38. 心ないキス
花祭り最終日の翌日。私は徹夜で読み切った本を抱えて王立図書館にやってきていた。いつもの寝不足で少し頭痛はあったけれど、心は穏やかだ。アンナとヴァルトのお陰で、自分のやるべきことをちゃんと認識することができたから。
王立図書館で読み終わった資料を返却し、新たな資料を手にとる。歪みの特性、過去の研究資料、魔術的解析……。過去の研究資料のほとんどにはすでに目を通している。多くの者が歪みを消滅させようと試みてきたが、その拡大を止めることすらできなかった。歪みの研究資料は、多くの国の滅亡の歴史でもある。この歴史を実際に目にしてきたルーカスは、どんな思いで過ごしてきたのだろう。
(……この想いは、ちゃんと捨てよう。せめて私は、聖女としてやるべきことをしっかりとこなそう。そして、諦めずに歪みの消滅方法を見つけてみせる。ルーカスさんの守るこの世界を守れたら、それでいい)
閉館時間ギリギリまで、持ち出し禁止の資料にできるだけ目を通す。特に、今回は転移魔術についての資料を探していた。ルーカスが自らを犠牲にして歪みを消滅させたのは空間転移魔法だ。術者自身を転移させる転移魔術と違い、空間ごと転移させるこれは現在は失われている古の時代の魔法であり、言い伝えのような記述しか残されてはいないようだった。
(やっぱり、ここにもその資料はない……)
予想はしていたことだったけれど、私は肩を落としながら魔術関連の本を借りられるだけ抱えて貸出手続きを済ませた。
夕焼けのオレンジ色に染められた街を歩きながら、二日後に迫った東の結界石の浄化の旅へ思いを巡らせる。今回の旅の中で、私にはどうしてもやらなければならない事があるのだ。
ぎゅっと本を抱える手に力を込めていた時、離宮の前に見つけた人物の横顔にとくりと心臓が跳ねて足を止めた。
木陰のベンチに座り手元の本の頁へ視線をおとすルーカス。夕日に照らされる金糸の髪は鮮やかな紅に染まり、秀麗な横顔を覆っていた。その姿は、この世のものとは思えないほど綺麗で。……あんまりにも綺麗で、眩しくて……。――ああ、やっぱり私なんかは隣にいる資格はないのだと、すとんと納得することができた。
その時、翡翠の瞳がちらりと動いて前方にいた私をとらえる。私はそっと息を吸って、静かな笑みを浮かべた。
もう、自分の馬鹿な想いに振り回されて彼に迷惑をかけることは止めなければ。
「こんにちは、ルーカスさん」
ちゃんと笑顔を浮かべられたことにほっとする。これもアンナとヴァルトのお陰だ。
このところ避けるような態度をとってしまっていたけれど、きっとルーカスはいつもみたいに何事もなかったかのように挨拶を返してくれるだろうと思っていた。なぜならルーカスにとって興味のない人間の言動など心に留める事すらないという事を知っていたから。
それなのに――。
「へえ、聖女様、もう俺を避けるのはやめたんだ?」
「っ!」
立ち上がったルーカスに、腕を引かれる。気付いた時には、私はルーカスに木を背に追い詰められていた。覆い被さるように至近距離から見下ろす険しい翡翠の瞳に、私は息をのむ。
「ねえ、どうして最近俺を避けていたの?」
「そ、れは……」
苛立つような声音に目を見開く。いつも飄々とした笑みを浮かべるその顔は、声と同じく苛立ちを纏っている。
(どうして……)
「昨日のお祭りで君とヴァルトを見たよ。いつの間にか随分と仲良くなってるみたいじゃない。やっぱり半獣人より人間の方がいいと思ったのかな?」
呆然とルーカスを見上げる私に、彼は皮肉げに口元を緩める。
「俺にも気があるような素振りを見せておいて、聖女様も悪い女だなあ」
捕らえられた手首をつかむルーカスの手に、力がこもる。なぜこれほどルーカスが怒っているのか、まったく理由が分からなくて私は頭の中が混乱していた。何が起こっているのか、分からない。
「でも、俺的にはそんな悪女も大歓迎だよ。どう、聖女様、俺とも遊んでみる?」
ルーカスの大きな手が、するりと私の顎を捕らえた。呆然としたまま上を向かされた私の顔に、覆いかぶさるようにルーカスの顔が近づいた。
「っ!」
唇に感じる柔らかな感触に、私は目を見開く。
どうして?なんで?訳が分からず頭の中が真っ白な私の唇を割って、ルーカスの舌がまさぐる様に口内を暴れた。
「んんっ!」
苦しさに小さな呻き声が漏れた時、口づけは始まりと同じく唐突に終わりを迎える。私を映す翡翠の瞳に、軽蔑の色が宿っている。
「ははは、嫌がらないんだ。やっぱり聖女様は誰でもいいんだね」
……嗤うルーカスの言葉に、やっと私はこれだけは理解した。
(ああ、そうか。これは、ただ、私を傷つけるためのキスだ)
ぼろり、と涙が溢れた。止めようとしても、壊れたように後から後から涙が溢れて止まらない。
(……私は、こんなに、嫌われてたんだ)
これ以上疎まれたくなくて涙を止めようとしても、どうしても止めることができなかった。
(早く、泣き止まなくちゃ。早く、いつものように、笑わなくちゃ。これ以上、嫌われたくない)
ルーカスは私の涙を見て、虚を突かれたように翡翠の瞳を見開いた。
緩んだ腕から逃れた私は、彼の表情など見る余裕もなく離宮に駆け戻る。
バタンと扉を閉めた自室で、膝から崩れ落ちるように座り込む。ボタボタと流れる涙が頬を濡らすけれど、拭う余裕なんてどこにもなかった。
「ふ、うぅ、う――」
ああ、どうしてこんなに悲しいんだろう。彼が私を嫌っていることなんて、分かっていたのに。初めてのキスが好きな人だったのだから、どうせなら喜べばいい。彼にとっては、こんなキス何の意味もないのだから。
……それなのに、壊れたように流れる涙を止める術が見つからない。
心を伴わないキスがこんなに辛いことを、私はこの日初めて知ったのだった。




