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47. 記憶(2)


彼女の記憶に入って真っ先に目に飛び込んできたのは、焼けるようなオレンジ色の空だった。


夕日の沈むその空の下、公園で遊ぶ子供を母親が手を振って迎えに来る。子供は笑顔で母親に抱きついて、仲良く手を繋ぎながら家に帰っていった。


――その親子を、まだ幼い少女がポツンとひとり寂しそうに見つめていた。



少女はいつもトボトボと一人家に帰り、たった一人の食卓で冷たい食事を寂しそうに食べる。母親からの『お前なんて産まなければ良かった』との言葉に、幼い少女の心はずたずたに傷ついていた。ひとり家の隅っこで膝を抱える幼い少女に無意識に手を伸ばしてしまったけれど、記憶の彼女に触れることは当然できなかった。


やがて少女が七歳の時、新しい母と妹ができた。

……少女を利用しつくす、最悪な部類の人間だった。

どこまでも人のいい彼女は気づいていなかったけれど、あの妹は学び舎で彼女の悪評を流し、わざと孤立させていたようだ。彼女を見下す醜悪な表情を見れば、他人を蹴落とし利用しつくすことに何の罪悪感も抱かない人種と一緒だった。義母は彼女に家事を全て押し付けておきながら、周りには不出来な継子を寛容に受け入れる料理上手な継母を演じていた。


ただただ、家族になりたいと願っている少女を物のように扱うこいつらに反吐が出た。


彼女は――聖女様はもっと、大切に育てられてきた人間だと思っていた。穏やかに笑って、自分のことより誰かの事を当然のように優先できるのは、周りに愛されて育ったからだと思っていた。……だって自分は、そんな風には生きられなかったから。




真っ白で静かな病室にひとり横たわる聖女様。その諦めきった瞳には、覚えがある。誰も自分を愛する者なんていないのだと、諦めきったかつての自分の瞳と同じだ。

そんな彼女に、白い服の女性が小さな黒い箱型の魔道具を渡していた。そこに映し出される自分の姿に、目を見開く。

画面の中のルーカスを見つめる聖女様の瞳に、段々と光が宿る。女性に、ルーカスが推しなのだと伝えた聖女様の笑顔は、まるで春の花が綻ぶようだった。


『……彼が幸せになってくれる場面を見れたら、こんなに幸せなことありません。きっと、『瑞希』と幸せになって、心から笑ってくれますよね』


家族への怒りも憎しみもなく、ただ俺の幸せを願って笑顔で逝った聖女様。そうして彼女は、この世界に召喚された。





この世界に召喚されて、俺を目にした聖女様の胸には、喜びが溢れていた。俺の死の運命を回避しようと決意した彼女は、例え俺たちに疎まれることになると分かっていても、その決意を翻すことはなかった。


(ずっと願っていたの。ルーカスに、笑顔でいてほしいって。死なないでほしいって。その願いを、叶えられるかもしれないんだ。そのためなら、私は何だって差し出せる)


(嫌われたっていい。軽蔑されたっていい。あなたが、生きていてくれるなら――私にとって、それ以上に幸せな事なんてない)


(私は『瑞希』みたいには出来ないかもしれないけど……。でも、ルーカスさんを死なせずに歪みを消滅させる方法を探そう。ルーカスさんが笑顔でいられるように、私にできる事は何でもしよう。どうせ死んだ命だもの。だったら、残りの命すべてをルーカスさんの為に使おう)






俺とリヒトが笑っていられるように。ただそれだけの為に、ウィスタリア侯爵のパーティーに出て東の貴族たちと対峙した聖女様。

醜悪な悪意にさらされ、どれだけの恐怖を感じただろう。そんな中で、彼女は俺の名を呼んだ。……その俺に傷つけられても、彼女は泣きながら俺の笑顔を守れたと笑った。







『お願いだから、彼らを、傷つけないでください……!』


街で石を投げられ、頭から血を流す聖女様。見知らぬ世界で、悪意にさらされる恐怖を彼女は知っている。それでも震える体で、半獣人の子供を守るために必死で立っていた。






「……ご飯は、楽しく食べてほしいですから」


食堂の賑やかな声を背に、ひとり寂しげに食事をとる背中。誰かと一緒にご飯を食べたいという小さな小さな願いを持っていたかつての少女は、今日も一人静かな自室で食事をしていた。そして毎日毎日、彼女は寝る間を惜しんでこの世界を、俺を救うための方法を探していた。






(このリボン、ルーカスさんの瞳の色と同じ……。綺麗だな……)


俺の隣の女を目にして寂しげな瞳を伏せた聖女様。


(馬鹿だなあ。そもそもお洒落をしたところで、聖女じゃなければ私なんて、あの綺麗な女性と比べたらきっと視界にも入れてもらえないのに)







(想うだけなら、いいのだろうか……?

私、ルーカスさんを好きになっても、いい……?

あと少しの短い命の期限の中で、あなたに恋をしても、いいの……?)

(もしもそれが許されるのならば……なんて、幸せなことだろう)


「……私は、ルーカスさんが好き……」


まるで宝物のように口にされた言の葉。とても嬉しそうに、とても、幸せそうに。







俺の為に一生懸命にチョコレートを作っている聖女様。


(想いを伝えたりはしないから。だからせめて、受け取ってくれると、嬉しいな……)


普通の女の子のように、頬を染める君。いや、彼女は確かに、普通の女の子だった。本当は寂しがり屋で泣き虫な、誰より優しい女の子。そんな子が、誰も味方のいないこの世界でたった一人重たい役目を押し付けられてきた。それなのに彼女は、いつだって笑っていた。


(受け取ってくれた……!)


ぱあっと、花が綻ぶように笑った君。

彼女の心は、喜びで溢れていた。なぜ彼女の事を傷つけ続けているこんな男にお菓子を渡せただけで、こんなに、喜ぶ……?







離宮の裏でポツンと立ち尽くす聖女様。その手には、ゴミの中から取り出したお菓子の包みが握られていた。


(……受け取ってくれただけで嬉しい事じゃない。目の前で捨てられなかったんだもの)


立ち尽くす彼女の背中は、今にも消えてしまいそうなほどに小さかった。


(みんな、命懸けで戦っているのに。こんな感情、本当に不謹慎だ。……嫌われるのも、当たり前だった)

(こんな感情、はやく、捨てなくちゃ……)







「ははは、嫌がらないんだ。やっぱり聖女様は誰でもいいんだね」


俺のキスに、涙を流した聖女様。


(ああ、そうか。これは、ただ、私を傷つけるためのキスだ)


(……私は、こんなに、嫌われてたんだ)


自分の部屋でボロボロと泣き崩れる。


彼女は、いつも一人で声を殺して泣いていた。今まで俺たちの前で泣かなかったのは、俺たちに迷惑かけない様に、必死に耐えていただけだった。







彼女は、ずっと俺が死なずに歪みを消滅させる方法を探し続けていた。

成果の出ない現状に、段々と焦りで追い詰められていく聖女様。

そんな時、涙を拭った彼女はいつもフラフラと窓辺へ向かう。そしていつもの窓のすぐ下に座り込んで、膝を抱き抱えた。


「マイク、もっと魔力を調整して」

「こうか?」

「そうそう、上手くなってる」

「マイク、頑張って!」


魔術の訓練はいつもこの窓の近くの中庭で行われている。賑やかな俺たちの声を聞いて、彼女は目を閉じて笑みを浮かべた。


(ルーカスさんの声が聞こえる。ルーカスさん、笑ってる。……嬉しいなぁ)


俺たちに見つからないようにだろう。こそっと少しだけ窓から顔を出した聖女様は、俺がマイクたちに笑っている横顔を見て本当に幸せそうに笑う。


(少しでもみんなの笑顔を守れるように、もっと頑張ろう。ルーカスさんがずっと、笑っていられるように)






――彼女は、全てを知っていた。


俺の正体も、俺の罪も。それなのに彼女は、いつだって俺の幸せを願っていた。


(この味付け、ルーカスさんは好きかな?)


俺を思って作ってくれる美味しい食事。ずっと縁なんてなかった、俺のために作ってくれた食事。

料理を作る君は、とても優しい顔をしていた。


俺にとっての食事は、ただ人らしさを見せるカモフラージュでしかなかった。どれだけ空腹で死にそうになったところで、魔力で補完すれば死ぬことはない。遥か昔に弟が食べていたような誰かのために作られた食事なんて、俺には縁のない物だった。

それなのに、……知らないうちに俺は、与えられていたのか?ずっと、ずっと欲しくてたまらなかったものを……。




――ああ、彼女の心からの願いが伝わってくる。

どこまでもどこまでも、あたたかな想い。


あなたが、傷つきませんように。

あなたが、自分を責めることがありませんように。

あなたが、生きていて良かったと思ってくれますように。

あなたが、心から笑ってくれますように。

あなたが、いつまでも笑顔でいてくれますように。


『――どうか、ルーカスさんが幸せになってくれますように』





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