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2話:邂逅

 リリィは薄暗い宿の部屋で目を覚ました。窓のない部屋には朝日が差し込むこともなく、ランプの微かな光だけが、壁の染みをぼんやりと浮かび上がらせている。


 この数日間、一日のほとんどをベッドに横たわったまま過ごしていた。

 気づけば、買い溜めた食料が底をついていた。鉛のような体を起こし、簡素な身支度を整えた。鏡に映る自分に、「大丈夫」と笑ってみせた。



 木製の扉を開けると、少し離れた広場から、活気のある人々の声が、陽気な音楽と混ざり合ってかすかに聞こえてきた。広場に向けてゆっくりと歩みを進めていたその時、不意に背後から声をかけられる。


「ねえ、お姉ちゃん!」


 振り返ると、そこには見覚えのある幼い少年が立っていた。それは、エレクシアに潜入した日に、広場の落石から救った少年だった。少年は満面の笑みで、リリィに声をかける。


「この前は、お姉ちゃんが助けてくれたんだよね……?」


 少年はそう言って、握りしめていた手を広げた。その小さな手のひらには、可憐な白い花が一輪、大事そうに乗せられている。街の道端にも咲く、ごくありふれた花だった。


「雷の後落ち着いた時には、もうお姉ちゃんはいなくて……。お母さんと、ずっとお姉ちゃんを探してたんだけど、見つからなかったんだ。あのときは助けてくれて、ありがとう!」


 彼女は、差し出された花を震える手で受け取った。少年の透き通るような笑顔と感謝が、胸の奥の固く閉ざされた扉を叩いた。任務の重圧や、雷神王への複雑な感情、依然として扉の鍵は多い。それでも確かに、その扉を叩く音は、彼女の心と外の世界を繋ぐ架け橋だった。


「お姉ちゃん、またね!」


 少年は元気いっぱいに手を振りながら、人混みの中に消えていった。彼女はしばらく、その場に立ち尽くしていた。掌にある花の柔らかな感触が、これが現実のものだと告げている。


 花を胸に抱きしめると、その香りを深く吸い込んだ。彼女の心に仄かな明かりが灯る。


(私はまだ自分が何をしたいかもわからない。でも、今は先ずできることから……)


 この任務の先には、自分自身の心の光を見つけることができるかもしれない。そう思えただけで、その足取りは少しだけ軽くなった。




 リリィは心を奮い立たせ、任務の第一歩として、情報収集を始めた。

 王宮への潜入経路を探るためには、街の人々から情報を集める必要がある。


(ほんとは酒場に行けたら手っ取り早いんだけど……私はまだ入れる年じゃないし……。いつもみたいに地道に行くしかないかぁ。)


 人通りの多い大通りを歩き、老舗のパン屋へと向かった。焼きたてのパンを買い求める列に並び、店主の朗らかな声に耳を澄ませる。


「はい、どうぞ!いつものお代でいいですよ!豊穣祭では屋台も出すので、ぜひご贔屓に!」


 店主がそう言ってパンを差し出すと、客はにこやかに笑い、パンを受け取って去っていった。

 硬貨を差し出しながら、店主に問いかける。

 

「もうすぐ豊穣祭だよね?私、最近王都に来たばかりで、初めての豊穣祭なんだ!」


「なんと!それはぜひ楽しんでください!年に一度、豊作を感謝し、来年の恵みを祈る大事な祭りですからね。雷神王様も王宮から出てきて、国民に直接その御威光を示す日。今か今かと心待ちにしています。」


 店主は誇らしげに胸を張った。


「雷神王様を直接見れるの!?」


 リリィが明るい声で相槌をうつ。


「ええ!もちろんです。我々庶民が、雷神王様のお姿を最も近くで拝める貴重な日です。」


 店主はリリィの反応をうかがいながら上機嫌で話し続ける。


「そして、それは逆に、雷神王様が最も近くで我々民の生活をご覧になる日。町を盛り上げるのはもはや義務といってもいいでしょう!」


 隣で接客をしていた店主の奥さんが目を輝かせて言う。


「しかも、側近のお二人もいらっしゃるからね!エレクシアの双璧の献身は、王都の外でも有名でしょう?」


「うん!街の皆にも優しいんだよね?私も豊穣祭が待ち遠しくなってきた!」


 リリィはパンを受け取ると、大きく頷いてその場を後にした。



 豊穣祭。それは、雷神王が側近を連れ立って王宮から出てくる特別な日。警備が手薄になるであろう王宮に、”目印”を仕込む絶好の機会となる。



 彼女は、その後も多くのお店を回ったが、目ぼしい情報は得られなかった。

 日も暮れてきた頃、賑やかな市場から少し外れた通りにある、ひっそりとした武器屋へと足を運んだ。錆びついた鉄の看板が風に揺れ、店先には埃を被った剣や盾が並んでいる。店の中に入ると、年老いた店主が一人、静かに剣の手入れをしていた。


「いらっしゃい……って、珍しいお客さんだ。」


 店主は顔を上げて、少し驚いたように言った。


「こんにちは!少し防具を見たいなって。最近お客さん少ないの……?」


 リリィは、さりげなく会話を切り出した。


「最近?あぁ、まぁ、戦争終結後暫くは客も多かったが……。今は雷神王様がいるからなぁ。平和な国じゃ武器なんぞ、ほとんど売れん。」


 店主は閑古鳥の鳴く店内を見渡して、肩をすくめた。リリィは、手近な防具を身体に当てて試しながら、声をひそめて尋ねた。話を続ける。


「雷神王様のこと……恨んでるの……?」


「まさか!飢えと戦に苦しんだ時代に比べれば、天国のような日々さ。」


 店主は穏やかに微笑み、その膝に刻まれた稲妻の紋章をそっと撫でた。その目は、確かな信仰心に満ちていた。

 ふと手に取った手甲を右手に着けて、リリィは満足げに頷く。少し古いが手入れの行き届いたそれは、腕にぴったりと嵌っていた。


「王宮の兵士さん達は、お客さんにはなってくれないの?いつも夜遅くまで訓練してるよね?」


「そうだが……こんなしがない武器屋には来てくれんなぁ。お抱えの名工や職人がいるんだろうよ。王宮内は部外者が一歩でも足を踏み入れると、警報が鳴り響くらしいぜ。うちにはそんな凄い売り物はねぇよ。」


 老人は笑った。その屈託のない笑顔が、リリィの胸に小さな棘を刺した。胸中には、二律背反する感情が渦巻く。偽物の紋章をつけ、エレクシア人のフリをしながら、彼らの信仰の対象を抹殺しなければならないという任務。そして、この人々の平穏な生活が、その雷神王の力によって守られているという事実。


「ところで、お客さん、かなり鍛えてるよな?将来は軍人さんかい?」


 店主は、手甲を試すように右手を胸の前で構えたリリィを見ながら言った。


「……え?どうして?まぁ育ての親みたいな人が『強くなれ』って厳しかったんだ……。私は強くなりたかったわけじゃないのにさ。」


 リリィはあっけらかんと答えた。

 彼女は、潜入中もほとんど嘘はつかない。核心は伏せつつ、真実を語るのが最も安全だと本能的に理解していた。

 店主は右手を頭に当てて、首を横に振る。


「……いけねぇ。久々のお客さんだからってしゃべりすぎちまった。詮索しようってんじゃないんだ。……その年ですげぇなって思っただけだ。」


「ううん。大丈夫!おじいちゃんと話せて楽しかったよ!」

 リリィは手甲を購入すると、店主に感謝を告げて店を出た。



 彼女は、今日入手した情報を一通りメモに記すと、豊穣祭の日付に丸印をつけた。

 それでも……

 王宮の警報が鳴る条件と範囲は?

 豊穣祭での警備体制は?

 王宮の警備にマーキングを仕込む隙は本当にあるのか?

 考えるべきことはまだ山ほどあった。




 ――翌日。

 リリィはファルムの森の入口に立っていた。

 王宮の周囲を探るため、王宮の裏手に広がるこの森に潜入することにしたのだった。街の人から聞いた話では、王宮の敷地はこの森の奥深くまで伸びているらしい。だが、森と王宮の間には城壁がある。森にまで警報の仕掛けがあるとは考えにくい。


 深い森の入口は、街の喧騒から隔絶されており、一歩足を踏み入れれば、そこはもう別世界だった。鬱蒼と生い茂る木々の葉が太陽の光を遮り、薄暗い木漏れ日が、足元の苔むした岩を照らしている。風に乗って運ばれてくる草木の匂いが、彼女の心を落ち着かせた。

 森の中は、鳥のさえずりや、小動物が草むらを走り抜ける音だけが響いていた。注意深く周囲を観察しながら、森の奥へと進んでいく。道なき道を歩き、時折、小さめの岩に触れては力を込めて退路を確保した。


 彼女の能力は長距離の入れ替えになるほど体力の消耗が大きい。いつ警報がなっても離脱できるように準備を整えていた。


(やっぱり森までは警報の仕掛けはないみたい。警報の境界は、城壁なのかなぁ……)


 その時、リリィの耳に、微かに人の声が聞こえてきた。


「はぁ、はぁ……。もう、シルフのばか!こんなところまで来るんじゃなかった……」


 か細く、しかし、はっきりと聞こえてくる少女の声。リリィは警戒しながら、声のする方へと慎重に近づいていった。

 開けた場所にたどり着く。そこに、一人の少女が座り込んでいた。赤い果実を頬張りながら、小さな声で独り言を呟いている。背中まで伸ばした白みがかった金色の髪が夜でも存在感を示していた。


「お腹も空いたし……。早く帰らないと、お母さんに怒られちゃう……」


 少女はため息をつき、空を見上げた。その青い瞳は、まるで濃い霧が立ち込めているかのような、不安と寂しさに満ちていた。

 本来なら、任務とは無関係な一般人に干渉する必要などない。それでも……。バッグに入れていた一輪の花の感触を確かめる。

 リリィは、木の陰から少女の姿と自分の足元を何度も交互に見比べる。逡巡の末、彼女は声をかけた。


「どうしたの?」


「えっ……?だ、誰……?」


 少女はびくりと体を震わせて顔を上げる。リリィをじっと見つめ、後ずさる。


「ごめんね、驚かせるつもりはなかったんだけど。もしかして、道に迷っちゃった?」


 リリィは、一歩だけ彼女のそばに近づくと、穏やかな声で言った。


「迷ってないもん!ちょっと、シルフを追いかけてたら、こんなになっちゃっただけで……」


 少女の声は、震えていた。リリィは、そこに来るまでに見かけた小動物を脳裏に浮かべる。


「そっか……。シルフって、この森にいる白い毛のモモフした動物のこと?」

 

「うん!すごく可愛くて……。あなたも、もしかして……シルフを探してたの?」


 少女は嬉しそうに頷く。


「ううん。最近王都に来たばかりだから、探検してただけ!……暗くなってきたし、もう帰ろうかなって。怖いなら一緒に帰る?」


 喉から手が出るようなリリィの提案に、少女は少し考え込んだ。


「ふん。べ、別に怖かったわけじゃ……!で、でも、私もそろそろ帰ろうかなって。」


「やった!私、話し相手が欲しいと思ってたんだ。」


 リリィは、少女の顔を見つめて微笑みかけた。

 その澄んだ群青の瞳を見て、少女は、後ろに引いていた体をわずかに相手へと近づけた。リリィは肩を下げてゆっくりと息を吐く。そして、少女のそばに歩み寄り、優しく手を差し伸べた。


「私はリリィ。あなたの名前は?」


「私はルナ!よろしくね。」

 

 ルナは、リリィの手に自身の掌を重ねた。

 その熱は、リリィの皮膚から神経へと、電気信号のように強烈に駆け上がった。思考回路が、その熱で一瞬にしてショートを起こしたようにぐらぐらと揺らぐ。

 これは、触れてはいけないものだ。

 リリィは本能的にそう理解した。彼女はルナを立ち上がらせると、自らの手をそっと引き抜いた。



 二人は、森の出口へと向かう。『道を案内する』と言って数歩前を歩くリリィの背中に、ルナは話しかけた。


「ねぇ。リリィはこんな時間まで遊んでて家族に何か言われない?私は、お母さんがうるさくってさ。」


 照れくさそうに笑うルナに、それまでと声の調子を変えずに答える。


「私は……お父さんもお母さんもいないから。」


ルナは静かに息を呑むと、咄嗟に話題を変えた。


「そうなんだ……。じゃあ、お友達は?」 


「あんまり周りに同年代の子もいなかったから……。お家のぬいぐるみが唯一の友達かな、なんて!」


 リリィは視界の端で、草むらに隠れたシルフを捉えていた。彼女は、振り向くと口元に人差し指を当てながら、愛らしい小動物の居場所を指差す。

 ルナは、しゃがみこみ瞳をきらめかせて手を伸ばした。しかし、その手が触れる寸前、シルフは逃げ出してしまった。


「あ、行っちゃった……。」


 ルナは所在なさげに伸ばした手を下ろす。手を一度握りしめて開く。まだ先ほど握った手の温もりが残っている、そんな気がした。リリィに背を向けたまま、彼女は震える声で言った。


「リリィ……。わ、私がお友達になってあげてもいいよ?」


 リリィは言葉を失い、ルナの足元に広がる苔を見つめる。


(こんなこと許されるのかな。違う!これは、情報収集のため!でも……)


 暫しの沈黙が流れる。

 二人の間を風が吹きぬける。ルナの金色の髪がなびく。その隙間から一瞬覗いた耳は、真っ赤に染まっていた。


「私も……、友達になりたい。」


 それは首を絞められて窒息する直前に出すような声だった。




 二人で並んで、森の入口へと歩く。


「ね!そういえばリリィって何歳なの?」


「私?12歳だよ。」


「え、私と同じなんだ!」


「えー。12歳で迷子かぁ。」


「だから迷ってなかったってば!」


 二人の笑い声を、森の静寂が包み込む。

 二本の運命の糸が、静かに、だが確かに、交差した瞬間だった。

少し長いですが、ここまでがキリがいいかなと思いまして。

次からはもっとコンパクトで読みやすくなります。

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