29. 西の結界石(4)
夢うつつの中で、誰かが私の前髪をそっと払った。
うっすらと目を開けた私の視界に、月の光を紡いだような金糸の髪と美しい翡翠の瞳が映し出される。静かな月夜に照らされるその瞳は、いつもの笑顔の仮面が剥がれてしまったかのように静けさを湛えていた。
「まだ眠っていていいよ。夜の森を動くのは危険だから、明日の朝崖上に行く道を探して合流しようと伝達魔法で向こうにも伝えておいたから」
「……は、い……」
いつの間にか夜になってしまっていたらしい。ルーカスに迷惑をかけてしまったことが申し訳なかったけれど、瞼は再び重くなって意識はかすみがかる。
(ああ、もったいないな……。大好きな翡翠の瞳を、もうちょっと、見てたかった……)
完全に目を閉じてしまった私の額に、大きな手がそっと添えられたような感触がした。
「ねえ、……もしも、俺が世界中から恐れられる怪物だったとしたら、君はどうする?」
私の返事なんて期待していないのだろう。つぶやくような静かなルーカスの問いかけに、私は夢うつつの中でふにゃりと笑みを浮かべた。そんなの、決まっていたから。
「……生きて、ほしいです……」
伝わってほしい。貴方を大切に思っている人は、ちゃんといるんだという事を。リヒトもマイクも、貴方を心から慕ってる。旅を続けるうちに、ローグもヴァルトとも、心からの信頼関係を結ぶようになる。そんなみんなに囲まれて、あなたに心から笑ってほしいの。そのためなら、なんでもするから。世界中が敵になったって、貴方の側にいられるなら何も怖くなんてない。
「だって、あなたが何者であったって――だいすきだから……」
そのまますうっと眠りに落ちた私は、「…………調子狂うなぁ」と前髪をくしゃりとかき上げるルーカスの表情を見ることはできなかった。
***
崖から落ちた翌朝、私は気を失って迷惑をかけてしまった事をルーカスに何度も謝った。結局今回も迷惑をかけてしまったことが、情けなくて仕方がなかった。夜中に夢うつつの中で何かを話したような気もするけれど、ルーカスは何事もなかったかのようにいつもの飄々とした笑みを浮かべているため変な事は言っていないだろうとほっと息を吐く。
「じゃ、崖上へ登れる道を探そうか」
「は、はい」
慌てて立ち上がろうとした私の視界が、くるりと空を向いた。
「ひゃっ」
気が付けば私は、ルーカスの腕の中に抱き上げられていた。
「えっ?! あ、あの、自分で歩けますから、下ろして……」
「君さ、魔力枯渇で倒れたくせに何を言ってるの?その前からも隠してたみたいだけど顔色悪いんだから無理しない方がいい」
「っ!」
抱き上げられているために感じるルーカスの体温。間近に見える宝石みたいな翡翠の瞳。私を軽々と持ち上げる逞しい腕の中で、私の頭の中はこれ以上ないほど混乱していた。分かってる。これは森を移動するためのルーカスの合理的な判断だ。ふらふらとした私が歩くよりもこちらの方が早くリヒト達と合流できると考えたに違いない。
でも、ルーカスが私の事を少しでも気にかけてくれていたことが嬉しくて。彼に触れられている体温を感じるだけで、心臓が馬鹿みたいにドキドキして。
リヒト達と合流するまで、私は真っ赤であろう顔を俯け縮こまることしかできなかった。
――あまり、優しくしないでほしかった。必死に抑え込んでいるこの気持ちが、表に出てしまいそうになるから。




