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48. 後悔



「……は……?」


記憶から現実に戻った俺は頭を殴られたような衝撃を受け、ふらりと背後の壁に肩をぶつけた。


一体、あれはなんだ?

……知らない。俺は、あんな感情は知らない。


人は、すぐに自分の目の前から消えてなくなるものだ。そんな淡雪のような存在に、心を揺り動かされた事などなかった。なのに……なんだ、この胸の痛みは?

まるで全てを捧げるような……それはまぎれもない、愛だった。本人は自分勝手な想いだと言いながら、全く見返りを求めない、どこまでも純粋で、眩しいほどの、どうしようもなく一途な、愛だった。俺が、心から欲したもの。欲して、得ることは無いだろうととっくの昔に諦めていたもの。


「なんで……」


俺は今ほど、彼女の頭の中の記憶を消してしまいたいと思ったことはなかった。彼女を傷つけた俺の記憶全てを消して、初めからやり直したい。彼女にただ、優しく微笑んであげられたなら、彼女はこの奇跡みたいな愛を、初めから俺に差し出してくれたんだろうか。

……でも、俺にはもうそんな事出来ないのは分かっていた。俺が記憶を弄れば、彼女の想いまで歪んで別物になってしまうかもしれない。そう考えるだけで、恐ろしさに手が震えた。そんな事、出来る訳がなかった。


「は、は……」


顔を覆う手が濡れていると手を離して、やっと俺は自分が泣いている事に気がついた。泣いたのなんて、いったい何百年振りだろうか。


「俺は、まだ泣けたんだな……」


あまりにも久しぶりの涙は、俺の感情をぐちゃぐちゃに乱し、もう自分が嬉しくて泣いているのか、後悔で泣いているのか分からなかった。ただ一つ確かな事は、この目の前の弱くて小さな命は、俺の命をかけても守らなければならないものだったという事だ。


(全部、知ってたんだ。俺が世界中から忌み嫌われる存在だと知っていて、それでも、彼女は――)


「ん……」


寝台から上がった声に、ビクリと肩が跳ねる。彼女の瞼がふるりと震えて、その下から優しい琥珀色の瞳がゆっくりと現れた。


ああ、彼女の瞳はこんなにも綺麗だったのか。

どうして俺は、今までこんなに綺麗なものから目を背けていたんだろう。


ただただ、魅了されたように彼女の瞳を見つめて立ち尽くしていた俺に、熱でぼんやりと目を瞬かせていた彼女は何故か嬉しそうに笑った。


「ふふ、嬉しい……。ルーカスさんがこんな風に目を合わせてくれるなんて、素敵な夢……。ルーカスさんの瞳は、まるで春の新緑みたいに、優しい色をしているんですね……」


ふわふわと、本当に幸せそうに笑う君に、胸が詰まった。グッと歯を食いしばった俺に、彼女はハッとした顔をする。


「あ、ご、ごめんなさい、気にさわること、言ってしまいましたか?……え……?ルーカスさん、泣いてるの……?」


心配そうに、手を伸ばす君。まるで自分が傷ついたみたいに、痛そうにそっと、俺の頬に触れて涙を拭おうとしてくれる。

……自分の方がずっと、痛いくせに。今までずっと、俺に傷つけられてきたくせに。


「どこか、痛いんですか……?私に何か、出来る事はありますか……?」


なのに一心に、君はこんな俺の心配をする。伸ばされた小さな手が、泣きたくなるほど、愛おしかった。


「俺は大丈夫だよ、……ミズキ」


彼女に心配をかけないように微笑んで、大切な名前を口にのせる。すると俺の言葉に、彼女は目を見開いた。その瞳から、ぽろぽろと涙が溢れてくる。

俺はひどく焦って、壊れ物を扱うように彼女の頬を優しく拭った。彼女が泣いている姿を見るだけで、胸が締め付けられるような心地がした。


「ど、どうしたの?まだ腕が痛い?」


彼女はふるふると首を振ると、目に涙を浮かべながらも、朝露の花が綻ぶような笑顔を浮かべる。


「ルーカスさんが、初めて私の名前を呼んでくれたから。……覚えていて、くれたんですね……。嬉しい……。それに、久しぶりに、あなたの笑顔が見れました」

「!」


こんな事で、泣けるのか……。こんな小さな事で、こんなにも、喜んでくれるのか……。

どうして俺は、こんな簡単な事が出来なかったんだろう。どうしてもっと早くにこの子の名前を呼んであげなかったのだろう。どうして、笑いかけてあげなかったんだろう。


「ふふ、こんな幸せな夢なら、もう、覚めたくないなぁ。このまま私が死ねたら、今度はきっとちゃんとした聖女がやってきてくれますもん。その方が、みんな安心できますよね。私なんか、せめて聖女の仕事だけでも頑張ろうと思ったのに、結局、ルーカスさんの迷惑にしかなれませんでした。このまま死んだ方が、きっとルーカスさんも、喜んでくれますよね」


先程と同じように、ほわほわとした笑顔で紡がれた言葉に、全身の血が凍りついた。彼女の死という想像に、世界が崩壊するような恐ろしさを感じる。なにより、死を望むほどに彼女を追い詰めたのが自分だという事に、自分をブチ殺してやりたい衝動を覚える。


「ルーカスさん……、また、涙が……。ごめんなさい。私、ルーカスさんに喜んで欲しいのに、いつも、上手くいきませんね……」


俺の様子に気づいたのだろう。ペショリと笑顔を萎ませて悲しげに俯く彼女を、俺は堪らずに抱きしめた。


「ルーカスさん……?」


戸惑う声が聞こえる。抱きしめた体はあまりにも華奢で、この小さな体にどれだけの痛みを受けてきたのかと思うと胸が張り裂けそうだった。


「ミズキ、頼むから、死のうとなんて考えないでくれ!ごめん、本当に、ごめん。何度でも謝るよ。一生をかけて償う。もう、二度と君を傷つけない。誓約したっていい。だから、頼む……!頼むから、死ぬなんて、言わないでくれ……!」


声が震える。千歳超えの大魔術師が人間に縋り付いているなんて、なんて滑稽な構図だろう。それでも、俺はそうせずにはいられなかった。彼女を失う事に比べたら、何を犠牲にしたって構わない。彼女を失いたくないと、心が泣き叫んでいた。


(やっと、見つけたんだ。やっと見つけた、俺だけの、世界にたったひとつの宝物……)


「……私が生きれば、ルーカスさんは笑ってくれるのですか?」

「うん……。そうだね、君が元気になって、また俺に笑ってくれたなら……俺は、今度こそ、幸せになれるのかもしれない」

「……ふふ、そんな事でいいんですか?それなら私、いくらだって笑えます。ルーカスさんが幸せになってくれるのなら、私はなんだって出来るから」

「っ……ありがとう、ミズキ」

「ふふ、夢の中のルーカスさんは、泣き虫なんですね」


おかしそうに笑う君の笑顔を見るだけで、涙が出そうになる。君が俺のそばで笑ってくれている。それは、どれだけの奇跡なのだろう。


「夢なんかじゃないよ」

「……そうだったら、嬉しいなぁ……」

「ミズキ、眠い?まだ体も辛いよね。ゆっくり休んで」

「せっかく、ルーカスさんとこんなにお話できたのに。夢が覚めるのが、もったいなくて……。目覚めたくないなぁ……」

「ずっと側にいるよ。明日も明後日も、いっぱい話そう。だから安心しておやすみ」


そっと頭を撫でると、君はとても嬉しそうに笑みを綻ばせる。


「……わたし、ルーカスさんに、伝えたい事があるんです」

「なぁに?」

「……だいすきです、ルーカスさん」

「っ!!」

「ふふ、迷惑なの分かってます。現実では、伝えられないから……。一度でいいから、一生に一度の恋をした貴方に、伝えたかったんです。ごめんなさい……」


喉が、体が震えた。グッと唇を噛まなければ、何かが溢れ出しそうだった。多幸感で眩暈がしそうなほど、胸がいっぱいで、叫び出しそうだ。ごめんなさいと呟いた後、意識を失うように眠りについた君の目尻から流れた涙を優しくすくう。そこに、そっと口づけた。忠誠を誓う、騎士のように。


「……俺も、君が好きだよ」



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