ。俺の知らないところで一人ミズキが痛みに傷つくなんて、耐えられないんだ」
縋るようなルーカスの瞳に否と言う事が出来ず、私はおずおずと上着をまくった。
「っ!」
私の脇腹の痣を見て、ルーカスは怒りに耐えるように歯を食いしばった。
「ご、ごめんなさい。見苦しいですよね……」
「違うよ。気づかなかった自分の無能さに怒りがわいていたんだよ」
そう言って、ルーカスはガラス細工に触れるようにそっと私の脇腹に触れると治癒魔術を唱える。一般的に、治癒魔術は日数が立った傷ほど治すのは難しい。3日も経ってしまった怪我など、まずそこらの治癒術師は無理だと初めから匙を投げるだろう。それなのに、ルーカスは何日も前の痣を綺麗に治してしまった。
「すごい……。ありがとうございます、ルーカスさん」
私が笑顔でお礼を言えば、ルーカスはそんな私の肩をつかみ切羽詰まった表情で口を開いた。
「他には⁈他に我慢している痛みや怪我はない?病気の発作は⁈ 」
ルーカスの剣幕に、私は慌てて首を振った。
「も、もう怪我はないです。発作も今は大丈夫ですから」
私の言葉に嘘はないと分かったのか、ルーカスは長く詰めていた息を吐きだした。そして、壊れものを扱うように優しく抱きしめられた。
「今まで、君の痛みに気づいてあげられなくてごめん」
「そんな、ルーカスさんのせいじゃないです。私が勝手に黙っていただけで……」
「君が言い出せない状況にしていたのは俺だよ。でもミズキ、俺はもう、絶対に君を手放せないんだ。ミズキは俺に生きてほしいと言ってくれた。俺も、何よりミズキが大事なんだよ。だから、俺の為に、ミズキには何より自分を大切にしてほしい。お願いだから、もう怪我や痛みを隠さないで。これからは俺が、絶対にミズキに苦しい思いはさせないから」
「ルーカスさん……」
いままで、そんな事言われたことはなかった。私なんかのせいで人を困らせたくなくて、痛みや苦しみはいつも隠すものだったから。
私を抱き締めるルーカスの腕がかすかに震えている。まるで、本当に私を失うことを恐れているように。
(っ……ううん、ほんと、なんだ。だって、ルーカスさんは誓約魔法で、私に嘘は言えなくなっているのだから)
そのことに気づいたとき、私は胸が詰まっていっぱいになってしまった。戸惑いと、信じられないような幸せな気持ちが溢れて恐る恐る目の前の人の服をきゅっと握る。そしてそっと、彼の胸に額を押し当てた。
今まで、こんな風に誰かに寄りかかるようなこと、したことがなかった。私にはそんな資格、ないと思っていたから。それなのにルーカスは、縋る私の全てを受け入れるように抱きしめる腕に力を込めてくれる。
くらくらするような幸福感に、なぜだかほろほろと涙が零れてくる。
「ごめん、なさい。私、泣いてばかりで……」
ごしごしと目を擦る私の手を止めて、ルーカスが優しく私の涙をぬぐう。
「いいんだよ、我慢なんてしないで。何度だって、俺が涙をぬぐうから。恋人の特権でしょう?」
「こい、びと……」
ルーカスの言葉に、私は頬が熱くなる。きっと真っ赤な顔をしていたのだろう。ルーカスが愛おしげに私の頬に触れて砂糖菓子のように甘く笑った。
「可愛い……」
思わず漏れ出たような言葉に、さらに顔が熱くなってくらくらとしてきた。とても愛しいもののように見つめられそんな事を言われれば、耐性のない私にはひとたまりもなかった。知恵熱のように目の前がぐるぐるしそうになっていると、ノックとともに扉が開いた。入って来たのは、お盆を持ったアンナだった。
「アンナさん!」
「聖女様、お目覚めになって良かったです」
嬉しそうに声を上げた私に、アンナはほっとしたような声音で答える。しかし、私の目元の涙に気づくと一気にその雰囲気を険しくさせた。
「……まさか、また聖女様を泣かせたんですか、屑男」
今にも射殺しそうな眼光のアンナに、私は驚く。
「ア、アンナさん……?」
「聖女様、こんな屑男止めた方がいいですよ。何度も聖女様を泣かせるなんてっ!」
「アンナ嬢、今回は誤解だから」
「今回は、ですか。聖女様に侍女たちの噂話で回っているあなたの女性遍歴をお話してもいいんですよ」
「もう二度とそんな噂が流れることはないよ」
「どうだか」
「あ、あの……」
何故か笑顔と無表情で一触即発の雰囲気を醸し出している二人に恐る恐る声をかけると、ハッとしたようにルーカスは私に振り返り、すぐに優しい笑顔を浮かべて甲斐甲斐しく食事の用意をしてくれる。
「はい、ミズキ」
「え……」
笑顔で差し出されたスープを掬ったスプーンに、私は真っ赤になって固まってしまう。
「あの、自分で食べられます……」
「まだ腕の痛みが残っているんじゃない?ミズキが嫌でなければ、俺に手伝わせて?」
心から心配そうな表情に、私は拒絶することなんてできなくておずおずと口を開く。誰かに食べさせてもらったことなど、物心ついてから初めてのことだった。最近はあまり料理の味を感じなくなっていたのに、今食べたスープはなんだかとても優しい味がした。
「……おいしい……」
ふわりと笑ってそう言えば、ルーカスもアンナもとてもほっとしたように笑ってくれた。
「良かった!もっと食べられる?他にもほしい物があったら何でも言って。すぐに用意するから」
「スープのお代わりもありますよ」
私が食べる事をとても喜んでくれる二人に、胸の奥まで温かくなるようだった。スープを食べ終わった頃には、今度はリヒトとマイクとローグ、そしてヴァルトもお見舞いに来てくれた。
ずっと一人でいた私の部屋が、今はとても賑やかで。なんだかまだ、夢を見ているみたいだった。
(しあわせ、だな……)
ふわりと浮かんだ言葉を噛みしめるように、私はみんなに心からの笑顔を浮かべたのだった。




