5話:静寂
豊穣祭の夜、リリィは寝つきが悪く、あてもなく夜道を散歩をしていた。
酒場の隣を通りかかった時だった。鼻をつくお酒の匂いを感じて足を止める。三十歳前後の女が、壁にもたれかかり、ぐっすりと眠っていた。その手には、大事そうに酒瓶が抱きかかえられている。
リリィは、酒場の横を通り過ぎてから、数歩歩いたところで振り返った。女の肩を優しく揺らしながら、話しかける。
「大丈夫?お姉さん、こんなとこで寝てたら風邪引いちゃうよ!」
(私はまた余計なことを……。ううん……。酔っ払いは口が軽くなる。何か面白い話が聞けるかも……)
「アイツはね!若い頃からバカでさ」
女は目を閉じたまま大声で喚き始めた。
「友達とつるんでくだらないことばかりしてた。でもそれが楽しいんだって。でも戦争で、皆死んじゃった。あいつも友達も皆修行して、能力を身に着けて……戦場で散っていった。」
肩からそっと手を離した。かけるべき言葉も浮かばなかった。
女は呂律の回らない舌で喚き続ける。
「アタシは、修行に耐えきれなかった。能力にも目覚めずアイツの隣に立つことすら許されなかった。消えちまいたいと思った!どん底だったよ!!」
「お姉さん、落ち着いて!夜だよ……。皆もう寝てる時間だよ。」
リリィは周囲を見渡すと、声をひそめてなだめる。明かりのついている家は見当たらない。
その時、女は目を見開いた。その瞳が映したのは、無力な少女の姿ではなかった。
「……あんた、先週広場で”能力”を使って子供を助けてただろ?」
それは、静まり返った夜でも聞き逃しそうなほどに低く小さな声だった。
リリィの顔から一瞬にして血の気が引く。広場の人間は誰もが雷光に気を取られていた。助けられた少年本人ですら、彼女が何をしたかを具体的に理解していたわけではなかった。気づかれるはずがないと高をくくっていた。
「大丈夫だ。あんなのアタシくらいしか気づかねぇよ。あんたはその力を、何に使うんだい?」
女は、リリィの返事も待たずに、またすぅすぅと寝息を立て始めた。
群青色の目から光が消える。
女の首に向かってゆっくりと手を伸ばす。
その手に震えはなかった。
指先が、女の肌に触れる寸前。ふと後ろを振り返った。父と母の優しい声が聞こえた気がした。今ではもう思い出せなくなった声が確かに聞こえた気がした。
彼女の手は、ぶら下がったままの女の頭を優しく撫でた。サラサラとした髪が指の隙間から流れ落ちる。
「ふぅ…………」
リリィは大きく息を吐いた。肺の中にあるものを全て吐き出してしまいたかった。
「ほら、お姉さん。こんな所で寝てたら、本当に風邪引いちゃうよ。」
女の身体を支えるように、そっと肩に手を回して立ち上がらせた。酔いつぶれた身体はぐったりと重く、その重みがリリィの心にずしりと染み渡る。
「…………ありがとよ。」
女は、弱々しい声でそう呟いた。
「豊穣祭は、終戦記念日でもある。毎年この日になるとアタシは……あいつにもう一度……」
リリィは肩をつたう熱い雫を感じながら、静かに歩き出した。夜の帳が降りた街路に、彼女たちの足音だけが響いていた。
豊穣祭から一夜明けた街は、まだ祭りの余韻に包まれていた。リリィは、王宮潜入の計画を頭の中で反芻しながら、朝食を済ませた。
身支度を整えると、待ち合わせをした広場へと向かった。広場には、まだ片付けられていない屋台がいくつか残り、子どもたちが楽しそうに遊び回っている。その近くで、彼女の姿を見つけた。
「リリィ!」
ルナは、リリィを見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「今日もシルフを探しに行くの?」
リリィがそう尋ねると、ルナは少しだけ頬を膨らませた。
「ち、違うもん!昨日は楽しかったね!でも、最後リリィの様子が少し変だったから、心配で……」
照れて赤くなった顔を隠すように逸らすルナの姿に、リリィは自然と笑みがこぼれた。
二人は、広場のベンチに腰を掛けた。
リリィは、彼女といると、偽りの紋章をつけた自分を忘れることができた。ただの「リリィ」として、この平和な日常の中にいる。
その感覚は、まるで麻薬のようだった。日常に触れる度に、さらに日常に求め溺れていく。過ぎ去った後に残るのは、いつも自己嫌悪だった。
「ごめん。私そろそろ帰らないと!このあと買い物を手伝うってお母さんと約束してるんだ!」
夕暮れが近づいてきた頃、ルナの言葉が、リリィの心を再び任務へと引き戻した。
「そっか……わかった。」
「うん、また明日も、会えるよね?」
期待に満ちた瞳に、リリィはうまく返事をすることができなかった。今日の夜、再び王宮に潜入する。明日自分が生きているかも、この国がどうなっているかも何も分からなかった。
「……またね」
リリィはそれだけ言って、ルナと別れた。
数刻後、彼女は王宮へと潜入する。