10話:大樹
リリィは拠点を宿屋から街の外れにある古い風車の小屋に移していた。
人目につかないその場所は、アルスレイア帝国の工作員として身を隠すには最適だった。
開けた周囲は、尾行や監視の難しさを物語っていた。
王宮への直ぐの再侵入を諦め、傷が完全に癒えるまでは、情報収集に専念していた。
彼女は、情報収集の傍ら、ルナとの訓練を始めていた。
ルナは、森で会うたびに、リリィに「修行」をせがんだ。毎日の訓練でヘトヘトになりながらも彼女は決して音を上げることはなかった。
「リリィ先生、今日は何を教えてくれるの?」
ルナが、目を輝かせながら言う。
「今日は、いつも通り私から逃げる練習をやろうか。」
「……わかった」
ルナの歯切れの悪い返事に、リリィは聞き分けの悪い子供を諭すように続ける。
「ルナ……。言ったでしょ?一番大事なのは生き延びること。逃げる技術より大切なことなんてないよ。」
「違うの!別に不満があったわけじゃなくて。でも、私も早くリリィを守れるようになりたいんだ……」
「じゃあ、その後に体力が残っていれば短剣の投擲をしてみる?」
リリィは左手に持った短剣を慣れた手つきでくるくると回した。
「短剣の投擲……」
初めての武器を使った訓練にルナの声に緊張の色が混じる。
「うん。大きな刀や、盾は私達子供には扱いづらいからね。それに的確な投擲をマスターすれば、私の援護もできるようになるよ!」
リリィが短剣を構える。
「待って!そっちはダメ!そっちには、天霆の大樹があるの!」
ルナが焦ったように止める。
「テンテイノタイジュ?」
聞き慣れない言葉を、そのまま繰り返した。
ルナは一際大きな木を指差した。
幹は、大人が十人で手を繋いでも囲えないほどに太い。その枝は絡み合うように伸び、巨大な毛細血管のような複雑な構造を形成していた。
「そう!エレクシアの長い歴史を建国から見守ってきた凄く大きな木。今は知らない若い人も増えてきちゃったけど、それでも大事な木なんだ。大切にするっておじいちゃんと約束したの!」
ルナは祖父との思い出を懐かしむ。
「ルナって、約束にこだわるよね。」
リリィは木のてっぺん付近にある鳥の巣を見つめる。
雛鳥が、親鳥に餌をねだるようにピィピィと鳴く。
「私は、うまく言葉にできないから……。だから、約束を守ることで、ちゃんとあなたのそばにいるよってことを伝えたいの。約束って、言葉がなくても伝えられる、大切な気持ちだと思うから。」
(約束は気持ち……)
リリィはその言葉を聞いてぽかんと固まった。
雛が一生懸命に餌を喰む。
「どうしたの……?私、笑うならリリィでも許さないから。」
ルナの瞳は、リリィに修行を頼んだときと同じ、真剣な色をしていた。
「ううん、私は……。」
(私はアルスレイア帝国のリリィであることをやめることはできない。)
頭の中のもう一人の自分が、少女に現実を突きつける。しかし、眼前の青い瞳が、その声をかき消すほどに、リリィの心を揺さぶっていた。
(それでも、この気持ちは、今の私の正直な気持ちなんだ)
「私はルナを守る。約束するよ。」
「それなら私も約束する……!
今はまだ無理かもしれないけど、もっと強くなって私もリリィを守る。」
それは、任務ではなく、拘束力もない。しかし、天霆の大樹の前で交わされたその誓いは二人の繋がりを、何よりも確かなものとして決定付けた。
その日の訓練を終えると、リリィは短剣をベルトにしまった。
二人は暗くなるまでの間、いつものように会話をしていた。
話題は日常のことから、戦いに関するものが増えていた。しかし、それでもルナとの語らいは、リリィの心を解きほぐす温かな時間だった。
「ねぇ、このまま修行を続けてれば、いつか私も能力に目覚めるのかな?」
ルナは目を輝かせながら尋ねる。
「うーん……能力に目覚めるためにはもっともっと厳しい修行が必要かなぁ……」
リリィは、赤い果実を短剣で切り分ける。
「そっか……大変だね……。ね!私はどんな能力になると思う?あ、ありがとう!」
ルナは切り分けられた果実を受け取ると美味しそうにかじりついた。甘い香りが口の中から鼻まで広がる。
「顔を真っ赤にして火を吹く能力とか?」
リリィは、彼女の大きく膨らんだ頬を見ながら言った。
「……もう!またバカにして。」
ルナの頬は、果実を飲み込んだあとも膨らんだままだった。
「ごめん、ごめん、冗談だってば」
リリィは短剣をしまうと、両手を上げて降参のポーズをとった。
「でも、もしかしたらリリィと同じ能力になったりして!」
髪につけた赤い髪飾りが揺れる。
「あー……どうだろう?私とルナが出逢えた確率くらいにはあるかもね!それに、同じ時代に一人だけなのは雷の能力者くらいだから可能性はゼロじゃないよ!」
リリィは、もし同じ能力に目覚めたらどんな『修行』をしようかと夢想した。
「あ、ていうかまだ能力見せてもらってない!」
ルナの身を乗り出す姿に、リリィの心が少し痛んだ。しかし、帝国の工作員として能力を無闇に明かすわけにはいかない。
「私の能力はね……」
「……秘密!」
「ケチ!」
ひとしきり笑った後、ルナは話題を変えた。
「そういえばさ、リリィってやっぱり国王軍の訓練生だったりするの?」
「ううん。私はそういうのじゃなくて。育ての親に鍛えられただけだよ」
リリィは事実を隠しながらも正直に答える。
「そっか。カイさんが探してたから、実は国王軍の有名人なのかなって思っちゃった……あっ。これ秘密なんだった……」
ルナは、慌てて口元を手で覆った。
「カイさんが……?」
リリィの声は、平坦な響きを帯びていた。しかし、その瞳の奥には、鋭い警戒の色が宿っている。頭の中で、様々な思考が駆け巡る。
「ごめん!気にしないで。アレから何も聞かれてないし多分大したことじゃなかったんだと思うよ!今日もありがとう、また明日!」
ルナは、リリィの返事を待たずに走り去った。
「うん……また明日。」
リリィは、その場に一人立ち尽くしていた。