3話:雪解
この数日間、リリィは王宮への潜入を成功させるために、情報収集に明け暮れていた。王宮の裏門での張り込み、交代で帰宅する衛兵の尾行。気づけば、豊穣祭前日になっていた。
彼女は、小さなテーブルにところ狭しと並べられたメモを見渡し、満足気に頷いた。
メモを指でなぞる。裏門の張り込み、衛兵の交代時間、王宮の結界……情報を結びつけ、最適な侵入経路を導き出す。やがて、彼女の指は、豊穣祭の日程に止まった。ふと時計を見たリリィは宿を飛び出した。
大通りでは、衛兵達が豊穣祭の警備の最終確認をしていた。彼女はその横を足早に通り過ぎる。いつの間にか何かに引っ張られるように走り出していた。
ファルムの森に着いた時には彼女は少しだけ頬を上気させていた。
「遅いよ、リリィ!」
ルナは膝の上にちょこんと乗ったシルフの白い毛を撫でながら言った。
「ごめんね。色々と準備してて出発が遅くなっちゃって!でも……別に待ち合わせ時間に遅れたわけじゃ……。」
リリィは、ルナの隣に腰掛けると、シルフに触れた。もふもふとした毛むくじゃらから体温が伝わる。
「あ!早く私に会いたかった、とか?」
リリィはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ば、バカ!そんな訳ないじゃない!」
ルナの顔の色が一瞬にして変わる。明らかな照れ隠しに、リリィは思わず吹き出した。
「ルナの顔、いつも食べてる果実より真っ赤だよ。」
二人は辺りが暗くなるまで、取り留めのないことを話して過ごした。
「……明日の豊穣祭、リリィは誰かと行かないの?」
ルナが小指に巻き付けた長い髪を弄りながら言った、
「うん、私は別に……。一人で少し回ってみるくらいかな。朝は大事な用事もあるし……。」
「あ、あのね……私……」
ルナの声は震えていた。小さな手を握りしめ、唇をきゅっと引き結ぶ。言葉はそこで途絶えてしまった。
暗い海を羅針盤を手に進む。これまで、疑うことなくただ羅針盤の指す方向へと進んできた。今、羅針盤は濁った荒れ狂う嵐を指す。
その時、光が射す。
細く小さな弱い光。
羅針盤が光に照らされないよう、いや、光が羅針盤を照らさないように、それを背中に隠す。
いつの間にか、四方を嵐に囲まれていた。
揺らげば転覆は避けられない。
雨が強くなる。船が沈み始める。
それでも、舵をとると決めた。
リリィは俯いたルナの顔を覗き込む。
「私、豊穣祭初めてだから、ルナが案内してくれると助かるんだけど……。」
「……そんなに言うなら、私が案内してあげる!」
ルナは目を輝かせると、それを悟らせまいとふいっと顔を逸らした。横目でリリィの様子をそっと見つめる。
リリィは一瞬だけ顔を強張らせた後、優しく微笑みかけた。
「ありがとう。楽しみにしてるね。」
「じゃあ、明日お昼に広場で!約束だからね!」
「うん!また明日!」
手を大きく振るルナに、リリィも手を振り返した。
ルナとの出会いが、リリィの日常に彩りを取り戻し始めていた。
――翌日。
豊穣祭当日、街は朝から稲妻の描かれた旗で飾られ、普段の活気よりもまた一段と明るく、祭りの高揚感に満ちていた。
リリィは宿を出ると、人の流れに紛れ、王宮の裏手へと向かった。
高い城壁には等間隔の見張り台が配置されている。そこに配置された衛兵たちの視線は、遠く広場の方に向けられていた。それを確認すると、彼女は道端の荷車や木の陰に身を隠しながら、少しずつ、しかし確実に前へと進んでいった。
情報通り、裏手の警備は手薄だった。
警戒しながら、城壁に最も近い場所まで辿り着くと、リリィは立ち止まった。この先は、王宮の結界の内側だ。踏み入った瞬間に警報が鳴り響く。
隠し持っていた石を、じっと見つめた。体内で力を練り上げる。
能力を集中させると、石が微かに発光し、彼女の意思を刻み込むように脈打つ。それは、彼女の身体と入れ替わる準備ができた合図だった。
大きく腕を振り、その石を上に向かって投げた。
石は、放物線を描いて空を舞い、城壁の向こう側へと消えていく。石が地面につくその瞬間、彼女は転移能力を発動させた。彼女の姿が掻き消える。
そして、リリィは音もなく、城壁の内側に立っていた。城壁の外側には石だけが残された。
ほっと胸を撫で下ろす。警報は鳴らなかった。やはり結界は、人が通過する瞬間にしか反応しないらしい。
彼女はポケットから石をもう一つ取り出すと、急いで周囲を見渡した。
(この石を何処かに仕込まなきゃ。なるべく見つかりにくいところに!)
しかし、仕込める場所は限られている。王宮の敷地の深くまで行けば、手薄と言えど、いつ衛兵に見つかってしまうか分からない。
リリィは王宮の裏側に広がる庭園の端、人目につかない植え込みの奥に、力を込めた石をそっと置いた。この石を使えば、いつでも王宮内に潜入できる。目的を果たしたことに安堵して、大きく息を吐いた。
リリィは王宮に入るときに使った石と自分の位置をもう一度入れ替えることで、城壁の外に出た。彼女は、足早にルナの元へと向かった。