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7話:追跡

 ファルムの森の奥深く、苔むした岩の上で、リリィは左腹部を両手で抑えながら、呻いていた。背中から伝わる岩の冷たさも、左腹部から広がる焼けるような痛みの前には意味をなしていなかった。


「ぐ……うぅ……はぁはぁ……」


 吐き出した息は、血の匂いが混じり、鉄の味がした。頭の中では、セレスとの一瞬の交戦が何度も反芻される。最初の一撃を受け止めた瞬間、直ぐに転移で離脱しようとした。でも”できなかった”。

 相手に触れられた瞬間、感じたのは恐怖だった。いつも当たり前にある魔力の流れが体の奥底から凍りついたように止まってしまった。

 そして、その後直ぐに左腹部を蹴られた。いや、実のところ、蹴りを受けたのか拳を受けたのかさえ定かではなかった。ただ、吹っ飛ばされたのだと状況を理解するだけで精一杯だった。



(この傷……多分骨にまで届いてる……治癒術者の手を借りない限りは、しばらくまともな戦闘はできないよね。)


 そう考える一方で、強い警戒心がその心を支配した。

 王立治療院。エレクシアの治療術者たちが集まる場所。

 しかし、負傷箇所から自分が「王宮に侵入した賊」だと露呈するリスクが高い。軽率に近づけば捕らえられるのは目に見えていた。


(顔を見られたわけじゃない。それにこの傷だって……息はできてる。命に関わる怪我じゃない……!

 大丈夫。うん、今は冷静に……まずは、宿に戻って情報を整理しないと……)



 その時、微かな物音に気づいた。リリィは息を潜めて、耳を澄ます。

 土を踏む、湿った音。枯れ葉が擦れる音。風が木の葉を揺らす音……森のあらゆる音に紛れて、少しずつこちらに近づいてくる。耳の奥で、その足音がこだまする。


(シルフかな。。ううん、違う!これは……!)


 それは、シルフのように軽やかな足音でも獣のように重たい足音でもなかった。獲物を狙う狩人のように、ゆっくりと、しかし確実に忍び寄る静かな足音だった。


 自分の心臓の音が、まるで警鐘のように五月蠅い。


(転移先の場所までバレてるっていうの!?)


 上体を起こし、戦闘態勢を整えようとする。しかし、その体は意思に反して、動くことを拒んでいた。


(もう一度、能力を使って転移するしかない!)


 急いで魔力を練り上げる。腹部の痛みが思考をぐちゃぐちゃに掻き乱し、集中力を削ぐ。それでもここで諦めるわけにはいかなかった。奥歯を噛み締め、かすれた声で言い聞かせる。


「……負けない!」





 カイは、苔むした岩の上に、一本の短剣を見つけた。


(これは……まさか忘れ物、というわけではないんだろうな。能力の対象は石に限らないのか……!!)


 岩の周囲を見渡す。そこには彼の一人分の足跡しかなかった。岩に手をそっと触れる。


(まだ温かい……少し遅かったか。)


 もう一度周囲を見渡した後、ため息をつく。辺りはすっかり暗くなっており、前に突き出した自身の左腕に浮かぶ紋章さえ見えない。夜の暗闇は、これ以上の追跡が困難であることを告げていた。



 カイは王宮へと踵を返した。その足取りは獲物を取り逃がした猛獣のようだった。


(この剣自体は特別変わったものではない。だが能力の媒体になるなら危険だな……)


 歩きながら、目線の近くまで持ち上げた短剣を見つめる。


(となると、これもまとめて処分しておくべきか……)


 侵入者が消えた地点に落ちていた石を取り出す。

 両手をそれぞれ前に突き出す。そのまま、ぎゅっと両手を握りしめた。短剣と石が悲鳴のような音をたてて収縮する。そして……

 グシャ……




 ドクンッ

 リリィは宿屋のベッドで体を小さく丸めていた。

 能力の使用から時間が経ってもなお、心臓の鼓動が落ち着くことはなかった。


(そっか。この場所までバレてたら、私死んじゃうんだ。)


 頭の中に、かつてヴァルカン将軍に拾われたときの言葉が浮かぶ。『君の力を、生きてこの世界に証明してみなさい……!』





 カイは手のひらを開く。

 短剣と石は、跡形もなく崩れ去っていた。風に吹かれて舞う残骸を見ながら宣言する。

「この国に仇なす者は決して逃さない……!」



 その日、追う者と追われる者は、一睡もしないまま夜を明かした。





 次の日、ファルムの森の入口にカイは立っていた。陽の光は、うっそうと茂る木々の枝葉に阻まれ、地面に届くのはまばらな木漏れ日だけだった。その細く長い光の筋が、足元の枯れ葉や苔むした切り株をわずかに照らし出す。


 冷たい風に吹かれながら、まだ湿り気の残った大地の感触を靴底で感じる。数時間かけて地面をつぶさに観察した後、彼は土を勢いに任せて蹴り上げた。


(やっぱり、ダメか……!)


 大きく息を吸い、天を仰ぐ。豊穣祭の日に降り続いた雨は、彼の希望を打ち砕くには十分だった。森へと続く獣道は、まるで何事もなかったかのようにその痕跡を完全に失っていた。地面をどれだけ見つめても、微かに残る足跡すら見つけられない。彼は両手を固く握りしめ森を後にした。


 森での捜索を諦めた翌日、カイはファルムの森に隣接する小さな町、イシュマールへと足を運んだ。朝日が照らす石畳の道はすでに多くの人々で賑わい、店先から聞こえる威勢のいい声が一日のはじまりを告げていた。


 彼は、そこで聞き込みを始めた。しかし、どの店でも『特に変わったことはなかった。』という返答ばかりが続いた。日が傾き、人々の表情にも疲労の色が浮かび始める頃、彼は、香ばしいお肉の匂いに惹き寄せられて、一つの酒場にたどり着いた。


「いらっしゃい!」


 酒場の店主は、凛とした立ち姿に驚きながらも、どこか嬉しそうに声をかけた。


「すまない、少し腹が減ってましてね。急ぎで……何か食べさせてもらえないでしょうか。」


 カイは軽く頭を下げた。


「おや、カイ様がこのような場所へいらっしゃるなんて珍しい……。こちらへどうぞ。直ぐに料理をお持ちします。」


 店主は、来訪客の顔をみとめるやいなや恭しく頭を下げた。恰幅のいいお腹に人の良さを滲ませている。


 カイは笑みを浮かべて頷き、カウンターに腰を下ろした。店主が差し出した肉料理とパンを一口食んだ。


「あぁ……うまい……!」


 長時間の捜索で疲弊した体に、温かい食事が染み渡った。


「……ところで、一つ伺いたいことがあります。」


 あっという間に食事を終えたカイは少しの沈黙の後、口を開いた。その声は、カウンターの向かいの店主の心臓の鼓動を大きく揺らした。


「な、何か至らぬ点がございましたか……?」


 店主は顔を強張らせる。


「いえ。料理はとても美味しかったです。先日、この辺りで何か変わったことはなかったでしょうか?人でも、物でも、何でも構いません。」


 カイは、穏やかな表情を張り付けて問いかけた。


 店主は、その真摯な態度に少し戸惑いながらも、すぐに思い出したように話し始めた。


「変わったことですか?特に何も……。あっ、でも、そういえば!」


 カイが身を乗り出す。


「つい先日、ルナちゃんが見慣れない子と、楽しそうに森から出てきたのを見ましたよ!……って、そんな話が聞きたいわけじゃないですよね……。」


 店主は、顔を綻ばせた後、一度口を噤んだ。


「……その話、もう少し詳しく伺えますか?」


 琥珀色の瞳に、鋭い光が宿る。


「はい……。珍しいことだったもので、ちょっと身元を案じてしまって……。思わず探してしまったんですが、右手の甲にちゃんとありましたよ。稲妻の紋章が。」


 店主は声を潜めて囁くと、恥ずかしそうに続ける。


「まぁ私のようにお尻にある場合もあるでしょうから、それだけで判断するつもりもありませんでしたが……。恐らく、最近王都に越してきたんでしょうね。」


「なるほど。背丈や体格は覚えていますか?」

 カイが一層身を乗り出す。


 確かに血走った目に、店主は半歩後退りしながら答えた。


「え、えぇと……背丈はルナちゃんと同じくらいで……あ、平均的な12〜13歳くらいの背丈で、体格は少し痩せ気味だったと思います。」


(大きなローブで体格はよく分からなかったが、背はセレスよりも低かった。)



 カイは、昨夜その目で見た侵入者の姿を反芻する。


(ファルムの森から、子供が二人。そのうちの一人は見慣れない少女……)


 脳裏に、いくつものピースが結びつき、一つの線へと繋がり始めた。


「貴重な情報を、ありがとうございます!

 ……ん?もう一つ質問させてください。その、”ルナちゃんは楽しそう”……だったんですよね?」


 カイはこめかみに手を当てながら言った。


「はい!それはもう。あの子はいつも一人でいることが多くて……。だからお友達といるところが見れて私もなんだか嬉しい気持ちになりましたよ。」


 店主は、窓の外、ファルムの森の方角を見ながら答えた。その口元には笑顔を湛えていた。


「そうですか……ご協力感謝します。本件は他言無用でお願いします。もし破ることがあればリディア様への反逆行為と見なします。」


 この国を守るという決意を滲ませた目でカイは店主をまっすぐに見つめた。


「勿論、承知しております。」


 店主は、ゴクリと息を呑んだ後、声をやや固くしながら答えた。臀部に添えられた右手に力がこもる。


 カイは自身の左腕、紋章を店主に見える位置に掲げた後、深々と頭を下げた。彼が顔を上げると、店主の目線は、お店の看板に向けられていた。


「”あの”カイ様も大満足!と謳えないのは少し残念ですけどね……」


「私は料理に詳しいわけではないのですが……それくらいであれば構いません。むしろ、行きつけの店がある、とした方がこの場所を訪れる口実にもなりますから。」


 カイは困ったように微笑んだ。


 店主は、彼を見送るために店先まで出ると、その足で看板に書き加えた。『カイ様御用達の料理をご賞味あれ』と。


(もし侵入者が子供だったら、俺は……。いや今は。)



 次の日、カイの足は新たな目的地、ルナの家へと向かっていた。

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