42. 魔術書(2)
何とか助かったことにほっと息をついた途端、脇腹に激しい痛みが走る。
「嬢ちゃん、大丈夫かい?!」
焦った表情の老人が心配そうにこちらに寄ってくる。その腕は、魔獣に嚙みつけられたのか赤く染まっている。私は震える手でカバンからポーションの瓶を一つ取り出した。
「私は大丈夫です。それよりおじいさん、腕の怪我に、これを」
「何を言っとるんだ。こりゃあ高級なポーションじゃないか。嬢ちゃんが使うべきじゃ」
「私はもう一本持っているので平気です。そのままでは血が流れ過ぎてしまいますよ。さあ、早く使ってください」
「……すまねえ、ありがとうよ、嬢ちゃん」
受け取った老人はポーションを傷口にかける。すると、段々と傷が小さくなっていき血が止まった。しかし、まだ痛々しい傷跡は残っている。これでは、動くたびに痛みは残るだろう。
「……完全には、治りませんね……」
「何を言っとる。こんなに良く治るなんて、結構な高級品じゃよ。本当にありがとう。これで旅が続けられる」
本当に感謝してくれているのが分かるけれど、私はゲームの場面を知っているため、素直に感謝を受け取ることなど出来なかった。ゲームでは、みんなでこの老人を助けた後でルーカスが彼の腕を治療する。本当なら、彼の治癒魔術で老人は傷跡さえも残ることはなかったのだ。
(それを邪魔したのは、私……)
暗い表情をする私に、老人は名前を告げた。
「儂はベルンという。旅の商人じゃ。嬢ちゃん、助けてくれたこと、本当にありがとうなあ」
「私は、瑞希と言います」
「ミズキ嬢ちゃんか。お礼をしたいのじゃが、いまは大したものは持っておらんのじゃ。どこかの古代遺跡から発掘された壺とか、読めない古文書とかなんじゃが、こんなものがお礼になるかのう……」
ベルンの言葉に、私の心臓が跳ねる。
「古文書を、見せてもらってもいいですか……?」
「おお、いいぞい。ほら、これじゃ。古物商から買い取ったものなんじゃが、なんせ誰も読めずに何の本かも分からず売れ残っておってのう」
差し出された古びた本を、私は震える手で受け取った。
重厚感のある布張りの表紙に、見覚えのある魔法陣のような模様が描かれている。
(間違いない。これが、空間転移が記述されている古代の魔術書だ)
私は震える腕に本を抱きかかえ、ベルンを仰ぎ見た。
「ベルンさん、この本を譲っていただけませんか?!」
「お、おう。こんなもんで良ければもちろんいいぞ。嬢ちゃんは命の恩人じゃからな」
「ありがとうございます!」
腕の中の魔術書を、私はぎゅっと抱き締める。
(これを処分してしまえば、ルーカスさんが犠牲になる事はない)
私は喜びのままに立ち上がり、ベルンに頭を下げた。
「私、もう町に戻らなきゃ。ベルンさん、本当にありがとうございました!」
「こちらこそありがとう。気をつけてな。ちゃんと自分の分のポーションも飲むんじゃぞ」
「はい」
そう言って私はベルンと別れて街へ戻る道を急ぐ。
もう一本ポーションが残っているなんて、もちろん嘘だ。ポーションはとんでもない高級品で、それを買うために私の自由にできるお金はほとんどが底をついた。もう一本買う余裕など当然なかった。チョコレートの材料費は、その残りのお金でなんとか賄ったのだ。
「うん、大丈夫。このくらいの痛みなら、気づかれずにいられる」
それに、どうせ長くない自分に高価なポーションを使うのはもったいなかった。私の体は、南の浄化を終えて歪みの消滅方法が見つかるまでもってくれればいい。
街が近くなってきたところで、私は道からそれて人目に付きにくい森の中に入っていった。そして、目立たない木の根元の土を掘って穴をあける。
「いたっ」
土の中の石で指先に切られたような傷がついてジクジクと痛みを訴える。それでも、私は構わずに穴を掘り進めた。
やがて手が真っ黒になった頃、私は魔術書をそっとその穴の中に入れた。
本当は、この本を燃やしてしまおうとも考えた。
でも、もしも、これが歪みを消滅させる唯一の方法だったとしたら……?そんな考えが浮かんでしまったら、恐ろしさにとても火をつけることなどできなかった。
その代わりに、私は魔術書を埋める事にしたのだ。かじかむ手で魔術書に土をかぶせていく。表紙が土で見えなくなると、私は詰めていた息を吐きだした。
「ごめんなさい……」
魔術書を埋めた場所に両手をおいて、私は懺悔するようにつぶやいた。
しかしその時、背後からがさりと誰かの足音が聞こえてきた。びくりと肩を上げて振り返ろうとした私の目の前で、土に埋めたはずの魔術書がふわりと浮き上がり、後方へと飛んでいく。
「えっ?!」
驚き振り返った先にいた人物を見て、――私は絶望で目の前が真っ黒になった。
視線の先には、金糸の髪を靡かせたルーカスが手元に引き寄せた魔導書を手に立っていたのだ。
「ルーカス、さん……どうして……」
私は震える声で問いかける。
「聖女様がこそこそ宿を抜け出すのを見かけてね。何をするのかなーって、ほら、護衛として?気になって付いて来てたんだよね」
作ったような、いつもの笑顔。しかしその笑みも、本の頁をめくるごとにどんどんと剥がれ落ちていく。
「へえ、転移術に関する、古の時代の上級魔術書……。まだこんなものが残っているなんてね」
頁へ落としていた翡翠の瞳が、ゆっくりと持ち上がり座り込んだ私を見下ろす。
「ねえ、君は、何をしようとしていたの?」
感情が剥がれ落ちたような声。周りの温度が、一気に下がったような心地になる。
「もしかしてこれに、歪みを消滅させる方法が書かれていたりして?」
私の瞳に怯えが走ったのを、ルーカスは見逃さなかった。
「へえ、まさか聖女様、歪みの消滅方法を隠匿するだけじゃなくて、その方法をこの世から消そうとしてたんだ」
ルーカスが口元を吊り上げ嗤う。
呆然と彼を見上げる私に、氷のような声が突き刺さる。
「最低だね、聖女様」
翡翠の瞳に憎悪の感情が宿るのを、私は絶望と共に見つめる事しか出来なかった。




