50. 閑話(リヒトside)
――その光景に、リヒトは言葉もなく目を見開いた。
その日リヒトは、逸る心を抑えて出来るだけの速さで離宮に帰ってきていた。この世界の為に結界石の浄化を行ってくれている聖女様が、自分を庇ったせいで重症のケガを負ったのだ。リヒトは激しい後悔の念を覚えた。
そもそも彼女は、この世界に何の責任もない。それなのに恐ろしい魔獣のいる森への旅に、なんの文句もなく付いて来てくれていた。それだけでも僕たちは深い感謝をしなければいけないのに、彼女が歪みの消滅方法を隠匿しているという一点のみで、ずいぶんと酷い態度をとってしまっていた。なにより、いつも僕やマイクを教え導いてくれているルーカスの言葉には、いつも彼女を責める響きがあった。それなのに彼女は、笑顔を絶やさず俺たちに協力してくれていた。野営の時は、美味しい食事まで作ってくれた。僕たちが美味しいと言った時の彼女の本当にうれしそうな笑顔には、恐らく僕だけでなく皆が驚いただろう。本当に、幸せそうな笑顔だったから。
花祭りの時にルーカス先生にお菓子を用意してくださっていたことも、とても嬉しかったのだ。ルーカス先生は、たまに俺やハーリアの為にわざと泥を被ることがある。何でもない事のように、飄々と。女好きのような態度をとっていながらも、そんなことないのも何となく気づいていた。誤解されることにも、何も思っていないような言動。何にも執着する事なく、いつか、たったひとりで遠くに行ってしまいそうな気がして怖かった。
そんなルーカス先生を、酷い態度を知っているのにも関わらず、優しい人だと言ってくれた聖女様。俺はその時、なぜか彼女ならルーカス先生を変えてくれるような気がしたのだ。
それなのにその後、彼女は明らかに憔悴した様子で、ルーカス先生の事も避けているようだった。心配だったけれども、余計な口を突っ込むのも良くない気がしてハラハラとしているうちに、彼女は浄化の直後に倒れてしまった。その酷く衰弱した様子を見て、本当に後悔した。こんなに華奢な女の子に、僕たちはとても重い役目を背負わせてしまっていることに改めて気づいたのだ。
さらに悪いことは続く。恐らく反獣人派の仕業なのだろう、半獣人の子供を使った暗殺者に襲われた僕を庇って、聖女様が重症のケガを負ってしまった。怪我の治療だけなら先生の治癒魔術だけでなんとかなるが、毒の治療はそうもいかない。様々な薬草のストックのある離宮で治療するために彼女を抱え上げ転移魔術で消えるルーカス先生を、僕は見送ることしかできなかった。あの時の先生の険しい顔を見て、僕たちは心配で夜も馬をかけさせて出来るだけ早く離宮に帰ってきた。ローグもマイクもヴァルトも、皆言葉には出さずとも聖女様を心配していた。ルーカス先生なら治療に関しては心配ないと思いつつも、最近の先生の様子から病み上がりの聖女様に厳しいことなど言っていないだろうかと……。
――まさか開いた扉の先で、眠る聖女様を愛おしそうに見つめ手を握るルーカス先生を見ることになるなんて思いもしなかった。
何よりも大切なのだと、片時も目を離したくないのだという思いを隠しもしない眼差しで、聖女様を見つめるルーカス先生。こんな表情を浮かべる先生を、僕は見たことがなかった。
俺たちのバタバタした足音で聖女様が目を覚まさないようにだろう、一瞬で静音魔法をかけたルーカス先生は、すっと人差し指を口元に当てて聖女様をみる。その優しい表情は、まるでやっと宿り木を見つけた渡り鳥のようだった。
(ああ、よかった……)
なぜだか僕は、とてもほっとした。きっともう、ルーカス先生は一人で消える事はない、そんな風に思えたのだ。
(ありがとうございます、聖女様)
廊下に出る直前、振り返った室内では、相変わらずルーカス先生が宝物のように聖女様の手を握っていた。二人の姿がとても暖かくて、僕は早く元気になった聖女様に感謝を伝えたいと思ったのだった。




