6話:潜入
その夜、街の灯りが消え、静寂に包まれた頃、彼女は再び王宮の裏手へと向かっていた。
今日の目的は、豊穣祭の最中に仕込んだ目印の石を使い、王宮内部に侵入して雷神王の様子を探ること。もしチャンスがあれば……。
腰に隠した黒い短剣に手を触れる。冷たく確かな質量が存在感を示していた。
日中、ルナと過ごした穏やかな時間が、彼女の心を却って張り詰めさせる。任務に失敗した時のことを考えると、歩みを進める足が重くなっていく。
『あんたはその力を、何に使うんだい?』
不意に、酔っぱらいの女の言葉が頭をよぎった。
黒いローブのフードを深くかぶると、息を整えた。夜の風の音も、昼間の街の喧騒も全てが遠ざかる。
王宮の裏手に広がる庭園の端、人目につかない植え込みの奥。リリィは、そこに仕込んだ石と自身の身体を入れ替えるため、能力を集中させた。
次の瞬間、リリィは王宮の裏庭に立っていた。植え込みの陰から王宮の様子を覗き見ようとしたその時、微かな違和感に気づく。
(なんか昨日よりちょっとだけ埃っぽいような……。あ!)
王宮の最上階の廊下に、人影を三つ見つけた。そのうちの一つがよろめいて姿勢を崩し、もう二つの影が即座に近寄り、それを支えた。目を凝らして、焦点を合わせる。そこに立っていたのは、広場で見た雷神王と側近の二人だった。
彼らは近寄ったまま離れない。リリィは身を乗り出したい衝動を抑えて、じっと様子を伺った。
彼らの位置からは植え込みが障壁となりリリィの姿は見えない。しかし、男の鋭い視線は、正確に彼女の潜む場所に向けられていた。男は、雷神王の隣に控えていたもう一人の女に耳打ちをする。
(どうしたんだろう……?違う!気づかれてる……!なんで!?警報は鳴ってないのに!)
リリィが混乱する中、その視界から女の姿が消えた。ゾクリと、蛇に睨まれた蛙のように身体が硬くなる。背後から、殺気と共になにかが迫る。咄嗟に手甲で”それ”を受け止めた。鋭い衝撃音が骨に響く。女の拳を受け止めた右手がじんじんとした。
「あなたのような賊に、この国の平和を乱すことはできません。」
女は冷徹な声と共に、ただ淡々と右足でリリィの左脇腹を蹴り抜いた。骨の軋む音とともに、リリィは城壁までふっとばされ、打ち付けられた。
「うっ……がっ!」
あまりの衝撃に視界が歪み、うめき声には血が混じる。痛みは足から全身に広がり、内臓を揺り動かした。
砂埃が舞い上がる。間髪入れずに、女は追撃の踵落としを繰り出していた。
……しかし、そこにはもうリリィの姿はなかった。
「カイ!」
女は、振り向いて王宮を見上げる。
名前を呼ばれた男―カイ―は、一度手のひらを握ってから開くと、首を横に振った。
陽の光を浴びたような砂色の髪と琥珀色の目が、夜の闇に鋭く輝く。しなやかに身体に馴染んだカーキ色の軍服と、胸元を飾る勲章が、鍛錬の成果を物語る。腕まくりした左腕が、鍛え抜かれた筋肉と稲妻の紋章を誇示していた。
「リディア様、王宮内から侵入者の気配が消えました。我々も下に降りましょう。」
カイは、リディアを抱き上げると、自然な動作で、背中と膝の裏に両手をまわして横抱きにした。最上階から庭園の砂利に向かって飛び降りる。衝撃を吸収するように、ふわりと着地した。
「ありがとう、カイ。だけど、このくらい自分で動けるわ。」
リディアは、彼の腕から降りながら不満げな顔をした。皺のできたマントと長いドレスの裾をはためかせて、元に戻す。
「昨日お力を振るわれたばかりです。ご無理なさらないでください。」
カイは一歩も引き下がらず、彼女の隣に立った。
「そう……。セレス!貴方はどう思うかしら?」
リディアは助けを求めるように、もう一人の側近の名前を呼ぶ。
「リディア様の仰る通りと思いますが……今はそのようなことを気にしている場合ではないかと。」
意見を求められた側近の女―セレス―は抑揚のない声で言った。
肩丈の青みがかった黒髪は、その完璧な姿勢に乱れ一つなく、その下で冷たく輝く銀色の瞳は、感情を伺わせない。機動性を確保するべく深いスリットの入った黒いスカートから、右太ももの稲妻の紋章が覗く。
「まさかセレスの蹴りを受けて動けるやつがいるなんてな……」
カイは粉々になった城壁の一部を撫でた。
「いえ、少なくともヒビは入ってるはずです。何らかの能力を使って離脱したのでしょう。」
セレスは、確かな手応えの残る自分の右足を一瞥した。
彼らは、全神経を使って周囲の様子を探っていた。どんな些細な違和感も見逃さないように。
ふと、カイは、リリィが消えた場所に残された異変に気づいた。
「ファルムの森の石だ。なんでこんなところに……。」
彼は警戒しながら、その手で触れることなく石を持ち上げる。
「どこにでもある石ではないんですか?」
セレスは顔を寄せて覗き込んだ。掌に収まる小さな石灰色の石。特別なものには見えなかった。
「この国中の地質と石を、私はすべて把握している。この色と艶は、ファルムの森の奥にしかない。」
カイは、熱を帯びた声で告げたあと、わずかに肩を落とした。
「ただこれだけでは侵入者の素性まではわからないな……」
二人のやりとりを黙って聴いていたリディアが、ため息をついて呟く。
「セレス、カイ。門の衛兵達が集まってきてるわ。あまりことを大きくしたくはなかったのだけれど……。」
二人はリディアの前に恭しく跪く。
「御身の目前まで賊の侵入を許すばかりか、取り逃がすなど……このようなことは二度と……!」
セレスの後に、カイが続ける。
「リディア様、ご安心ください。必ずや捕らえてみせます。まずは私が、ファルムの森へ調査に行ってまいります!」
言い終わると同時に、カイは森へと駆けた。セレスが衛兵達に向き直り、落ち着いて指示を出す。
「王宮内に痕跡が残ってないか捜査をお願いします。どんな些細なことでも構いません。まだ近くに仲間が潜んでいる可能性があります。常に二人以上での行動を心がけてください。」
「この件は、国民にはいかように?」
指示を受けた衛兵が、喉を鳴らすような声で質問を挙げた。
「今は伏せてください。豊穣祭の直後に、いたずらに民の不安を煽ることは避けるべきです。」
セレスが表情一つ変えずに答えた。
リディアは、その場にいる衛兵全員の顔を、一人残らず見据えた。彼女の瞳が、その威光にひるむ衛兵たちの視線を、否応なく引きつけた。衛兵たちは、息を詰めて、雷神王の次の行動を待つ。
彼女はゆっくりと、重々しく頷いた。
衛兵たちは皆、肩から僅かに力を抜くと、一糸乱れぬ動きで、深々と敬礼をした。
リリィは、ファルムの森の奥深く、苔むした岩の上にぐったりと横たわっていた。
左腹部の激痛で姿勢を変えることすらできず、女の蹴りで骨が砕けたような感触が残っていた。だが、彼女を打ちのめしていたのは、全身に走る痛みだけではなかった。
『これは君にしか成し得ない。』
ヴァルカン将軍の言葉を思い出す。帝国軍でも才能を認められ、大人たちの中で一目置かれてきた。今まで任務に失敗したことはなかった。
しかし、結果は惨敗。能力による潜入も一瞬で露呈し、体術もまるで歯が立たなかった。任務を果たすためには、側近達を攻略する必要があることは明白だった。
リリィは、奥歯を噛みしめた。ルナに「またね」と約束したばかりなのに、こんな……。
じっと瞳だけを動かして、王宮の方角を見つめる。
(雷神王リディア……廊下に立つ姿は、確かにやつれているように見えた……)
一瞬だけ見えた、リディアの虚ろな表情が、リリィの脳裏に焼き付いていた。
それが、痛みと引き換えに得た唯一の収穫だった。