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第九話:『天秤の傾き』

第九話:『天秤の傾き』

兗州の統治が軌道に乗り、民の暮らしが目に見えて安定してきたある日のことだった。政庁では、今後の兗州の統治方針について、激しい議論が交わされていた。

口火を切ったのは、陳宮だった。彼は、自らが作成した詳細な竹簡を広げ、熱を込めて語った。

「孟徳殿。今、我らが為すべきは、民の心を掴む『徳治』にございます。先の戦乱で疲弊した民に対し、さらなる減税を施し、流民には手厚い保護を与えるべきです。民が心から我らを信じ、この地を故郷と思えるようになってこそ、真の国が生まれるのです」

その言葉に、多くの将が頷いた。だが、その意見に真っ向から反対する者がいた。漢王朝の中枢から曹操を見出し、彼の元へ馳せ参じた軍師、荀彧であった。

「陳宮殿の理想は、まことに素晴らしい。なれど、今はまだその時期ではありますまい」

荀彧は静かに立ち上がると、曹操に向き直った。

「丞相。我らの周りは未だ敵だらけにございます。今は富国強兵を最優先とし、効率的な徴税によって軍備を整えるべきです。民への情けは、天下を安定させた後でも遅くはありませぬ。今は、非情とも思える法による統治こそが、結果として民を救う道となるのです」

政庁内は、陳宮の説く「徳治」と、荀彧の説く「法治」を支持する者たちで二分された。陳宮は、荀彧の合理性に反論した。「荀彧殿、民の心なくして、どうして強き軍が生まれましょうか! 心なき法は、ただの圧政にございますぞ!」

皆の視線が、裁定者である曹操に集まった。曹操は、しばらく腕を組み、目を閉じていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「…公台の理想は正しい。荀彧の現実もまた、正しい。だが、今は荀彧の言う道を選ぶ」

曹操は陳宮の顔を真っ直ぐに見て続けた。

「公台、気持ちは分かる。だが今は速度が命なのだ。まず天下を安定させねば、お前の言う徳を施すことすらできぬ。分かってくれ」

陳宮は、その言葉に一定の理を認めざるを得なかった。だが、彼の心には、冷たいものが広がっていくのを感じていた。「天下」という大義名分のもとで、一人ひとりの民の心が、数字として扱われ、軽んじられていく。このままでは、いつか取り返しのつかないことになるのではないか。

さらに、曹操が掲げる「唯才是挙」の方針も、陳宮には危うく見えた。家柄や品行を問わず、才能のみで人材を登用する。それは革新的に見えて、陳宮が学んできた儒学の教え、「徳を欠いた才は、国を滅ぼす」という警句を無視するものだった。

この日、陳宮は、曹操と共に目指しているはずの国の形に、わずかだが、決して埋めることのできない決定的な亀裂が生じ始めていることを、はっきりと自覚したのだった。

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