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序章:潜入

 七年前、国境付近。

 その日、雷撃が戦場を蹂躙した。

 その日、少女はすべてを失った。


 帰る場所が欲しい。








 昼下がり、微かにカビの匂いが漂う薄暗い脇道。

 人影はなく、乱雑に積み上げられた木箱が放置されている。

 刹那、その一つが消え去った。そこには一人の少女が立っていた。その少女―リリィ―は、荒れた息を整えると、辺りを見回した。

 活発な印象を与える短めの栗色の髪に、澄んだ群青の瞳。線は細いが、その全身からは溌剌としたエネルギーが溢れていた。


「よかった……潜入成功……!!」


 胸の前に掲げた拳は固く握られている。やがて肩から力が抜け、弛緩した身体が次に主張したのは空腹だった。研ぎ澄まされた聴覚が、市場の方角から、微かに、しかし、確かに聞こえてくる賑やかな声を捉えた。


(次は情報収集…………だけど、その前に少しだけ、寄り道してもいいよね?)


 リリィは、ぺしゃんこになったお腹にそっと手を当てた。彼女の視線が大通りに吸い寄せられていく。張り詰めていたはずの空気が、まるで溶かされるように僅かに緩んでいく。その表情には、年相応の好奇心と、周囲への警戒心が同居していた。



 そこは、彼女の故郷――乾いた大地に陽光が降り注ぎ、人々の声が押し殺されるかのように静まり返った帝国とはまるで違う、活気に満ちていた。焼きたてのパンの甘い匂い、商人の朗らかな呼び込み、行き交う人々の屈託のない笑顔。肌で感じる熱気。髪の先までぴょんと跳ねさせる純粋な高揚に、リリィの足取りは僅かに軽くなった。


「はい、お釣り!……ん?お嬢ちゃん?」


 差し出された硬貨を受け取る。ふと目に入った男の首筋から、慌てて目を逸らした。


 道行く人々の身体のどこかには、青白い稲妻の紋章が刻まれている。リリィは自分の右手の甲に視線を落とす。


(帝国に貰った偽装紋……。バレて……ないよね?)



 焼きたてのパンを片手に広場へ向かう。温かな香ばしさが口いっぱいに広がり、心がささやかに安らいだ。しかし、人々の楽しげな声が、徐々にその安らぎをかき乱す。


 パンを握りしめた手を無意識に隠す。

 この人たちはなぜ、こんなにも満たされているのだろう。


 故郷の空は、いつも雲ひとつない青空だった。だが、そこにいた誰もが、空っぽの目をしていた。まるで生きたまま、砂漠に埋められた亡霊のように。

 ここには、あの青空はない。厚い雲がどこまでも続き、太陽の光は一筋も差し込まない。それでも、彼らは笑っている。


 リリィは、目の前の灰色の空の下の笑顔に、故郷の青空の下の疲弊した顔を重ねた。どちらが本物で、どちらが偽物なのか、分からなくなる。


 彼女は空を見上げ、深く息を吸い込んだ。

 喉の奥が詰まる。

 手のひらを何度も開き閉じる。それは、生まれたばかりの赤子の無秩序な腕の動きに似ていた。


(私の任務は……。だけど、もし、いつかこの力が、私自身の行きたい場所へと連れて行ってくれるのなら…………。)


 その一瞬、灰色の空の向こうに、自分だけの、まだ見ぬ光が射したような気がした。



 ため息をつき、視線を正面に戻す。広場の中央に人だかりができていた。その先に、5メートルはあろうかという巨大な女性の像が立っていた。

 羽織っているマントは、細やかな刺繍まで再現されており、頭には稲妻を思わせる精巧な装飾の王冠が添えられている。

 近づき、その顔を見上げる。


 ポケットから、お釣りとしてもらった硬貨を取り出す。同じ女性の顔が刻まれている。歳は二十代半ば程度だろうか。


(そっか……。やっぱりこの人が、偵察資料で見た帝国の敵、エレクシアの雷神王……)


 資料に記されていた悪辣な顔つきと見比べる。




 その時、空気が微かに震え、人々の笑顔に緊張の面持ちが混ざる。リリィの背筋に、ぴりりとした静電気が走った。


 次の瞬間、空を切り裂く咆哮とともに鋭利な黄色い閃光が世界を染め上げた。

 広場の石畳が、心臓の鼓動に合わせて波打つように震えた。足の裏から伝わる振動が、胃の腑を直接鷲掴みにする。


「うっ…………!」


 姿勢を崩し、声にならない呻きとともにリリィは膝をついた。


 広場中央の像の台座から、古びた石の破片が一つ、乾いた音を立てて剥がれ落ちる。それは、雷の衝撃による微かな共振が、長年の風雨に晒された石にとどめを刺したかのようだった。

 20cmほどの破片は、震える少年の頭上めがけて、ゆっくりと落下していく。リリィは、意識するよりも早く動いた。


(今はこれしかない!)


 咄嗟に、握りしめていた硬貨に力を込める。そしてそれを、落ちてくる破片の軌道上へ勢いよく投げつけた。硬貨が石の隣をすり抜け、少年の頭上を通り過ぎた、その刹那――、リリィは、音もなく少年の背後に立っていた。

 彼女がいた場所では、硬貨がカランと軽やかな音を立てて石畳に落ちる。



 石の落下地点に躍り出たリリィは、人のいない方向に向かって、落石を弾き飛ばした。それは、目にも留まらぬ早業だった。

 ズシンと、広場の片隅で鈍い音が鳴る。


 人々は、硬直したまま動かない。彼らの視線は、ただひたすらに、過ぎ去った雷光の残滓を追い求めていた。落石の音でさえ、その絶対的な存在感の前には、あまりに取るに足らないものだった。


「雷神王様……」


 近くにいた老人が、両手を胸の前で重ね、像を見上げていた。彼のこめかみを伝う一筋の雫が、熱を帯びて冷え切った頬を濡らし、顎へと滑り落ちる。

 その背後で、幼い少女が両腕で自分を抱きしめ、細い肩を震わせていた。


「大丈夫だよ……。」


 リリィはしゃがみ込み、少女と目線を合わせながら優しく語りかけた。少女の瞳には、稲妻の残像が焼き付いていた。だが、そこに怯えはない。むしろ、上気した頬と大きく見開かれた目には、恍惚とした陶酔さえ感じられた。


 少女と同じ方向に振り返る。雷神王の像は、民を見守るように、慈愛に満ちた表情を浮かべていた。右手を左腕に這わせる。ぞわりと全身に走った鳥肌は、圧倒的な体験が残した生々しい残響だった。



 静かに時間だけが流れる。やがて、雷雲から一粒、またひと粒と、雨が降り始めた。未だ人々は膝をついたまま動かない。


 濡れた髪が額に張り付く。その重みが、彼女をさらに深く、どん底へと沈めていく。


「……冷たい。」


 リリィは、静かに呟いた。その声は、降り続く雨音に掻き消され、誰にも届くことはなかった。

 それは畏怖とも恐怖とも異なる、不協和音の震源まであまりに遠すぎると悟った絶望だった。


 脳裏に、自身の『任務』が蘇る。先ほどまで微かに見えていた淡い光は、雷光の前に霞み、覆い隠された。


(私には”本当に”行きたい場所なんて……)


 喉の奥に渇いた鉄の味が広がる。


 ―私の任務は……雷神王を葬り、この国に動乱をもたらすこと―


 ここは雷が全てを定め、雷だけが真実を語る場所。

 灰空の下、その小さな影は、あまりに無力だった。





 ――数時間後。その日の夕方。

 降り続く雨が、広場をぬらしていた。


 金色の長い髪をなびかせながら、白いワンピースに身を包んだ一人の少女が広場を歩いていた。


 広場の端で鈍く光る”何か”を見つける。それがまるで自分を呼んでいるかのように感じ、屈み込む。


(誰かの落とし物かなぁ?)


 少女は、落ちていた硬貨を拾うと、手で軽く雨水を拭った。立ち上がり、迷いなく目的に向かって歩き始める。誰に聞かせるでもなく小さくつぶやいた。


「落とし物は届ける。お母さんとの約束だもんね!」 



 詰所は、広場から少し歩いたところにあった。衛兵に硬貨を差し出す。


「広場に落ちてた硬貨を届けに来ました!」


 衛兵は、壁に掛けられた暦表に目を向けると、申し訳なさそうな表情をした。


「ありがとう……。でも、今はみんな豊穣祭の警備の準備で忙しくてね……。良かったらお嬢ちゃんが持っててくれないかな?」


「え……でも……」


「大丈夫!もし落とした人が現れたら、お嬢ちゃんが預かってくれてるって伝えておくよ。」


 衛兵は微笑みながら言った。


「わかりました……。」


 少女は、硬貨をポケットにしまうと、衛兵に深々とお辞儀をして詰所を後にした。



 この日、少女は”何か”を手にした。


最後までご覧いただきありがとうございます。

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