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1話:残影

 七年前、国境付近。

 その日、雷撃が戦場を蹂躙した。

 その日、少女はすべてを失った。


 帰る場所が欲しい。






 ――数日前、アルスレイア帝国の司令室。


 分厚い扉が軋んだ音を立てて閉ざされる。

 静まり返った室内の空気が張り詰めていく。そこには、ヴァルカン将軍と、彼に忠誠を誓う数名の幹部が一同に会していた。中央のテーブルには、小さな漆塗りの箱が置かれ、その上には幾何学模様の細工が施された短剣が静かに横たわっていた。それは、ひどく禍々しく、生贄を捧げられた獣のようにも見えた。


「リリィ。君の次の任務は、」


 ヴァルカンの声は、普段の声より一層冷たく、そして重い。

 かき上げた褪せた灰色の髪の下から、鋭い銀色の瞳がリリィをじっと見据えていた。

 五十路を間近に控えた長身の身体には一分の衰えも見受けられず、汚れ一つない真っ白な軍服の下では、凝縮された筋肉が隆起している。


 幹部たちの息を呑む音が聞こえる。


「雷神王の暗殺……。これは君にしか成し得ない。やってくれるね?」


 リリィは、ヴァルカンをまっすぐに見つめ返した。彼の表情からは感情を読み取れない。しかし、その瞳の奥に、何かを押し殺すような痛みが一瞬だけ宿って見えたのは、気のせいだろうか。



 彼は短剣を手に取り、鞘を抜き放った。その刀身は、黒を幾重にも塗り込まれたかのように、金属特有の光沢を一切感じさせない。


「雷神王と言えど、その身は人間。君の能力で隙をついて接近して、”それ”を……。掠りでもすれば死に至る。」


 彼女は差し出された短剣を、震える手で受け取る。ひんやりとした感触が心臓まで染み渡った。


 幹部の女が任務の説明を続ける。


「まずは、王国へ潜入する手筈を整える。この箱に目印をつけなさい。」


 彼女はその女が運んできた木箱に力をこめた。


 一通り任務の説明が終わると、ヴァルカンは、リリィの肩にそっと手を置いた。


「リリィ、長い任務になる……。入念に準備を整えておくように。体調管理も怠たってはならないよ。」


 彼の手に力が込められる。


「はい……。」


 肩の痛みが、彼女の心をチクリと刺した。



 頭の片隅で、乾いた問いが木霊する。任務を終え、ここに戻ったとしても、また次の任務が始まる。私のしたいことは、こんなことだったのだろうか。

 答えはどこにも見つからない。

 ただ、与えられた使命を果たすこと。それだけが、今の彼女にできる唯一だった。



 司令室から出るリリィを見送ると、ヴァルカンは静かに口を開いた。


「例の件は順調かな?」


「はっ!リリィが軍に所属した痕跡は概ね抹消済みです!残るは、部屋の私物のみです。」


 幹部たちの口元に笑みが浮かぶ。

 ヴァルカンは、僅かに口角を上げて頷いた。


「リリィが任務に発ち次第、私物も全て廃棄しておくように。」




 司令室を出た後、リリィは重い足取りで私室へ向かった。

 薄桃色の壁紙に彩られ、可愛らしいぬいぐるみが並べられた部屋。そこだけが、唯一の「自分」でいられる空間だった。

 お気に入りの大きな茶色のぬいぐるみが、ベッドの縁でじっとこちらを見つめている。

 それは、かつてヴァルカンが、初めて任務に成功したリリィに与えたものだった。いつもなら迷わず抱きしめるその手に、今は力が込められなかった。胃の奥底には、まるで石が詰め込まれたかのような重い感覚が残っている。その日、軍から支給された大好物のオムレツにも、手をつけることはできなかった。




 ――現在。


 市場から歩いて10分ほどの場所に、宿屋が軒を連ねていた。焼きたてのパンの匂いに、嗅ぎ慣れない異国の香辛料が混ざり合い、旅人たちの喧騒が漏れ聞こえてくる。リリィは三軒目でようやく空室にありついた。窓のない、閉塞感のある小さな部屋だったが、それでも体を休めるには十分だった。


 部屋に入ると、迷うことなくベッドに体を横たえた。古びた枕を顔に押し当て、大きく息を吐き出す。微かに土埃の匂いがするが、それすらも今の彼女には心地よかった。張り詰めていた心の糸が、ゆっくりと緩んでいくのを感じる。天井を見上げると、木製の梁が薄暗い影を落としていた。


 今日の出来事が、走馬灯のように頭の中を駆け巡る。耳の奥深くでは、あの天を裂くような咆哮が未だ鳴り止まない。広場の石畳を震わせたあの振動も、肌に鮮明に残っていた。帝国にも雷鳴は轟く。しかし、エレクシアで間近に見たそれは、少女の心に深く深く突き刺さっていた。



 数日後、リリィは街に出た。

 その日は、潜入した日とは正反対の快晴だった。

 潤いを少しだけ失った唇に、どこか故郷を感じる。

 それでも、街の活気は、乾いた故郷とは比べるべくもない。店先から漂う焼き菓子の甘い匂い、道の脇に咲く可憐な花々、色とりどりの屋台が軒を連ね、道行く人々は皆、雷の紋章が刻まれた体を誇るかのように、胸を張り前を向いて歩いている。


 彼女は石畳に視線を落として街を歩いた。それでも。

 広場では、人々が楽しそうに歌っていた。

 雷神王を讃える、朗らかで力強い歌声が、澄み切った空に吸い込まれていく。

 リリィにはそれがただの音の羅列のようにしか感じられなかった。


「お母さん、今年もたくさんお野菜が収穫できたって本当?」

「ええ。リディア様の恵みは、私たちエレクシアの誇りよ。だから、豊穣祭も盛大に祝うのよ。」


 親子の会話が、自然と耳に入る。雷神王の威光を目の当たりにする度に、リリィは打ちひしがれた。自分の内側に広がる空虚さが、周囲の眩しい輝きを吸い込んでいくかのようだった。


「おい、嬢ちゃん。下向いて歩いてると危ねーぞ。」

 リリィとぶつかりそうになった体格の良い男が言った。ぶっきらぼうな言葉使いとは裏腹に優しい声だった。


「あ……ごめんなさい。」

 彼女は反射的に詫びた。


「いいってことよ。でも気をつけろよ?嬢ちゃんが怪我したら、雷神王様だってお悲しみになられるぞ。」

 男は、広場の中央に視線を向けながらニッと笑った。


 重い足取りで買い出しを済ませ、宿へと戻った。

 テーブルに市場で買った色彩豊かな食材を並べる。瑞々しい果実の甘みを噛みしめた。


 贅沢な宿とは言えないが、豊富な水が惜しみなく使える。

 湯気の立ち上る湯船に身を沈める。

 一人でなら膝を伸ばして入れる大きなお風呂。

 故郷では貴重品だった水をふんだんに使える環境には、確かな解放感があった。

 だが、それすらも雷神王が呼んだ雷雲による恩恵だと知れば、素直に喜ぶことはできない。


 目元を撫でるように流れる温かい蒸気に、自然と瞼が落ちていく。


 微睡みの中で、幻想を見た。

 頭を撫でる大きな手。

 出来立てでふわふわのオムレツ。


 天井から、一滴の水滴が、肩に向かって落ちた。

 その瞬間、リリィは目を見開き、頭を肩を体全体を大きく震わせた。光を失った群青色の瞳から涙が伝い、浴槽へと静かに流れる。


 七年前、一人で家の中から見た遠くの雷。

 その後降り始めた、長く冷たい雨。


「っ……!!はぁはぁ……」


 指の隙間から零れ落ちていく砂のように、抗いようのない寂しさが募っていく。



 どれくらいの時間が経っただろうか。

 湯船から立ち上がると、沈む気持ちに反して、温もりに包まれた身体がふわりと軽く感じられた。

 湯気で少し上気した頬を、手のひらでそっと冷ます。鏡に映る自分は、いつもより少し幼い顔つきに見えた。

 用意されていたタオルを手に取り、濡れた髪を丁寧に拭いていく。使い古された硬いタオルだったが、それでも心が落ち着いていくのを感じた。


 リリィは温かい飲み物を準備すると、ランプの火を少し大きくした。テーブルに広げた地図の上で、王宮の位置を確認する。

 広場で見た雷神王の像は、国民を包み込むような慈愛に満ちた表情をしていた。資料に記されていた悪辣な顔つきとはまるで違う。

 彼らがここまで崇める雷神王とは、一体どんな王なのだろうか。その問いは、彼女の心に新たな波紋を投げかけた。



 時折、数日前の雷鳴が、記憶の奥からフラッシュバックする。轟音と閃光、そして、広場を震わせた振動。幸い、この数日間エレクシアの空が荒れることはなかったが、頭の中には、その残響がこびりついていた。


 残響が鎖となって、彼女の足を大地に縫いつける。しかし、鎖は一つではなかった。任務を進めなければならないという義務感が、呼吸にも等しい当然の、だが重い鎖となって彼女の身体を絡め取り、引きずる。


「明日こそは、調査を開始しなきゃ…………」



 もう一度ベッドに横たわる。

 長距離の移動による肉体の疲労は既に癒えていた。だが、光の差さない暗く湿った部屋が、彼女の心に巣食う重苦しさを癒すことはなかった。


 彼女が求める光は、まだ見えない。小さな少女は、暗闇で藻掻くことしか許されていなかった。


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