13. 追憶(2)
入院して半年、段々と怠くなってくる体をベッドに横たわらせて、私は死んだように風に揺れるカーテンごしの空を眺めていた。
(いっそ、この窓から身を投げたら、お父さんもお母さんも喜んでくれるのかな……)
そんな事ばかり考えていた私に、話しかけてくれる人がいた。新人の看護師の杏さんだ。
「瑞希ちゃん、調子はどう?」
はじめは、仕事以外でこんな私に話しかけてくれることにとても驚いた。きっと、この半年誰もお見舞いに訪れない私を不憫に思ってくれたんだろう。杏さんはとても優しい人だった。よく休み時間にゲームをしては遅刻して看護師長に怒られちゃうのよ、っとあっけからんと笑う明るい人。
ある日、楽しそうな笑顔でそのゲームを手渡された。
「瑞希ちゃん、これ貸してあげる」
「?……これは……?」
「私一押しの乙女ゲームよ!」
明るく笑って、杏さんは有名なゲーム機とソフトを私に見せてくれる。
「あんまり周りにゲームしてる人居ないから、一緒に推しトークをしてくれる人を大募集中なのよ!瑞希ちゃんがやってくれたら、めちゃくちゃ嬉しい!私の推しは騎士団長でね〜」
楽しそうにおしゃべりをする杏さんに、私はことりと首を傾げた。
「推し……って、なんですか?」
今まで家事の為に毎日放課後には真っ直ぐ家に帰っていた私は、ゲームをした事もなければそれを話す友達もいなかった。小学校の頃はおしゃべりする子もいたのだけれど、妹が転入してきてからは何故か皆に遠巻きにされるようになってしまった。
(私、何かしちゃったのかな……)
『お姉ちゃんかわいそー。きっとどこに行っても友達なんかできないんだから、しょうがないから私が一緒に行ってあげる。私と同じ学校受けなさいよ』
クスクス笑いながらそう言った妹にお父さんもお母さんも優しい子ね、と妹を褒めて、私の進路は中学も高校も妹のレベルに合ったところに決められた。
高校でも、なぜか周りに遠巻きにされて誰も友達はできなかった。はじめは普通に話してくれていた子たちも、ある日突然私を避けるようになったのだ。料理上手で可愛いと人気者の妹がいつもたくさんの友達に囲まれているのを見ながら、私は学校の隅で息をひそめるように過ごしていた。ひそひそと私を見て話しているクラスメイトの顔に軽蔑の色が宿っているのを、気づかないように顔を俯けていることしかできなかった。
「……瑞希ちゃん?」
杏さんの声に、私はハッと昔の記憶から意識を戻す。
「ご、ごめんなさい。ボーッとしちゃって」
「体調が悪くなったとかでないならいいのよ!えーと、そう!推しについてだったわね。推しっていうのはね〜ズバリ、生きる糧ね!」
「生きる糧……?」
「そう!大切な人とか、幸せになってほしい人の事をいうのよ!その人のことを考えると、今日も頑張ろうって思えるの!」
「そうなんですね……」
良く分からないながらも、杏さんの輝く笑顔を見ているときっとそれは素晴らしいものなんだろうなと思えた。
「こら、またサボってるわね!日誌の記入が残ってるでしょ!」
「げ、看護師長!ごめん瑞希ちゃん、仕事に戻るわ~」
パタパタかけて行った杏さんと師長の声が遠ざかって行くのを聞きながら、私は手元に残ったゲーム機をぼんやりと眺めていた。
杏さんに時々教えてもらいながらたどたどしく始めた『世界を繋ぐ光』という乙女ゲーム。私と同じ名前なのに、私とは正反対にキラキラした『瑞希』と旅の仲間たちの物語。こんな風になりたいと思った、私の理想の女の子と素敵な仲間たちの物語に、私は引き込まれていった。
その中で、私はルーカスの言葉に救われたのだ。
『誰が何と言おうと、自分の命を守って生きてきた君は自分を誇っていい』
男の子に伝えられたルーカスの言葉。その言葉は、なぜかするりと私の心に入り込んだ。私に向けられたものじゃないと分かってる。それでも、その言葉と笑顔はまるで雨上がりの陽ざしのように、私の世界に色を付けた。
『頑張ったな』
まるで、今までの私の思いをすくい上げてくれたように感じた。
その優しい笑顔に、目頭が熱くなった。
『君が笑って生きられる道を探しなさい。最後に笑って逝けたなら、それで君の勝ちだ』
物語を進めていくうちに、あなたの苦しみを知った。
それでも、誰かを助け続けるあなたの優しさを知った。
悲しみを笑顔で隠しながらも、仲間たちと歩むあなたの姿が眩しかった。
そんな貴方の言葉に、もうほとんど動くことのなかった表情が動かされた。
私もあなたが言うように、笑顔でいたいと思えたの。最後くらい、あなたに誇れるような自分になりたいと思えたの。
死んだように生きていた私は、初めて自分から動こうと思った。久しぶりに動かす体は体力も落ちてすぐに息切れを起こしてしまったけれど、ゆっくりと歩いて屋上に出てみた。屋上から仰ぐ空は何も遮るものなくただただ広く青空が広がっていて、なんだか自分も生まれ変われたような気になれた。
美しい夕日が沈むまで空を眺めていた私は、病室への帰り道に小さな図書室を発見する。入院している病院には小児病床もあり、長期入院の子供たち用の図書室なども設置されていたのだ。そこで一人寂しげに絵本をぼーっと眺めている女の子に、私は小さく声をかけていた。それが、はじまり。
私は、その日から図書室で読み聞かせを始めた。子供たちに怖がられないように、鏡の前で毎日笑顔の練習をした。子供たちが楽しめるようにと、一生懸命絵本を選んで読む練習もした。やがて一人二人と聞きに来てくれる子供たちが増えてきた。
『おもしろかった!今日もありがとう!また聞かせてね!』
『瑞希お姉ちゃん、次はこれ読んで!約束よ!』
笑顔でそう言ってくれた子供たちの言葉に、私は涙が流れた。私でも、誰かを笑顔にできたのが嬉しかったの。胸が苦しくなるくらい、嬉しくて嬉しくて、その日は自分の病室に戻って泣いた。初めて、生まれてきて良かったと思えたの。
あなたにありがとうと、伝えたかった。あなたの言葉に、どれだけ救われたことだろう。
『推しっていうのはね〜ズバリ、生きる糧ね!大切な人とか、幸せになってほしい人の事をいうのよ!』
杏さんの言葉を思い出す。
大切な人、私を救ってくれた人。そして、誰より幸せになってほしい人。
(そうだ、ルーカスが、私の推しなんだ…)
杏さんに推しができたのだと話したら、とても喜んで話を聞いてくれた。そして明るくなった私に嬉しそうに笑ってくれた。
初めて、友達と話すみたいにゲームの話に盛り上がれたことが、とてもとても、嬉しかった。
それからは、ルーカスが死んでしまうルートをみてショックで体調を崩すこともあったり、ルーカスの過去の話に泣いたりしたけれど、最後に解放されるルーカスのルートではルーカスが幸せになってくれると信じてゲームを進めながら、子供たちとも触れ合い、――私は最後まで笑顔で生きれたと思う。
(召喚される直前の事は覚えていないけど、たぶん、私はあっちの世界で死んだんだ……)
最後に感じた強い胸の痛みだけは覚えている。最後まで家族がお見舞いに来てくれることはなかったけれど、私はもう悲しみに沈む事はなかった。心はとても穏やかだった。
(悔いがあるとすれば、ルーカスのルートを最後まで見ることができなかったこと……)
それだけが心残りだった。ルーカスのルートは、私が召喚される数日前に、やっとアップデートされたのだ。体力さえあれば徹夜で攻略しただろうが、その時の私はもうベッドから起き上がる事さえ難しくなっていたから。
貴方の言葉に救われて。
貴方の悲しみに涙して。
貴方の生きる姿に憧れて。
貴方の笑顔に胸を突かれて。
貴方に、誰よりも幸せになってほしいと願った。
今までは、どこかゲームのキャラとしての彼らと現実の彼らを同じと考える事に罪悪感があった。この世界で現実に生きている彼らを勝手にゲームのキャラに当てはめて知った気でいるのは、とても失礼な事のように思えたから。
でも、今ルーカスの言葉を聞いて視界が開けたような気がした。ゲームのルーカスと、現実の彼。別に無理に分けて考えなくてもよかったのだ。彼は……この世界で生きている目の前の彼は、やっぱり子供を見捨てる事ができなくて、人を慈しむ事が出来る、とても優しい人だったから。
これから、現実の彼のことももっと知っていけばいい。不安なんてなかった。だって、あなたが素敵な人だという事は、もう分かっているのだから。
(どうして私が『瑞希』の代わりに召喚されたのかは分からない。でも、これはもしかしたら神様がくれたチャンスなのかもしれない。私の心を救ってくれた、大切な推しに恩返しするための)
萎れかけていた心が、水を得たかのように上を向く。見上げた空には、雲一つない青空が広がっている。私を救ってくれた大切な推しの背景に広がっていたのと同じ、同じ世界で見る青空。
(ああ、悲しむ事なんて何もないんだ。だって、絶対に出会う事なんて出来るはずがなかった大切な人に会えた。話せた。それは、奇跡みたいに幸せな事だもの)
(ずっと願っていたの。ルーカスに、笑顔でいてほしいって。死なないでほしいって。その願いを、叶えられるかもしれないんだ。そのためなら、私は何だって差し出せる)
(嫌われたっていい。軽蔑されたっていい。あなたが、生きていてくれるなら――私にとって、それ以上に幸せな事なんてない)
私は戻って来た離宮の自分の部屋で、鏡の前に立つ。そして、病室で行っていたように鏡に向かって久しぶりに笑顔の練習をした。
(私は『瑞希』みたいには出来ないかもしれないけど……。でも、ルーカスさんを死なせずに歪みを消滅させる方法を探そう。ルーカスさんが笑顔でいられるように、私にできる事は何でもしよう。どうせ死んだ命だもの。だったら、残りの命すべてをルーカスさんの為に使おう)
俯いていても、何も事態は好転しない。その事を、私は彼のおかげで知る事ができたのだ。
鏡の中の私は、決意と共にグッと両手を握りしめたのだった。